Daily Archives: 2021/01/01

崩れた安全神話 「脱原発依存」で新産業創出を 会田・前新潟県柏崎市長 via 毎日新聞

 中越沖地震と東日本大震災。柏崎刈羽原発の立地市長として二つの災害を経験した前新潟県柏崎市長の会田洋さん(73)に、当時の対応や、原発に対する考えを聞いた。【内藤陽、井口彩】  --原発に対する考えに変化は?  ◆市長に就任した時、1号機の運転開始から19年たっていた。地元には原発を巡る推進と反対の長い抗争の歴史があり、市民が一つにまとまりにくい状況が今も続いている。就任までは大きな事故もなく、市長としては「あくまでもまちの安全性を確保しながら、原発と共存する」というスタンスだった。  しかし福島第1原発事故が大きな転機になった。原発は安全で事故もないとされてきたが、実はそうではなかったことが誰の目にも明らかになり、市民の意識も大きく変わった。それからは「安全性を第一にしながら原発を徐々に減らし、将来的には原発に依存しないまちにしなければいけない」と考えるようになった。 […]  事故が進むにつれて柏崎市に続々と避難者が集まった。一時は2000人超と県内で最も多くなった。原発から逃げるのに、なぜ避難先が原発のある柏崎なのか。当初は分からなかったが、避難者には原発関係者が多いことが次第に分かってきた。以前に柏崎で原発関連の仕事をしていた▽夫は福島だが家族は柏崎にいる▽仕事上の知り合いがいる――などの人々だ。福島と柏崎の両方を行き来して、柏崎に土地勘があったのだろう。  市では被災者サポートセンター「あまやどり」を設置。見守り訪問や交流の場の提供などの避難者支援にあたったり、福島原発の立地4町に支援のため職員を派遣したりした。  --なぜそこまで避難者の受け入れに尽くしたのか  ◆柏崎市、刈羽村と4町とは同じ東電の原発がある縁で、以前から年1、2回持ち回りで交流を続けてきたので、ひとごとではなかった。4町は全く推進一色で、「柏崎には原発反対の人がいて大変だね」と冷やかす町議もいた。その人たちが被害を受け、心中いかばかりだったか。避難先に町長を訪ね、避難者の惨状を目の当たりにして、避難者が何人来ようと、なんとかしなければいけないという思いだった。 […] 全文

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「これで家を壊せる」 福島原発事故後の〝帰れない村〟を映像に、撮った写真家の心に残る住民の言葉 via Withnews

東日本大震災から今年で10年。福島第一原発事故の後、福島県ではいまだ人が住めない「村」があります。浪江町津島地区(旧津島村)。人口1400人ほどだった山あいの集落は放射線量が高く、今も帰還困難区域に指定されています。その地区を一戸一戸、ドローンで空撮するプロジェクトが2019年6月から1年がかりで行われました。「ふるさとの映像を何とかして残したい」。住民の熱意を受け、全520戸の撮影を担当した野田雅也さん(46)に話を聞きました。(withnews編集部・丹治翔) (略) 住民の結びつきの強さ ――全ての撮影が完了するまで約1年かかりました。 映像に残す方法として、「津島地区全体として空撮」「全520戸を一戸ずつ撮影」の二通りがありました。撮影前に、住民がつくった「ふるさと津島を映像で残す会」に尋ねたところ、選んだのは「全員の家を撮る」ことでした。 帰還困難区域ですので地区への入り口は今もバリケードが置かれ、撮影にも役場や警察の許可を得る必要があります。滞在時間も限られますので、手間も費用もかかる。実際、地図を見てドローンを飛ばしたけど、草木が生い茂って一度では住居を探せなかったときもありました。 それでも全ての家を撮影できたのは、「一つも撮り逃したくない」という残す会の強い思いがあったからでした。 撮影中、「ここはねえ、○○ちゃんがいてね。隣の家は○○ちゃんでね……」とみなさん名前で呼び合うんです。 津島地区は周囲を阿武隈山系に囲まれていて、集落の結びつきが強い。1年間で延べ1カ月以上の撮影をしましたが、同行した住民たちが毎回、ふるさとへの思いを語ってくれました。 1年かかったのは、「桜を撮りたい」という要望があったからです。山を切りひらいて建てた家に植えられた桜は、毎年きれいな花を咲かせていました。撮影のスタートが初夏だったので、最後に満開の桜を撮れるよう進めていきました。 撮影で気持ちに区切り ――印象に残っていることは何ですか。 自宅の撮影に同行した女性が「これで家を壊せる」と言ったんです。避難からもうすぐ10年。「ふるさとへ戻りたい」と願っていた人たちの中にも月日が経つにつれ、あきらめの気持ちが出ている人もいます。 ある男性は「避難先で生活の基盤を築いた息子は『もう帰らない』とはっきり言っている。津島の歴史は私の代で終わりです」と話しました。 プロジェクトは空撮だけではなく、住民にインタビューをしたり、津島の自然や伝統芸能を撮ったりもしました。後世にも伝えることができる「ふるさとの記憶」を映像に閉じ込め、自分の気持ちに区切りをつけていた住民の姿が今も心に残っています。 全文は「これで家を壊せる」 福島原発事故後の〝帰れない村〟を映像に、撮った写真家の心に残る住民の言葉

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Only 30% of Fukushima residents happy with disaster recovery progress via Kyodo News

Nearly 10 years after the 2011 earthquake-tsunami and nuclear disasters in northeastern Japan, only 30 percent of Fukushima Prefecture residents say reconstruction has been sufficient, a Kyodo News survey showed Thursday. The figure was notably lower than 80 percent in … Continue reading

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