中間貯蔵予定地に妻の墓 原発に故郷追われる苦しみとは via 朝日新聞

東京電力福島第一原発事故により福島県内の各地で出た大量の除染土は、原発が立地する二つの町の施設で保管されている。法律で県外処分が約束されるが、先は見えない。東京ドーム340個分に及ぶ施設の用地交渉に関わる環境省の地元責任者だった小沢晴司さん(59)には、退官した今も心に残る住民の姿がある。

おざわ・せいじ 1961年、東京都生まれ。86年、北大農学部卒業、環境庁(現・環境省)入庁。磐梯朝日国立公園管理官(裏磐梯)などを経て、2012年8月から20年7月に環境省を退官するまで、福島環境再生本部長などとして除染に携わる。同年8月、公立宮城大学教授に就任。福島大客員教授も務める。博士(環境科学)。

 ――1986年に環境庁(現・環境省)に入ってまもなく、チェルノブイリ原発事故が起きました。

 「事故後は世界中に放射性物質が降り、事故が起きた一帯は立ち入り禁止になりました。それで当時、上司に『日本で事故が起きたら、どう対応するのか』と質問しました。上司は『日本ではそういう事故は起こらないから、心配しなくていいよ』と言いました」

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――当時、原子力はどんなイメージでしたか。

 「学生時代、大学が管理する北海道幌延町の森で調査研究をしていました。町は当時、原発を運転すると出る(「核のごみ」と呼ばれる)高レベル放射性廃棄物の処理施設を誘致しようとしていました。長期管理が必要な廃棄物を生み続ける原子力は、人の手に余るのではないかと感じていました」

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――当時、放射線量を下げるため、どう除染を進めるかが大きな課題でした。国直轄の除染は、17年3月までに完了した分だけでも県内11市町村の農地など計約1万8千ヘクタール、宅地2万3千件に及びました。

 「12年、建物や農地の除染の同意をもらうため、環境省の職員が県内外の避難者を一軒一軒回り始めました。国の職員が回るのはこれが初めてでしたから、賠償額のもとになる避難区域の区割りの不満など、避難者からすべての苦しみを投げつけられました」

 「県内外の避難先に車で行き、面会が夜や土日になることもあるなか、最初はなかなか除染の同意が得られず、職員は疲労困憊(こんぱい)になっていました。同様の仕事を長く務めてきた組織なら対応できるのでしょうが、私たち幹部にも、そんな経験はありませんでした」

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 ――15年からは、福島県内の除染で出た土などを運び込む中間貯蔵施設(同県大熊、双葉両町)の用地交渉も始まりました。地権者の住民らは、環境省に土地を売るか、所有権はそのままで使用料を取って貸すかの選択を迫られました。

 「私が直接、交渉に行った男性は『わかりました。ただ、(建設予定地の中に)共同墓地があるので、中間貯蔵施設ができるまではお参りをしたい』とおっしゃいました。共同墓地には男性の奥さんのお骨がありました。奥さんが亡くなったのは震災後で、それでも(建設予定地の)共同墓地にお骨を置くわけです。男性は強い言葉で言ったわけではないですが、大変重い意味があるのだと思い知らされました」

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――中間貯蔵施設除染土は、45年3月までに搬出して県外で最終処分すると法律で定めています。しかし、搬出先は決まっていません。

 「いまは県外に搬出する土壌を減らすため、(農地造成や公共工事に使う)再生利用を進めているところです。搬出される土壌の量がどれぐらいになるのか、わからない段階で、どこかの自治体が無条件で受け入れるようなことは、大変難しいと思います。いまは、搬出する土壌をどこまで絞り込めるか、そのプロセスを進めることが求められていると思います」

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――原発事故を経験しても、日本では原発をやめられません。

 「福島の事故で、原子力は事故が起きれば大変な被害が出るのだと世に知られました。そしてまた、日本では戦後、原子力を受け入れた地域がたくさんありました。反対もあり、いろんな葛藤や苦しみがあった。それでも、受け入れた地域の判断がある。その時間の経過も重いと思うのです」

 「地方では人口減少が進み、地域経済が苦しくなると予想されるとき、原子力は大きな安定産業。それを選ぶ自治体の判断もあると思います。本当はいろんな選択肢があるべきかもしれませんが、選択肢はそれほど多くないのも事実です」

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