2011(平成23)年3月14日午前、東京電力福島第1原発から北に約24キロ離れた相双保健福祉事務所(南相馬市)。原発から20キロ圏内の病院に入院していた患者や施設の入所者を乗せたバスが慌ただしく到着した。
車内には寝たきりの患者や認知症とみられる入所者のほか、座席から転げ落ちて頭から血を流している高齢者の姿も。緊急被ばく医療のチームの一員として広島大から派遣された救急医の谷川攻一(63)は、壮絶な避難の実態を目の当たりにした。
患者らは事務所を経由して各地の避難所に移ったが、途中で亡くなる人が出た。原発事故前から日本の緊急被ばく医療の仕組みづくりに関わってきた谷川は、放射線の影響を避けるための避難が人命を奪う要因となったことを悔やんだ。
「原発事故が自然災害に複合して起こること、原発事故で病院全体が避難を強いられる事態になることに備えてこなかったのが一番の反省点」。谷川はこれまでの緊急被ばく医療を振り返り、こう述べた。「日本の緊急被ばく医療は、過去の歴史を真摯(しんし)に学んでこなかった」
スリーマイルと新潟
1979年、米・ペンシルベニア州でスリーマイルアイランド原発事故が起きた。機器の故障と操作ミスで核燃料が溶け、圧力容器の底に落下した重大事故。徐々に避難区域が拡大され、病院も一時避難を検討する事態となった。
谷川は言う。「病院関係者が当時の記録を残している。入院患者の避難の準備をしないといけない一方で、スタッフが逃げて少なくなっていった。実際に避難には至らなかったが、福島の事故直後の1週間のような状況だった」。福島をほうふつとさせる事態が、その32年前に起きていた。
福島の事故の4年前にも、緊急被ばく医療の盲点に気付く機会があったという。2007年の新潟県中越沖地震だ。東電柏崎刈羽原発で火災が発生し、原子力災害が自然災害に伴って起こりうることが示された。「原発周辺の病院や介護施設が避難しないといけなくなった時、どうするか。あの時が、対策を講じる最後のチャンスだった」。谷川は「事故は起きないだろう」という安全神話が背景にあったと考えている。