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築地市場移転でどうなる? 「被曝マグロ塚」via 日経ビジネスonline

第五福竜丸事件の「遺構」に迫る危機 鵜飼 秀徳 築地市場が先月6日、83年間の歴史に幕を閉じた。市場は閉鎖され、フェンスで覆われた。建物は1年4カ月をかけて解体される。その後は2020年の東京五輪の車両基地として整備される予定だが、その後の跡地をどう活用していくかは、未定だ。 この築地市場閉鎖で、気に掛かったことがある。 「第五福竜丸事件」 多くの人は中学校の歴史の授業で、この事件のことを習ったのを思い出すのではないか。 実は、第五福竜丸事件にまつわる「遺構」が、市場の消滅によって、なくなってしまいそうなのだ。 (略) 米ソ冷戦下にあった1954(昭和29)年3月1日、米国は太平洋のビキニ環礁で大規模な水爆実験を実施した。この核実験の威力は、米軍が想定していた規模をはるかに超え、広範囲の海が核で汚染された。 水爆実験が実施されたその時、第五福竜丸は爆心地から160km東方沖で操業中であった。西の水平線が閃光できらめき、海が鳴動したという。しばらくして、死の灰が船に落ちてきた。デッキに足跡がつくほど積もり、乗組員は灰を頭からかぶったという。 ピカドンがあったのかもしれない──。 だが乗組員は被曝よりも、米国の国家機密を知ってしまったことへの恐怖心のほうが強かったという。 「米軍に船を沈められ、抹殺されてしまうのではないか」 第五福竜丸は焼津港に向けて全速前進で帰港する。帰路の途中、乗組員に発熱や嘔吐、髪が抜けるなどの急性放射線障害の症状が次々と起きる。焼津港に接岸したのは水爆実験から2週間後であった。 乗組員は病院に運ばれ、乗組員23人全員が被曝していることが分かった。半年後に無線長の久保山愛吉さんが死亡する。日本は広島、長崎の原爆投下に続いて、再び、核の犠牲者を出したのである。 (略) 被曝マグロ3匹とサメ28匹を隔離 だが、帰港時点では、日本政府は第五福竜丸の被曝の事実を把握しておらず、漁獲物は水揚げされてしまった。そして首都圏や関西など全国10数都府県へと搬送された。魚種は主にマグロであったが、一部、サメも含まれていた。その数は156尾に上った。 帰港の翌日、読売新聞が第五福竜丸の被曝をスクープ。築地市場へと入荷されてきたマグロやサメの放射線量が基準値を大きく超過していることが判明すると、市場はパニックに陥った。セリが中断し、被曝したマグロ3匹とサメ28匹が隔離された。 被曝マグロは直ちに、場外駐車場の地下3メートルに埋められることになった。 (略) ちなみにビキニ環礁での水爆実験で被災したのは、第五福竜丸1隻だけではない。当時の厚生省が認めた被災船は実に856隻。全国で捨てられたマグロは457トン、寿司に換算して250万人分にも及ぶという。当時は築地界隈だけでなく、全国で被曝マグロの風評被害が起きる大騒動となったのである。 だが、そんな記憶も時の経過とともに薄れていく。数年も経てば築地市場に埋められたマグロの存在はおろか、第五福竜丸事件に関心を寄せる人は少なくなってしまった。 (略) 被曝マグロが埋葬されてから42年が経過した1996年。東京都は都営大江戸線築地駅の出入り口設置工事に伴い、マグロの骨の発掘調査を実施することを発表する。当時の資料を元に埋められたと思しき場所を掘り起こしたが、一片の骨も出てこなかった。 (略) 危機感を募らせたのが元乗組員の大石又七さんであった。1997(平成9)年、大石さんは自らが発起人となり、マグロ塚をつくるための十円募金を開始する。募金は2万2000人約300万円が集まり、2000(平成12)年4月にマグロ塚が建立された。 マグロ塚は東京都江東区夢の島の都立第五福竜丸展示館の敷地にある。重さ2トンの伊予青石でできたマグロ塚は、まるで太平洋の荒波のように力強く波打っている。揮毫は大石さんによるものだ。 (略) 埋葬地とマグロ塚が離れた場所にあるのは、塚の設置当初、築地市場の再整備の話が持ち上がっていたからだ。再整備計画が実行され、工事が完了するまでの仮設置場所として、第五福竜丸展示館敷地に置いたのだ。 第五福竜丸展示館によれば、塚が完成してから10年間ほどは、死亡した久保山無線長の命日に塚の前で、大石さんら関係者が集まって「マグロを食べる会」を実施していた。だが、現在はこうした弔いの行事は実施されていないという。 全文は築地市場移転でどうなる? 「被曝マグロ塚」

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