ぼくらは「暮しの手帖」に「たたかえ」とはいわない via イルコモンズのふた

(2011.12.16)

「「今の「暮しの手帖」にジャーナリズムはあるのか、それともないのか」と聞かれて、「いわゆる昔ながらのジャーナリズムはありません。しかし新しい ジャーナリズムはあると思う」と答えた。「君の言う新しいジャーナリズムとは何か」と聞かれたので、「悪人探しや間違い探しではなく、反権力でもなく、政 治的主張によって存在を表すものでもなく、正しさの白黒をつけることでもなく、今日一日をあたたかく安らかに楽しく過ごすためや、少しでも今日の暮らしを 美しくするための知恵や工夫を発見して、わかりやすく面白く伝えることです」と答えた。そうしたらその人は「花森安治の暮しの手帖も終わったな」と言って 去っていった。今日あったほんとうの話です。」(松浦弥太郎「今日あったこと」2011年12月14日※このコンテンツは現在ご覧いただけません)

「今日、暮らしの手帖の編集長に向かって問いかけた人がいるそうです。「今の「暮しの手帖」にジャーナリズムはあるのか、それともないのか」と。答えは、 編集長の松浦さんのfacebookで読めます。個人的にはショッキングな内容です」(BlessMoment Hirano 2011年12月14日のツイート)
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今年の3月15日のこと。「いま、福島で荒れ狂っている原発をみていて、今年、生誕100年をむかえる、花森安治のこの文章を思い出した」という書き出しで、こんな文章を書いた。それは花森安治の長い引用からはじまる。

[…]

3.11以後、この国の「暮し」は変わった。とりかえしのつかないくらい大きく変わってしまった。だから、「暮しの手帖」も変わるだろうと思った。 3.11以後、「暮しの手帖」はなにを語りはじめるだろうと思い、それを待っていた。ずっと待っていた。いまも待っている。そのあいだに「暮しの手帖」で はなく、「通販生活」が「原発国民投票」をよびかける特集号をだした。「暮しの手帖」はいまだに沈黙したままである。「花森安治の暮しの手帖」はもちろん 終わっている。花森が死んだときにそれは終わったのだ。しかし花森のもとで、花森に怒鳴られながら一緒に仕事をしてきた編集者たちが、それを受け継いだ。 イラク戦争が続くさなか、「暮しの手帖」は「あなたにとって大切なものはなんですか?」と読者に問いかえ、「暮しの手帖」にとっていちばん大切なものとし て、花森がこしらえた「一銭五厘の旗」をあげ、そのあたらしい旗をつくって誌面に大きく掲げ、反戦の意思表示をしてみせた。

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