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<津波、原発事故、そして戦争>(2) 満州とフクシマ(下)via 中日新聞

(抜粋) 敗戦ですべてを失い、命懸けの逃避行のすえ、たどり着いた長野の故郷には耕す土地も仕事もない。岩間たち一家は国が戦後の食糧難の解消のために進めていた戦後開拓に新たな夢を求めた。  国にあっせんされた福島県葛尾(かつらお)村の土地は草木以外、何もない山中。年老いた両親を傍らに、木を倒し、切り株を掘り起こし、田を耕し た。やはり満蒙開拓団の一員だったことが縁で結ばれたひとつ下の妻は労をいとわず岩間を支えてくれた。一男一女に恵まれ、ちょうど国中が高度経済成長に沸 くころには、食うに困らぬ稼ぎを得られるようになった。  やがて、両親が逝き、子どもたちは成人し、妻も十年余り前に先立った。少し、のんびりしようかと思い始めたころ。岩間が「一から築き上げた」居場所が、こんどは原発事故に奪われた。  「ぱっと見は何も変わんねえのに、菜っぱ一つ植えらんねえ。頑張ろうと思っても、もう頑張る場所もねえんだ」。戦時中ですら泣いたことがないという岩間が、事故を振り返るとき、目を赤くする。  あれだけの事故を起こしてなお、この国は原発推進に前のめりだ。福島から遠く離れた九州では、原発が再び運転されそうだと聞いた。「事故が繰り返されたら、日本は終わる。また戦争をするようなもんじゃねえか」  六十九年前の夏、たぶん、すべての日本人が骨身に誓ったのではなかったか。あやまちは繰り返さない-。岩間には、血と惨禍の果てに得たそんな教訓が薄れているように思えてならない。 背丈ほどもある雑草で覆われた田と、がらんとした牛舎。「悲しいんじゃない。悔しいんだ」。この夏も、一時帰宅するたび、岩間は泣きそうになる。 全文は<津波、原発事故、そして戦争>(2) 満州とフクシマ(下) 当サイト既出関連記事:<津波、原発事故、そして戦争>(1) 満州とフクシマ(上)via 中日新聞

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<津波、原発事故、そして戦争>(1) 満州とフクシマ(上)via 中日新聞

(抜粋)  原発が二度目の爆発を起こした二〇一一年三月十四日、村が避難を決め、岩間も従った。牛舎にいた十五頭の牛を連れて行く余裕はない。二カ月後、県は放射能を浴びた牛の殺処分を決めた。  その日、生後十カ月から二歳までの牛たちは、餌をもらうのを待つかのようにおとなしかった。「首筋に薬を打たれてさ、鳴き声ひとつ立てずに死んで いったよ」。一時帰宅して最期をみとった岩間は、空っぽになった牛舎に立ち尽くし、拳を握り締めた。あの夏、幾度もそうしたように。  六十九年前の夏、岩間は満州と呼ばれていた中国東北部にいた。戦時中、全国最多の開拓移民を満州に派遣した長野県の生まれ。南部の上久堅村(現飯田市)から両親とともに海を渡り、十九歳までの七年間を暮らした。  八月九日、ソ連が対日参戦。岩間は現地召集され、南下するソ連軍の前に立った。装備は尽き、爆弾を抱えて戦車の下に飛び込むのが「作戦」だった が、さく裂音とともに仲間の体がはじけ飛んでも、鋼鉄の装甲は貫けなかった。年長順の“特攻”は岩間の番の直前で終わり、部隊は解散。岩間は南へ、南へと 逃げた。  途中、よろよろと歩く数百人の母子や老人たちの一団を追い越したことがある。あかと土にまみれ、誰のまなざしにも生気がない。三歳ほどの男の子が 突然、しゃくり上げながらしゃがみ込み、岩間の眼前で息絶えた。「抱き起こしてやる気力なんて誰にも残ってなかった」。歩けぬ子は捨てられ、子を背負った まま倒れた親はそのまま置き去りにされた。  開拓地に残っていた家族と合流し、ようやく日本の土を踏んだのは一年後。文字どおりの生き地獄をくぐり抜けてきた。そんな岩間が言う。「あんなむごいことは絶対に繰り返しちゃいけねぇ。でもなぁ…」。近ごろ、ちょっと気になることがある。 (文中敬称略)     ×  ×  「なかったことにできるのか」。詩人の若松丈太郎氏は先月、本紙に寄せた原発に対する心情を詠んだ詩でそう問い掛けた。国土を穢(けが)した原発事故、大勢の命を奪った津波、そしてあの戦争。忘れてはいけないことを忘れないため、被災地から考える。 全文は<津波、原発事故、そして戦争>(1) 満州とフクシマ(上)

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ふるさと:原発事故23カ月 2度、国に捨てられた via 毎日jp

東京電力福島第1原発事故に見舞われた橘柳子(りゅうこ)さん(73)は、福島県浪江町権現堂の自宅から夫(76)と帰省中だった妹(63)の3人で避難する車の中で、旧満州(現中国東北部)から命からがら帰国した68年前の逃避行を何度も思い出していた。 「戦争が終わっても、国からは具体的な引き揚げの指令は来なかった。原発事故が起きた後も一緒。人生で私は2度、国に捨てられ、棄民になった」 (略) 第二のふるさと・ 浪江町に原発建設計画が浮上すると反対運動に加わった。保護者には原発関係者も多かったが、「原発から放射能が漏れたら、どうなると思う?」と問いかける など、原発の危険性を考える授業にも取り組んだ。それだけに、「事故が起きてしまったのは自分たちの力が足りなかったから」と自責の念に駆られ、今も落ち 込む時がある。 原発事故からの避難で、首をかしげたくなる国や県の対応を経験した。甲状腺がん予防のため、避難所で子 どもにヨウ素剤を飲ませるように訴えたが、聞き入れられなかった。橘さんをはじめ多くの人が浪江町からの避難に使った国道114号方面には原発から高濃度 の放射性物質が流れていて、そのことをSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)は示していたが、すぐには公表されなかった。 「なにかあると、いつも苦しめられるのは民衆。終戦後と原発事故後の避難は、徒歩が車に変わっただけ」 全文はふるさと:原発事故23カ月 2度、国に捨てられた

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