<津波、原発事故、そして戦争>(1) 満州とフクシマ(上)via 中日新聞

(抜粋)

 原発が二度目の爆発を起こした二〇一一年三月十四日、村が避難を決め、岩間も従った。牛舎にいた十五頭の牛を連れて行く余裕はない。二カ月後、県は放射能を浴びた牛の殺処分を決めた。

 その日、生後十カ月から二歳までの牛たちは、餌をもらうのを待つかのようにおとなしかった。「首筋に薬を打たれてさ、鳴き声ひとつ立てずに死んで いったよ」。一時帰宅して最期をみとった岩間は、空っぽになった牛舎に立ち尽くし、拳を握り締めた。あの夏、幾度もそうしたように。

 六十九年前の夏、岩間は満州と呼ばれていた中国東北部にいた。戦時中、全国最多の開拓移民を満州に派遣した長野県の生まれ。南部の上久堅村(現飯田市)から両親とともに海を渡り、十九歳までの七年間を暮らした。

 八月九日、ソ連が対日参戦。岩間は現地召集され、南下するソ連軍の前に立った。装備は尽き、爆弾を抱えて戦車の下に飛び込むのが「作戦」だった が、さく裂音とともに仲間の体がはじけ飛んでも、鋼鉄の装甲は貫けなかった。年長順の“特攻”は岩間の番の直前で終わり、部隊は解散。岩間は南へ、南へと 逃げた。

 途中、よろよろと歩く数百人の母子や老人たちの一団を追い越したことがある。あかと土にまみれ、誰のまなざしにも生気がない。三歳ほどの男の子が 突然、しゃくり上げながらしゃがみ込み、岩間の眼前で息絶えた。「抱き起こしてやる気力なんて誰にも残ってなかった」。歩けぬ子は捨てられ、子を背負った まま倒れた親はそのまま置き去りにされた。

 開拓地に残っていた家族と合流し、ようやく日本の土を踏んだのは一年後。文字どおりの生き地獄をくぐり抜けてきた。そんな岩間が言う。「あんなむごいことは絶対に繰り返しちゃいけねぇ。でもなぁ…」。近ごろ、ちょっと気になることがある。

(文中敬称略)

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 「なかったことにできるのか」。詩人の若松丈太郎氏は先月、本紙に寄せた原発に対する心情を詠んだ詩でそう問い掛けた。国土を穢(けが)した原発事故、大勢の命を奪った津波、そしてあの戦争。忘れてはいけないことを忘れないため、被災地から考える。

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