Tag Archives: 広島・長崎

マンハッタン計画の施設の公園化法案、近く成立か via 朝日新聞

日本への原爆投下につながったマンハッタン計画に関係する場所を、米国が国立公園に指定する可能性が高まってきた。 […] 国立公園指定に関する条項は、国防予算の大枠を決める2015会計年度(14年10月~15年9月)の国防権限法案に含まれている。同じ条項を含む法案は下院が5月に1度可決していたが、今月に入って上院と調整した法案が完成。4日に賛成多数で改めて可決された。上院も11日にも可決する可能性があり、その場合、オバマ大統領の署名で成立する見通しだ。 法案は成立から1年以内に、国立公園局の中で「マンハッタン計画歴史公園」を設立させると規定。公園には、マンハッタン計画の中枢施設があったニューメキシコ州ロスアラモス、ウラン濃縮施設があったテネシー州オークリッジ、プルトニウムを製造したワシントン州ハンフォードの施設が含まれる。 国立公園化の目的は、マンハッタン計画の 関連施設を保存し、「一般の理解を促進する」こととされている。公園指定を推進してきたNPOのアトミック・ヘリテージ・ファンデーション(AHF)は下 院の可決を歓迎する声明を発表。「論議を招く難しい問題について、異なる経験や価値観を尊重する方法で伝えることを目標にする」という国立公園局幹部の言 葉を紹介している。 米国では原爆投下が第2次世界大戦の終結につながったとして、支持する世論が強い。反核団体は以前から「国立公園が実現した場合、(原爆投下に関する)一方的な見方のみを伝えることになる」と懸念している。 全文は マンハッタン計画の施設の公園化法案、近く成立か

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両陛下、被爆者慰問へ 戦後70年控え、きょう広島入り via 朝日新聞

天皇、皇后両陛下は3~4日、広島県を訪れ、原爆養護ホームで被爆者と懇談する。6月には沖縄県の戦没者墓苑に拝礼し、10月には長崎県の原爆落下中心地碑で供花した。太平洋戦争の激戦地パラオへの来春の訪問も検討されている。戦後70年を前に、慰霊の思いが込められた訪問が続く。 「元気なうちに一目お会いしたい、という入所者にとって幸せなこと」。両陛下が4日に訪れる広島原爆養護ホーム「矢野おりづる園」(広島市安芸区)で案内役を担う施設長、柿木田勇さん(69)は心待ちにしている。自身も被爆者だ。 広島市に原爆が投下された翌日の1945年8月7日、病院で働いていた姉を捜す母に背負われて市内に入り、被爆した。生後7カ月だった。敗戦直後の47年12月、昭和天皇の広島巡幸を家族で出迎えた。「当時は複雑な思いを抱く被爆者がいたかもしれない」 園では被爆者10人と懇談する。入所する被爆者100人の平均年齢は88歳。「私も『最も若い世代の被爆者』として、核廃絶や平和への願いをお伝えしたい」と柿木田さんは言う。広島市には原爆養護ホームが4カ所あるが、両陛下は今回ですべての施設の訪問を果たすことになる。 両陛下は国内外で犠牲になった戦没者に心を寄せ続け、戦後50年の95年に「慰霊の旅」として長崎、広島、沖縄を訪問。 続きは両陛下、被爆者慰問へ 戦後70年控え、きょう広島入り 

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原爆開発携わった学者の孫 「核めぐる対話を」 被爆者と語り合うvia中国新聞・ヒロシマ平和メディアセンター

 原爆を開発した米国のマンハッタン計画に加わった物理学者エンリコ・フェルミ(1901~54年)の孫オリビア・フェルミさん(57)が広島市と長崎市を初めて訪れた。祖父の「業績」を多様な角度から見つめ直す旅。広島では、海外での被爆体験証言に力を入れている七宝作家、田中稔子さん(76)=東区=の自宅に招かれ平和への思いを語り合った。  エンリコ・フェルミは38年、ノーベル物理学賞を受賞したイタリア人。ユダヤ人の妻がムソリーニの独裁政権から迫害されるのを恐れ、授賞式に出席した際、米国へ亡命した。その後マンハッタン計画に参加。核分裂の連鎖反応の制御に世界で初成功するなど重要な役割を果たした。  オリビアさんはカナダでカウンセラーとして活躍。祖父と会ったことはないが、偉大な功績と原爆被害という現実のはざまで葛藤(かっとう)してきたという。米国の敵国出身として警戒されながら最高機密を扱っていたのなら、語れない思いもあったろう―。そんな関心も抱いていた。  「胸にしまい込むより、核をめぐる対話を広げよう」。数年前からブログによる発信や講演、ワークショップの開催などを通じて米国内の核実験被害者や科学者らと交流している。  初対面の田中さんは、6歳の時に爆心地から約2・3キロで被爆した体験を語った。右腕のやけどの痕を見せながら「被爆者には消えない傷が心にもある」と伝えると、オリビアさんは何度もうなずいていた。田中さんが、非政府組織(NGO)ピースボート主催の世界一周の船旅に近く参加、船上や寄港先で体験を証言する計画にも話が及んだ。  オリビアさんは「被爆者として平和のために活動するエネルギーに深い印象を受けた。広島に来て本当に良かった」と感謝。「将来世代が生き延びるため、核兵器ゼロへの具体的行動が大切だ。私の力は小さいが、多様な人々をつなぐことで貢献したい」と話していた。(金崎由美) 全文を読む。 ◇英訳はこちら。

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【ビキニ被ばく60年】第3部:伝え継ぐ(5)忘れずにつなぐ努力を via カナロコ

米国の水爆実験で第五福竜丸が死の灰を浴びた「ビキニデー」と同じように、神奈川で忘れてはならない日がある。1954年4月20日。旧三崎町 (現・三浦市)の三崎魚市場前で「水爆対策三崎町民大会」が開かれた。放射能の影響でマグロを全量廃棄した三崎のマグロ漁船「第十三光栄丸」の機関長らが 被害を訴え、「原爆」そのものの禁止を求める先進的な決議が採択された。 広島、長崎に続く3度目の原水爆被害と引き換えに、国内の反核運動の契機ともなったビキニ事件。その胎動の一つが、三崎からも生まれていた。 ■■■ ちょうど60年後の4月20日、同じ場所でビキニ被災60周年三浦市民集会が開かれた。実行委員長でフリーライターの森田喜一(79)=同市栄町=は、予 想をはるかに上回る約400人の来場者に驚いた。元マグロ漁船員の鈴木若雄や広島で被爆した岡地正史、福島の原発事故の被災者である穂積順子が登壇して自 らの経験を語り、アンケートに多くの感想が寄せられた。横浜市の女性会社員(30)は集会後、「ビキニ事件が三浦と関わりがあるのは知らなかった。福島の 原発事故も起き、一体、核の被害が何回あったら分かるのだろう」と話した。 (略) 「三浦の記録」を手にしたマグロ業界に身を置く地元の若者が3月、市内で森田ら関係者を招いた講演会を開いた。7月には電子化され、市ホームページでいつでも誰でも見られるようになった。 関心の高まりを感じているのは森田だけではない。高知県を拠点にビキニ事件の調査をしてきた太平洋核被災支援センター事務局長の山下正寿(69)も「ビキ ニ事件当時、関連して広島、長崎の問題が浮上し援護法につながったように、今度は原発事故に絡んでビキニ事件が浮上してきた」と指摘する。 ■■■ 一時は忘れられ、歴史の闇にのまれるも、再び痛みが共鳴し合い、今なお苦しむ当事者たちに光が当たる。10年にわたる第五福竜丸の保存運動に取り組んだ山 村茂雄(82)=第五福竜丸平和協会顧問=は「死の灰が降ったときの市民の不安と、いまだ故郷に帰れない福島の人々の不安はつながっている。今のことを考 えるとき、過去のことを思い出してつなげてほしい。集団的自衛権を考えるのならば、先の戦争で亡くなった人を思い出してほしい」と話す。山村自身、先の大 戦で父を亡くした。7歳の時だった。 全文は【ビキニ被ばく60年】第3部:伝え継ぐ(5)忘れずにつなぐ努力を 

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「フクシマ忌」の是非【福島・いわき発】via Jcastニュース

最初に、「フクシマ忌」に関する2011年7月30日、同8月7日付当ブログの抜粋をお読みいただきたい。 ――年4回発行の浜通り俳句協会誌「浜通り」第141号が届いた。<東日本大震災特集号>である。多くの俳人が3・11の体験を記し、句を詠んでいる。招待の黒田杏子(ももこ)さんの作品に「原発忌福島忌この世のちの世」があった。「原発忌」と「福島忌」。新しい季語だ。 ――被爆と被曝。原爆忌と原発忌。広島忌・長崎忌と福島忌、あるいはヒロシマ・ナガサキ・フクシマ。 原発忌と福島忌に反発する以上は、原爆忌や広島忌・長崎忌の季語を安易に使ってはいけない。単に文章を飾り、整えるために引用してはいけない。自分の問題として内部に深く引き寄せて読み、書く。それで必要ならば使う。そんなことを戒めにせよ、と思うのだった。(以上、8月7日) 今もその気持ちに変わりはない。いや、「フクシマ忌」が目につくにつれて反発も強くなった。そんな状況下で出合った文章がある。角川学芸出版「俳句」2014年9月号、宮坂静生さんの「季語探訪――東北を歩く(2)」(=写真)だ。「浜通り」第154号の編集後記で、発行人の結城良一さんが雑誌を紹介していた。 宮坂さんは<かねてから気になっていた(略)「フクシマ忌」という季語が私の中で立ち上がるだろうか、そんなことを考えながら、七月末に福島県浜通りを歩いた>。結城さんらが車で案内した。 <私は(略)「フクシマ」を忌と括ることに賛成できない。そこには俳人の便宜主義とでもいうような手早くことにけりを付けたい、纏め難いことを引っ張るよりも、端的に括りたい。悼むことでより深く考えなければならないことを回避する安易な思いが働いているのではないか> […] その体験を踏まえて、「原発震災」後、作品に詠まれるようになった言葉(除染・汚染水・シーベルト・放射線・原発・被曝など)を紹介している。その一部(いずれも句誌「浜通り」に掲載された)。 汚染水行きどころなし夏の果  田崎武夫 放射能知らずや草の芽ぞくぞく 長岡 由 被曝圏ああこんなにも蕗の薹  結城良一 全文を読む。

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(被爆国から2014秋)悲惨さ 目をそらさないで via 朝日新聞デジタル

■俳優 大竹しのぶさん(57) 《目をそらさないでください》 32年前に公開されたドキュメンタリー映画で読んだナレーションの一部です。原爆が落とされた直後の広島や長崎の様子、傷ついた被爆者の方々の姿に胸が締めつけられました。 映画は「にんげんをかえせ」。ナレーションの終盤には詩もありました。 (略) 長女のIMALU(いまる、タレント・歌手、25歳)が中学2年生だった時。「にんげんをかえせ」が中学校の授業で上映されたのですが、先生が「ここから先は残酷になるから」と言い、中断されました。「知ることが大切なのでは?」。学校に行き、気持ちを伝えたことが今も忘れられません。 長崎の被爆医師の手記をもとにした映画「この子を残して」(1983年)では医師の義理の妹、原爆投下前日の人々を描いたテレビドラマ「明日」(88年)では妊婦を演じました。原爆にこだわった故・新藤兼人(かねと)監督と何度もお仕事をともにして、「戦争ほど愚かなことはない」という思いが体に染みつきました。 人類はずっと戦争をしてきたけど、「人殺しはいけない」とみんな分かっているはず。争いをやめよう。そう考えれば、問題は単純なのかもしれませんね。 大きな力に向かって反戦を叫ぶ人たちに「私もそう思います」くらいしか言えませんが、お芝居や音楽で勇気づけられたらな、と思います。原爆や戦争のことに目をそらさずに。(聞き手・花房吾早子) 全文は(被爆国から2014秋)悲惨さ 目をそらさないで 

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原爆投下、福島原発事故…京都で平和考える写真展 via 京都新聞

太平洋戦争や広島、長崎への原爆投下、福島第1原発事故の惨状を伝える写真展「語り継ぐ~平和・いのちの標(しるべ)~」が、京都市伏見区向島のコミュニティースペース「京都文教マイタウン向島」で開かれている。訪れた人が、悲惨な写真の数々に足を止めている。8日まで。 東日本大震災により、福島県からの避難した母親らによる「笑顔・つながろう会」や地域住民でつくる同写真展実行委の主催。平和の尊さや放射能汚染、被ばくの恐ろしさについて広く考えてほしいと開催した。 会場には、原子爆弾の威力を伝える資料のほか、まちをさまよう母子や原爆症に苦しむ人々の姿などパネル約100点が並ぶ。原発事故の警戒区域に当たるまちをとらえた写真や放射性セシウムに関する解説も展示する。 入場無料。 続きは 原爆投下、福島原発事故…京都で平和考える写真展

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英語で被爆体験語る松島さん死去 via NHK News Web

英語でみずからの被爆体験を語り、海外の人たちにも原爆の悲惨さを伝えた広島の被爆者、松島圭次郎さんが12日午前、敗血症のため亡くなりました。 85歳でした。 松島圭次郎さんは、昭和4年に広島市に生まれ、昭和20年8月6日、16歳の時、爆心地から2キロほど離れた専門学校の教室で被爆しました。 その後、中学校で英語の教師を務め、退職後は海外の人たちにも原爆の悲惨さを伝えたいと、当時のアフガニスタンのカルザイ大統領をはじめ、各国の政府の要人や海外の大学生に英語で被爆体験を語る活動を続けてきました。 松島さんの家族によりますと、松島さんは長年、肝臓がんや血液が正常に作られなくなる骨髄異形成症候群と呼ばれる病気の治療を続け、先月24日から広島市内の病院に入院していましたが、11日夜、容体が急変し、12日午前3時5分に敗血症のため亡くなったということです。 (略) そして、若い世代に被爆者の証言を後世に残す活動を続けてほしいと話していたということです。 全文は英語で被爆体験語る松島さん死去

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在ブラジル被爆者の30年誌 完成 (広島県)via 日テレNews

ブラジルに移住した被爆者らでつくるブラジル被爆者平和協会が結成から30年を迎え、体験談をまとめた本を制作した。会は1984年に結成、現在110人の会員がいる。 続きと動画は在ブラジル被爆者の30年誌 完成 (広島県)

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延べ556隻、検査記録あった ビキニ被ばく文書開示 via 東京新聞

一九五四年に米国が太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁で実施した水爆実験をめぐり、厚生労働省は十九日、周辺 海域で操業していた漁船の放射能検査などに関する当時の文書を開示した。乗組員二十三人が被ばく、うち一人が死亡した静岡県焼津市のマグロ漁船、第五福竜 丸以外の船の被ばくを裏付ける資料も含まれ、関係者はビキニ事件の全容を解明する上で「貴重な資料」としている。  第五福竜丸が被ばくした五四年三月のビキニ事件では、多数の日本漁船が周辺海域で操業していた。厚労省によると、文書から分かる範囲では、第五福 竜丸以外で国や自治体が検査を実施した延べ五百五十六隻(実数四百七十三隻)のうち、魚の廃棄基準だった毎分百カウント以上の放射線が乗組員から検出され た船は延べ十二隻(実数十隻)あり、最も高かった人は同九百八十八カウントだった。  二週間被ばくが続いた場合、一・六八ミリシーベルトに相当し、同省は「がんなどのリスクが高まるとされる国際基準(一〇〇ミリシーベルト)より大幅に低く、健康被害が生じるレベルを下回っている」と説明するが、内部被ばくの実態が考慮されていないとの指摘もある。  厚労省によると、第五福竜丸の乗組員の推定被ばく線量は一・六~七・一シーベルトとされ、他の漁船と比べ突出して高かった。  開示を請求したのは、太平洋核被災支援センター事務局長山下正寿さん(69)=高知県宿毛(すくも)市=ら。国や関係自治体が五四年三~六月にかけて延べ五百五十六隻の漁船の被ばく状況を調べた検査結果や政府の会議記録など三百四点(計約千九百ページ)が開示された。  旧厚生省が五六年に都道府県に出した通知には「(第五)福竜丸以外には、特に放射能症を認められる事実のないことが明らかとなった」との記載もあった。 (略) ◆「過小評価 福島と同じ」  「ない」とされた文書が見つかった。「関係者全員に見せたかったが、ほとんど亡くなってしまった」。開示を受けた太平洋核被災支援センター事務局長の山下正寿さんは、六十年という時間の重みをかみしめるように語った。  体力自慢のはずの漁師たちが、突然声が出なくなったり、体調を崩す。漁港近くで育った山下さんには、幼心におかしいと思った記憶がある。  ビキニの被害は第五福竜丸だけではないと気付いたのは一九八五年。当時、高知県で高校教師として地域の現代史を探る高校生サークルを指導してい た。県内に住む広島・長崎の被爆者を探すうち、第五福竜丸とは別のマグロ船の若い乗組員が、ビキニで被ばくした事実を知った。乗組員は病気を苦に自殺して いた。  約三百人への聞き取り調査で、がんや原因不明の病気に苦しんだ漁師が大勢見つかった。実習船で死の灰をかぶり、白血病を発症して亡くなった高校生もいた。国は当時、乗組員らの被ばく量検査を行いながら、結果や発病の危険性を知らせていなかった。  これまで、高知県などが資料開示や調査を要請してきたが、国は「資料はない」「因果関係の証明は困難」と繰り返してきた。しかし昨年十一月、外務 省が一部報道機関に対し、旧厚生省がまとめた資料の一部を開示。国内向けには「ない」としながら、米国に渡していたことも明らかになった。 全文は 延べ556隻、検査記録あった ビキニ被ばく文書開示

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