Tag Archives: 被爆

原爆症、17人を認定 新基準以降7例目 東京地裁via 朝日新聞

 広島や長崎に投下された原爆で被爆した17人が、原爆症と認められないのは不当だとして、国に認定するよう求めた訴訟の判決が29日、東京地裁であった。増田稔裁判長は全員を原爆症と認定。申請を却下した国の処分を取り消した。  国は2013年12月、「救済範囲を広げる」として新たな認定基準を設けた。17人は新基準でも原爆症と認められなかった。新基準で不認定だった被爆者を原爆症と認める司法判断は、大阪、熊本などで相次いでおり、今回で7例目。  判決は、国の認定基準について「一つの目安だが、残留放射線の影響や感受性の個人差なども考慮しなければならない」と指摘。基準外であっても、「個々の事情で、放射線が原因の疾病と認められる場合もある」と述べた。 […] 判決などによると、17人は0~24歳で被爆。がん、狭心症、甲状腺機能低下症などを患い、原爆症の認定を申請した。だが爆心地からの距離や、原爆投下後に広島や長崎に入ったことなどから放射線が原因と認められず、いずれも申請が却下されていた。  厚労省は「判決を精査し、関係省庁と協議して今後の対応を決める」との談話を出した。(千葉雄高) もっと読む。

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「核に向き合うのは同じ」 被爆者ら30人があす福島訪問 via東京新聞

原爆投下から七十年を迎え、東京在住の被爆者ら約三十人が二十一~二十二日、福島県を訪れ、東京電力福島第一原発事故の被災者と交流する。参加者は「原爆と原発は違うが、核の問題に向き合っているのは同じ」。体験を共有し、手を携えたいと願う。  「私が被爆したのはこの辺りです」。十八日、東京都府中市であった原爆展。仲伏幸子(なかぶしゆきこ)さん(75)=府中市=が、広島市の地図で爆心地から約一・七キロの地点を指さした。  一九四五年八月六日、自宅前の幼稚園で被爆。建物疎開で爆心地付近にいた母親は大やけどを負い、二日後に死亡した。自身は今、学校などで証言活動を続けている。  二〇一一年三月、東日本大震災と原発事故が発生し、がれきの映像で広島の惨状を思い出した。募金や衣類を送り、一三年四月には、避難区域の福島県飯舘村や南相馬市を事故後初めて訪れ、短歌を詠んだ。「線量を測りつつ行く飯舘の人なき里に桜満ち咲く」  「孤児の気持ちや、放射線被害者の苦しみは分かるつもり。何か力になり、励ますことができれば」。心を寄せ続け、今回の参加も迷わず決めた。  広島で被爆した岡勝治さん(76)=板橋区=は、親戚宅に身を寄せた母親が「放射能がうつる」と疎外された体験を持つ。原発事故後に、避難先で福島ナンバーの車が敬遠されたとの報道にショックを受けた。「知識がないから差別が起こる」と話し、つらい気持ちを分かち合えればと思う。  長崎で被爆した堀場和子さん(73)=多摩市=は、原発事故による被ばくを不安がる人を思いやる。生後八カ月で被爆した妹は、十九歳の時に突然亡くなった。「悪性リンパ腫だった。原爆の放射線による影響があったのだと思う」と堀場さん。  被爆と原発事故の低線量被ばくとは違う。ただ「放射線の影響はいつ出てくるか分からない。国策の原発の被害者に対し、健康調査や補償などは国が責任を持って対処するべきだ」と訴える。 […] もっと読む。

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原爆開発携わった学者の孫 「核めぐる対話を」 被爆者と語り合うvia中国新聞・ヒロシマ平和メディアセンター

 原爆を開発した米国のマンハッタン計画に加わった物理学者エンリコ・フェルミ(1901~54年)の孫オリビア・フェルミさん(57)が広島市と長崎市を初めて訪れた。祖父の「業績」を多様な角度から見つめ直す旅。広島では、海外での被爆体験証言に力を入れている七宝作家、田中稔子さん(76)=東区=の自宅に招かれ平和への思いを語り合った。  エンリコ・フェルミは38年、ノーベル物理学賞を受賞したイタリア人。ユダヤ人の妻がムソリーニの独裁政権から迫害されるのを恐れ、授賞式に出席した際、米国へ亡命した。その後マンハッタン計画に参加。核分裂の連鎖反応の制御に世界で初成功するなど重要な役割を果たした。  オリビアさんはカナダでカウンセラーとして活躍。祖父と会ったことはないが、偉大な功績と原爆被害という現実のはざまで葛藤(かっとう)してきたという。米国の敵国出身として警戒されながら最高機密を扱っていたのなら、語れない思いもあったろう―。そんな関心も抱いていた。  「胸にしまい込むより、核をめぐる対話を広げよう」。数年前からブログによる発信や講演、ワークショップの開催などを通じて米国内の核実験被害者や科学者らと交流している。  初対面の田中さんは、6歳の時に爆心地から約2・3キロで被爆した体験を語った。右腕のやけどの痕を見せながら「被爆者には消えない傷が心にもある」と伝えると、オリビアさんは何度もうなずいていた。田中さんが、非政府組織(NGO)ピースボート主催の世界一周の船旅に近く参加、船上や寄港先で体験を証言する計画にも話が及んだ。  オリビアさんは「被爆者として平和のために活動するエネルギーに深い印象を受けた。広島に来て本当に良かった」と感謝。「将来世代が生き延びるため、核兵器ゼロへの具体的行動が大切だ。私の力は小さいが、多様な人々をつなぐことで貢献したい」と話していた。(金崎由美) 全文を読む。 ◇英訳はこちら。

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「フクシマ忌」の是非【福島・いわき発】via Jcastニュース

最初に、「フクシマ忌」に関する2011年7月30日、同8月7日付当ブログの抜粋をお読みいただきたい。 ――年4回発行の浜通り俳句協会誌「浜通り」第141号が届いた。<東日本大震災特集号>である。多くの俳人が3・11の体験を記し、句を詠んでいる。招待の黒田杏子(ももこ)さんの作品に「原発忌福島忌この世のちの世」があった。「原発忌」と「福島忌」。新しい季語だ。 ――被爆と被曝。原爆忌と原発忌。広島忌・長崎忌と福島忌、あるいはヒロシマ・ナガサキ・フクシマ。 原発忌と福島忌に反発する以上は、原爆忌や広島忌・長崎忌の季語を安易に使ってはいけない。単に文章を飾り、整えるために引用してはいけない。自分の問題として内部に深く引き寄せて読み、書く。それで必要ならば使う。そんなことを戒めにせよ、と思うのだった。(以上、8月7日) 今もその気持ちに変わりはない。いや、「フクシマ忌」が目につくにつれて反発も強くなった。そんな状況下で出合った文章がある。角川学芸出版「俳句」2014年9月号、宮坂静生さんの「季語探訪――東北を歩く(2)」(=写真)だ。「浜通り」第154号の編集後記で、発行人の結城良一さんが雑誌を紹介していた。 宮坂さんは<かねてから気になっていた(略)「フクシマ忌」という季語が私の中で立ち上がるだろうか、そんなことを考えながら、七月末に福島県浜通りを歩いた>。結城さんらが車で案内した。 <私は(略)「フクシマ」を忌と括ることに賛成できない。そこには俳人の便宜主義とでもいうような手早くことにけりを付けたい、纏め難いことを引っ張るよりも、端的に括りたい。悼むことでより深く考えなければならないことを回避する安易な思いが働いているのではないか> […] その体験を踏まえて、「原発震災」後、作品に詠まれるようになった言葉(除染・汚染水・シーベルト・放射線・原発・被曝など)を紹介している。その一部(いずれも句誌「浜通り」に掲載された)。 汚染水行きどころなし夏の果  田崎武夫 放射能知らずや草の芽ぞくぞく 長岡 由 被曝圏ああこんなにも蕗の薹  結城良一 全文を読む。

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寺尾紗穂 原発で働くということ 連載第1回 30年間の空白via 現代ビジネス

この本を読み進めるうち、私は大きな衝撃を受けざるを得なかった。それは証言者の中で、「土方」仕事を経験しており、山谷や釜ヶ崎のようなドヤ街から流れてきた労動者が少なくなかったことだ。 山谷、土方、日雇い、ドヤ街、そして原発。 そこに生きる人びとの人生、彼らが抱える問題に対して、すでに無関心ではいられなくなっている自分がいた。 マスクなんかしていられない 「宿泊先は山谷のつばめ荘だった。そこから毎日、工務店に通っただ。せんべい布団一枚で一泊七十円。仕送りするには、こんな所に泊まるしかなかったわけよ」 『闇に消される原発被曝者』には、福島県双葉町出身の大久保智光さんのこんな証言が書かれている。 大久保さんは終戦を海南島で迎え、戦後は、闇屋や長野のダム建設にたずさわり、食いっぱぐれのない農業をやっていく決意をする。しかしそれだけでは一家を養えない。山谷に出てきて日雇い仕事をしていた大久保さんだったが、やがて福島第一原発で働き始める。出稼ぎが普通であった農家にとって、1971(昭和46)年に稼働しはじめた原発は、地元で現金収入を得られる格好の働き口となった。 しかし、原発内での労働は過酷なものだった。大久保さんは「暑くて、苦しくてたまらなくなって、防毒マスクをはずして仕事をしたもんだ。今思うと余計に放射能をいっぱい吸い込んでいたんだ!」と証言している。マスクというのはもちろん放射能による内部被曝を防ぐためのものだ。しかし実際は暑くて現場で使えない。 これは大久保さん一人が体験したことではない。労働者として原発に入り込み、原発内部の実態を描いた堀江邦夫『原発ジプシー』でも、次のように書かれている。  原子炉建屋にくらべ、タービン建屋内はさほど(放射)線量は高くない。アラーム・メーターも鳴らない。それだけに作業時間は長くなる。その間、反面マスクをつけたままだ。息苦しい。頭痛もしてくる。  最初のころは、真面目にマスクをつけていた。だが、ほとんどの労動者はマスクを首にぶら下げているだけだ。私もついつい彼らの仲間入りをすることが多くなってしまった。「内部被ばく」への不安よりも、その場の肉体的苦痛から逃れたい気持の方が強いのだ。 そこで働く労動者がどれだけ過酷な状況で使うかが全く考慮されていないこのマスクについては他にも、作業の説明をその場で仲間にする時に声が聞こえないので結局外して作業する、といったことが起きている。 もっと読む。

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