Tag Archives: 黒い雨

黒い雨二審も原告全面勝訴 広島高裁、国の検証に影響も via Kyodo News

広島への原爆投下直後に降った「黒い雨」を浴びたのに国の援護を受けられないのは違法として、住民84人(死亡者含む)が広島県と広島市に被爆者健康手帳の交付を求めた訴訟の判決で、広島高裁(西井和徒裁判長)は14日、全員を被爆者と認定した一審判決を支持、県や市、国側の控訴を棄却した。 記事詳細 https://www.47news.jp/news/6521163.html

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「黒い雨訴訟」って何?【前半】

ハトノス動画部のさんしょです。 ゆっくり解説動画初投稿です。「黒い雨訴訟」について、そもそもこれがどのような問題なのかまとめました。 「広島ー原爆」についての話題を中心に、これからも動画を作っていきます。 ハトノス動画部 Twitter→https://twitter.com/home​ ※黒い雨訴訟については、こちらのnoteもご覧ください 「「黒い雨訴訟」とは何か」→https://note.com/hatonosu86/n/n6b2265…​ 「私が「黒い雨」の再検証検討会に対して興味を示せない理由」→https://note.com/hatonosu86/n/n7e36e2…​ ※ハトノスは演劇を作る団体のはずですが、どうにも演劇ができないので動画を作ってみました。 ハトノス Twitter→https://twitter.com/hatonosu86​ #ハトノス​ #原爆​ #黒い雨訴訟​ #黒い雨​ #原子爆弾​ #広島​ #ヒロシマ​ #ハトノス動画部

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「被ばくさせたくない」黒い雨浴びた女性 原発事故を機に沈黙破るvia 毎日新聞

 2011年3月に発生した東京電力福島第1原発事故を機に、広島県府中町の貞金末乃さん(79)は忌まわしい記憶の封を解いた。広島への原爆投下後に降った放射性物質を含む「黒い雨」を国が定めた援護対象区域の外側で浴び、影響の疑われる病に侵されたが、差別や偏見が及びかねないと口をつぐんでいた。しかし、「もう誰も被ばくさせたくはない」。沈黙を破ったのは、事故当時、福島県に隣接した宮城県丸森町に次女の家族が暮らしていたからだった。  11年3月12日、福島第1原発の水素爆発を伝えるテレビ画面に貞金さんは凍り付いた。北西に約50キロ離れた丸森町には、自宅から7人の子どもを伴って逃れた次女夫婦が避難所に身を寄せていた。電話がつながったのは、その2日ほど後だ。当時小学5年だった孫の男の子がうれしそうに「外に出たらつながった」と話すのを、叱りつけた。「被ばくするかもしれない。外に出ないで」。頭をよぎったのは、黒い雨を浴びた1945年8月6日だった。 […] 重なった「原発事故」と「原爆投下」  以来、貞金さんは変わった。次女夫婦の家族は12年に丸森町へ戻ったが、日常を一変させた原発の事故と原爆の投下を重ね合わせるようになった。福島第1原発事故で空気中に拡散された放射性物質の濃淡は必ずしも同心円状に広がらず、高い放射線量を示す「ホットスポット」が東日本の広い地域で見つかっている。ただ、直後から国は「直ちに人体に影響が出るレベルではない」との見解を示した。似ていた。黒い雨による健康被害について、国は「科学的に立証できない」として、区域外で雨に遭った住民らへの援護を拒んできてはいなかったか――。  「被ばくの恐ろしさを伝えなければ」。15年11月、兄を含む区域外で雨に遭った住民63人とともに広島県・市を相手取り、被爆者健康手帳の交付などを求めて広島地裁に提訴。追加提訴した人も含め計84人の原告団の一人として声を上げる。20年7月の地裁判決は住民全員を被爆者と認めたが、県市が国の意向に沿う形で控訴した。  原発事故から10年、広島高裁判決はこの夏に言い渡される。「黒い雨による被ばくが認められれば、原発事故に遭った人たちにも救済の手が届くのではないか」。何人も被ばくさせてはならない。その思いを込める。【小山美砂】 もっと読む

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黒い雨はどこまで降ったか~気象専門家 増田善信 の約束 via 「黒い雨」動画作成チーム

昨年7月の『黒い雨訴訟判決」のことを覚えていられるでしょうか。広島地裁が、原爆投下後に降った黒い雨の雨域を国の判断より広げ、被爆者健康手帳の交付を認めた画期的な判決でした。その判決で採用されたのが「増田雨域」です。元気象研究所研究室長の増田善信さんが1985年、被爆者の訴えを受けて再調査して発表したものです。今回の判決はそれを採用したのですが、国・広島県・市は控訴しました。 そのことを巡って、97歳の増田先生が昨年8月90分の講演をされました。その講演をもとに、分かりやすく28分にまとめたのがこの動画です。制作は「黒い雨」動画作成チーム(増田善信、権上かおる、日野川静枝、西脇久美子、佐藤国仁)作画、音楽、ナレーションは元中学教員の西脇さんが担当されています。手作りの動画ですが、それだけに思いがこもっています。ぜひご覧いただき、黒い雨訴訟で問われたことを知っていただきたいと思います。 この動画はまた、科学者の生き方について考えさせられるものです。増田さんは35年前の被爆者との約束を97歳の今日まで守ろうと努力されているのです。増田さんについて、2020年10月18日の朝日新聞が「97歳の元学術会議会員がSNS発信 軍支えた過去反省」と報じています。https://digital.asahi.com/articles/ASNBJ7J7TNBHUTIL04V.html?iref=pc_ss_date 1942年に気象専門学校に入った増田さんは、その後、島根県の海軍大社基地に配属されました。天気図を作成し、風向きや雲の高さなどの情報を出撃する爆撃機の乗員に伝える任務でした。終戦間際には帰還の見通しもなく沖縄方面へと飛び立つ仲間を連日のように見送ったのです。「なんとも気の毒な気持ちになった。軍隊はデタラメばかりだった」と語られています。そして、「科学者が望むと望まざるとにかかわらず、すべてが戦争のための科学になる。そんな戦前を知るからこそ、科学者・技術者が軍に協力したことを反省し、二度と科学を戦争には使わせないことを誓ってつくられた学術会議に対する今回の政府による任命拒否は、「絶対に認めることはできない」と語られます。そのような気骨のある増田さんの『黒い雨』の研究、そして今、その研究が戦後の政府の被爆者政策のまやかしを鋭くついていることをぜひ知っていただきたいと思います。小寺隆幸(明治学院大学国際平和研究所研究員)

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[ヒロシマの空白] 黒い雨 解明への道筋は via 中國新聞

1945年8月6日、米国が投下した原爆が広島市上空で爆発した後、放射性物質を含む「黒い雨」が広い範囲に降り注いだ。そのこと自体はよく知られているが、被害の実態には未解明な点が多い。黒い雨の体験者を被爆者と認めた昨年7月の広島地裁判決を受け、国はあらためて降雨域などの検証に乗り出した。ただ、時間の壁は厚い。直接被爆だけではない原爆被害の「空白」は、なぜ今なお埋まらないのか。「空白」に苦しむ当事者の証言や科学的調査の歩みをたどる。(明知隼二) 新たな検証 国が検討会五つの視点 課題は山積 気象の再現 精度疑問/土壌の調査 核実験と判別困難  国は昨年11月、黒い雨の降雨域を検証するため、専門家11人による検討会を設けた。初会合で気象シミュレーションなど5項目の作業が示され、今後は公募で選ばれた研究者たちによるワーキンググループへと舞台を移す。課題は山積だ。  「技術の向上で新たな検証ができるのでは」。検討会で国の担当者が筆頭に挙げたのが、原爆投下時の気象をスーパーコンピューターで再現し、降雨域を見るシミュレーションだ。欧州では、過去100年の地球上の気象を再現するデータ整備が進む。そのうち1945年のデータを活用することが念頭にある。 […] 唯一、黒い雨の体験者を直接の対象とする検証作業が、黒い雨に関する国の健康相談事業を利用した人の調査だ。相談時の健康状態の申告内容の分析や、県のがん登録との照合を視野に入れる。かかりつけ医からの情報収集や、病歴の再検証など、いかに網羅的な調査ができるか。国の姿勢が問われる。  内部被曝(ひばく)を巡る問題について、座長の湘南鎌倉総合病院の佐々木康人・放射線治療研究センター長は「異なる意見があり、どこかで整理したい」と触れるにとどめた。委員からは「放射性微粒子の健康影響、という観点からも検討を」との意見も出ている。 発生の仕組みきのこ雲から放射性物質降る […] 原爆によるきのこ雲は上空約1万6千メートルに達したとされる。大きく分けて雲の発生源は三つあり、それぞれから放射性物質を含む雨が降ったと考えられる。まず、爆発後の火の玉から生まれた雲だ。原爆は地上600メートルで爆発後、高熱の火球となり膨らみながら上昇。徐々に冷やされ、きのこの「かさ」の部分をつくる雲となった。  一方、地上に届いた爆発の衝撃波は、土ぼこりや家屋の破片などを上空に巻き上げ、ちりによる雲を生んだ。さらに、爆心地からおおむね2キロ以内を全焼させた火災による雲も発生。きのこ雲の中~下部を形作ったとみられている。  きのこ雲には、多くの放射性物質が微粒子として含まれていた。原爆の原料ウランの分裂でできたセシウムなどの放射性物質、分裂しなかったウラン、放射能を帯びた土ぼこりやすすなどだ。  こうした放射性微粒子は雨として広い範囲に降り注いだほか、乾いた微粒子のまま空気中に拡散したとみられる。雨や濡れた地面からの放射線だけではなく、飲み水や食べ物により放射性物質を体内に取り入れたことによる内部被曝の可能性が指摘されている。 体験者の今心身 癒えぬ苦しみ 援護区域拡大へ闘い続く […]  直後の下痢やだるさ、長く続く貧血に、後年のがん―。黒い雨を浴びたり、雨で汚れた野菜や水を口にした人の多くに共通する証言だ。「雨のせいとしか思えんのです」。高野さんは訴訟の原告団長を務める。  しかし黒い雨は、どこまで降ったのかも、どのように人体に影響を与えているのかも、いずれも十分には分かっていない。 黒い雨による体の変調については、陸軍軍医学校が45年10月の記録を残す。雨を浴びた古江地区(現西区)の住民6人を調査。全員がだるさを訴え、脱毛、出血斑が出たという人もいた。人数が少なく「断定し難し」としつつ、雨の影響と考える事も「可能」と記した。宇田技師らも、いずれも現西区の己斐や高須で長期間にわたる下痢が「頗(すこぶ)る多数」とし、雨の流入した井戸水の影響と推察した。  「直接被爆とは違う被爆があるはず」。4歳で雨を浴び、5年前にがんを患った谷口百合子さん(80)=佐伯区=はそう語る。訴訟には加わっていないが、国の控訴には不信を抱く。「原爆被害を、核兵器の危険を過小評価してはいないでしょうか」 検討会委員 広島大名誉教授 鎌田医師に聞く内部被曝 過小評価されてきた 体験者の言葉に耳を傾けねば 黒い雨の実態解明には何が必要なのか。長年にわたり放射線被曝による後障害の研究に取り組み、国の検討会に委員として参加する広島大の鎌田七男名誉教授(83)に聞いた。 ―黒い雨の人体への影響をどう見ますか。 影響があるはずだ。放射性物質を体内に取り込む内部被曝の可能性が過小評価されている。影響が出るには時間がかかるはずだが、その仕組みや特徴はまだ解明されていない。これまでの調査は、あまりに早く結論を導いてしまっている。 ―1988年の広島県と広島市の専門家会議でも委員を務めました。 当時は近距離で大量に放射線を浴びた人を研究すべきだとの使命感があり、それ以外の被爆を軽視していた。未熟だった。今は異なる認識を持っている。 ―なぜ考え方が変わったのですか。 原爆養護ホームの園長を務めていた頃、原爆投下後に黒い雨が降った古田町(現西区)に住んでいた女性と出会った。当時29歳で、家は爆心地から4・1キロ。出産直後で動けず、約2週間は自宅周辺の野菜や水を摂取していた。  女性は80代で肺や胃、大腸などに相次いでがんを患った。後に肺がんの組織を調べると、ウランが放出源とみられる放射線の痕跡を確認できた。内部被曝の確信を得た。 ―黒い雨の実態に迫るには何が必要ですか。 これまでは集団の傾向を調べる研究が強く、個別の症例はいわば「砂粒」のようなものだった。しかし今は医師として、臨床家の目線が大切だと感じる。被爆者のがんの増加にいち早く気付いた於保源作医師(92年に87歳で死去)は、日々の診療の中で抱いた違和感を調べ抜き、事実を明らかにした。 まずは予断なしに体験者の言葉に耳を傾けなければならない。  今回の検証が、黒い雨の体験者にとっては最後の機会となるだろう。2011年3月の東京電力福島第1原発事故の後、放射性物質が雨水だまりに集積したり、風に乗って遠方に飛んだりしていたことなど、新たな発見もあった。そうした知見も生かしながら、虚心に議論を尽くすべきだ。 かまだ・ななお 広島大医学部卒。同大原爆放射能医学研究所(現原爆放射線医科学研究所)所長、放射線被曝者医療国際協力推進協議会(HICARE)会長などを歴任。広島原爆被爆者援護事業団理事長を2017年3月に退いた。専門は血液内科学。 (2021年1月3日朝刊掲載) 全文

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【ヒロシマの空白】被爆の線引き<中>失われた機会 入市被爆、詳細調査なくvia中国新聞

▽ABCCは影響を否定  原爆投下国の米国が1947年、放射線の人体影響を調べるため占領下の広島に設置した原爆傷害調査委員会(ABCC)。線量に応じたがんの増加などを追跡する大規模調査は後継の放射線影響研究所(放影研、広島市南区)に引き継がれ、世界の放射線防護の基礎となっている。そのABCCで52、53年ごろ、入市被爆の調査が試みられていた。  45年8月6日の原爆投下直後から、救護活動や人捜しのため、多くの人が郊外から市中心部を目指した。原爆さく裂の瞬間に大量の放射線にさらされたわけではないのに「直接被爆者に似た症状が出た、という話が聞こえていた。それなら調べてみようと」。ABCCで調査を担った医師の玉垣秀也さん(98)=佐伯区=は経緯を語る。  米国は戦後間もない広島での放射線の測定結果などを根拠に、公式には残留放射線による健康影響を否定していた。しかし県内の市町村や消防、医師に情報を求めると、300人以上の症例が寄せられた。 ■急性症状を確認  特に症状が目立つ約40人の診察や聞き取りのため、ABCCの四駆で山間部を回った。少なくとも2人が脱毛や血便、紫斑など典型的な急性症状を示し、数カ月後に死亡していた。歯茎からの出血などがあった人もいた。「入市被爆の影響は、あるはずだ」。玉垣さんは確信した。しかし、調査が継続されることはなかった。  なぜなのか。経過の一端が、奈良大の高橋博子教授が米科学アカデミーなどで入手した文書に記録されていた。ABCCに52~58年に在籍し、生物統計部長を務めたウッドベリー博士による報告書である。  それによると、玉垣さんたちの予備調査を受け、53年12月に研究計画「残留放射線の影響」が承認されたものの「他の仕事の圧迫や調査員の不足」で実現しなかった。ウッドベリー氏は、症状が残留放射線によるのか否かを明らかにするには「より詳細な調査が必要」と締めくくっていた。  玉垣さん自身も米原子力委員会の科学者に調査結果を伝えたが、「伝染病では」と退けられたという。高橋教授は別の資料から、ABCCが同時期に広島逓信病院(中区)からも入市被爆者の症例情報を得ていたと指摘。「米側も関心はあったはず。だが残留放射線の影響を否定している立場から、都合が悪いデータだとの意識が働いた可能性もある」と推測する。 ■変わらない見解  ABCCは75年、日米共同運営の放影研に組織替えした。現在も、残留放射線は「被爆者全体のリスクを考える上では、影響を無視できるほど少ない」との見解だ。[…]  医師たちは入市者の診察で何を見たのか。47~54年にABCCに勤め、調査に関わったもう1人の医師、武島晃爾さん(2007年に90歳で死去)の情報を求めて東広島市の病院を訪ねると、現院長の長男裕爾さん(56)が迎えてくれた。  「寝る間を惜しんで研究したそうです」。県庁勤務の弟徹之さんは被爆死し、姉アヤメさん(15年に101歳で死去)は弟を捜しに入市した。「姉のためにも影響を明らかにしたかったのでは」と父の胸中を推し量る。  ウッドベリー博士の報告書には、武島さんが53年4月、当時のABCC所長に宛てた報告が添えられている。「残留放射線のせいだとはもちろん言えないが、いくつかの症状は放射線障害とよく一致する」。組織の公式見解と、ヒロシマの医師としての実感。二つのはざまでの葛藤がにじむ。(明知隼二) 全文

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【ヒロシマの空白】被爆の線引き<上>こぼれ落ちた被害 黒い雨、乏しい記録が痛手 via中国新聞

▽カルテも散逸進む  「兄の体に何が起きていたのか」。広島市安佐南区相田の沖村武士さん(75)は、兄の正明さんと和男さんをがんで亡くした。2人とも33歳だった。放射性物質を含む「黒い雨」を体内に取り込んだからではないのか―。1945年8月6日を境に家族を苦しめ、今なお解けない疑念だ。 […] ■援護求める動き  広島市は73年、住民の声を受け、沼田町(現安佐南区)などで黒い雨の実態調査に乗り出した。国は76年、広島管区気象台(現広島地方気象台)の45年の調査から、大雨が降ったとされるエリアだけを援護対象区域に指定した。区域外で黒い雨を浴びた体験者たちは援護拡大を求める運動を本格化させ、手記集なども出版されるようになる。  しかし国は区域外での健康被害を否定した。直接被爆では援護の枠組みが徐々に整い、白血病やがんの増加といった知見が重ねられたが、黒い雨はそもそも公的な記録や研究の「網」からもこぼれ落ちていった。  記録や研究の「空白」は、さかのぼっての被害の検証を難しくしている。国は昨年11月からの新たな検証作業で、広島赤十字・原爆病院(中区)の被爆者カルテを分析するとしたが、保管対象は被爆者健康手帳の所持者分のみ。沖村家でも、当時の原爆病院を受診していたのは直接被爆した父政雄さんだけだった。  広島市と広島県が2008年、約3万7千人に黒い雨の体験や病気の有無などを聞き「心身に影響があった」との結果をまとめた大規模調査についても、国は「合理的根拠とはならない」と退けた。 ■資料発掘を提言  「空白」は埋まらないのか。被爆関連資料などの研究を続ける宇吹暁・元広島女学院大教授(74)は、病状などを客観的に記録した資料として「黒い雨の体験者が受診した病院のカルテを、国が予算を付けて発掘するべきだ」と提言する。  国民学校2年だった原田毅さん(83)=佐伯区八幡=は強いだるさや嘔吐(おうと)、下痢の症状にしばらく苦しんだ。2年ほど通院した地元医院での診断は「十二指腸潰瘍」だったが、今も「雨のせいだったのでは」との思いを抱える。  その医院は既に閉院していたが、近くに住む家族を捜して訪ねた。「原爆はもう2代前のこと。よく分かりません」。一帯で雨を浴びた多くの人がかかった医院だが、医師法が定めるカルテの保存期間は5年。記録は残されていなかった。  「原爆死の証(あかし)はありませんが…」。2人の息子をがんで失った沖村アキコさんが亡くなる2年前に残した手記には、母の悔しさが刻まれる。その「証」の一端が、日々の診療の記録として眠る可能性がまだ残る。しかし後継がおらず閉院する医院も多いのが現状だ。(明知隼二) 全文

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黒い雨訴訟判決に加藤勝信厚労相「科学的知見と異なる」via 東京新聞

加藤勝信厚生労働相は7日の閣議後記者会見で、「黒い雨」訴訟で原告全員を被爆者と認定した広島地裁判決について「これまでの最高裁判決や科学的知見に基づくわれわれの対応とは異なる厳しい内容」と述べた。控訴については、引き続き被告の広島県や広島市と協議するとした。 控訴期限は12日。加藤氏は被爆75年となった6日、広島市内で被爆者と面会。控訴断念を望む広島県の湯崎英彦知事と広島市の松井一実市長とも協議した。こうした協議などの場で、援護対象区域外の人への対応について「地元から強く求められているとの話があった」と説明。「県や市の立場をしっかり共有させていただきたい」と述べた後、「一方で」として判決内容の厳しさに触れた。(共同) 原文

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「黒い雨」体験者 3割が「被害訴えても聞いてもらえず」 毎日新聞アンケvia 毎日新聞

広島原爆の投下直後に降った「黒い雨」を体験したものの、国の援護対象から外れている人に毎日新聞がアンケートしたところ、4人に1人が、原爆が投下された1945年の末までに脱毛や吐血などの急性症状があったと答えた。黒い雨の援護対象区域が76年に指定されて以来、体験者らは範囲を広げるよう再三求めてきたが、国は一度も見直していない。アンケートでは約3割が「どれだけ被害を訴えても聞いてもらえない」と答え、諦めが広がっていることもうかがえる。 […] 黒い雨を巡る周囲との関係について5択(複数回答可)で尋ねたところ、「どれだけ被害を訴えても聞いてもらえない/認めてもらえないと思う」が52人(32%)で最も多く、「差別や偏見が怖くて他言できなかった」が38人(23%)、「地域で公言しない取り決めになっていた」も6人(4%)いた。一方で「特別な問題意識を抱いたことがなかった」と答えた人も41人(25%)に上った。  爆心地の西約8・5キロの広島県五日市町(現広島市佐伯区)の自宅前で雨を浴びた男性(85)は自由記述で「夕立のような雨が降った。何を言おうと国は何もしてくれない。厚生労働省は我々が死ぬのを待っているだけ!」と訴えた。爆心地の北西約20キロの同県水内村(現佐伯区)で雨に遭った中区の女性(78)は「国の決定は仕方がないと思っていたが、福島原発事故が起き、広島で取り残されたまま苦しんでいることを知ってほしいと思うようになった」とつづった。 […] もう先が有りません。良い結果を  「原爆で一瞬に人生をうばわれました」。4歳の時、爆心地から西に約9キロ離れた広島県五日市町(現広島市佐伯区)で黒い雨を浴びた植田あき江さん(79)=同区=は毎日新聞のアンケートに、75年間の苦しみをつづった。援護拡大のため、話したくない体験を証言したがかなわず、5年前に口をつぐんだ。「(黒い雨の被害を)認めてもらえんなら、これ以上話すまあ(話すまい)と思っとった」と打ち明けた。  75年前の8月6日は母らと畑にいた。爆音の後に地面が揺れて黒雲が垂れこめ、見上げると口に生あたたかい雨粒が降り注いだ。「私は何も知らず『黒い雨』を飲んだです」  父は戦死しており、祖父母宅で暮らした。就学前から腸が焼けるように痛んで下痢や発熱を繰り返し、髪が抜け、顔にも腫瘍ができた。ほとんど小学校に通えず、登校すると「幽霊が来た」とからかわれた。祖母には何度も「黒い雨にぬれたことは言うたらいけん」と諭された。18歳で被爆者の夫と結婚して3人の息子を授かる一方、大腸炎や胃けいれんに襲われた。2001年に他界した夫にも、雨のことは言わなかった。  02年、佐伯区で黒い雨に遭った住民らが援護拡大を求める会を結成した。友人に請われて参加し「隠さんでよかったのに」と言われてほっとした。自分が話せば仲間も助けられると信じ、体験を語り始めた。国への陳情で2度上京し、優れない体調を押して署名活動にも参加した。でも、国は動かなかった。「今さら幼少期のことを言うのはおかしい」という陰口も耳にした。他の会員らが被爆者健康手帳の交付を求めて15年に「黒い雨訴訟」を起こした時は「もう疲れ切っていた」。語るのもやめた。 […] 全文

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ABCC幹部 「黒い雨」の健康被害指摘 1950年代 米政府見解に異唱え via 毎日新聞

原爆による放射線の人体への影響を研究していた米原爆傷害調査委員会(ABCC)の幹部が1950年代半ば、広島で原爆投下直後に降った「黒い雨」などの放射性降下物が病気の原因になった疑いがあると指摘し、詳細な調査が必要だと米政府関係者に伝えていた。原爆投下後の放射性降下物の人体への影響はないという米政府の見解に異を唱える内容だった。ABCCでもその後、詳細な調査は行われず、被爆75年を迎える今も、米政府は見解を変えていない。 テキサス医療センターに未公開報告書  ABCCの生物統計部長だったローウェル・ウッドベリー医師(故人)が、戦後、米軍から核政策を引き継いだ米原子力委員会(現エネルギー省)の関係者らに送った未公開の報告書がテキサス医療センター図書館に残されていた。日付はないが、54年3月に米国が南太平洋のビキニ環礁周辺で水爆実験を実施し、被ばくが問題になった直後の調査の記述があることなどから、以後数年間に作成されたとみられる。  報告書は、ABCCが広島・長崎で被爆した約4万人を対象に53~55年に実施した疾病調査で、原爆爆発時に出た直接放射線の影響がほぼないとされた爆心地から2キロ超の地点にいた48人に、放射線が原因とみられる急性症状や病気が確認されたと説明。4・9キロの地点にいて、投下翌日から放射性降下物が降った地域で父親を捜した女性(当時20歳)に脱毛が見られたことを例に挙げ「放射性物質が落ちた地域の線量は強く、症状を引き起こすだけの被ばくをした恐れがある」と指摘した。甲状腺機能障害とみられる症状が2キロ以内の人と同様に見られる点にも注目し「原因が黒い雨なのか、詳細な調査が必要だ」と訴えていた。  原爆投下後の残留放射線について、米政府は45年9月に「存在しない」との公式見解を発表。55年2月には米原子力委が、上空500~600メートルで爆発した広島・長崎の原爆では放射性降下物は「害なく消えた」との見解を示し、その後も覆していない。ABCCの調査・研究を引き継いだ放射線影響研究所は「黒い雨について聞き取りはしたが、詳細な調査はしてこなかった」としている。 専門家「米政府があえて無視した可能性」  米国の核政策とABCCの歴史に詳しい奈良大の高橋博子教授(日米関係史)は「広範囲に降った黒い雨の影響を認めれば『不必要な苦しみを与える兵器』の使用を禁ずる国際法に反する恐れがあり、米政府がウッドベリー氏の指摘をあえて無視した可能性がある」と話している。 […] 全文

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