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福島第1原発 2、3号機の格納容器上部で約2~4京ベクレル 原子力規制委調査 via 毎日新聞

東京電力福島第1原発事故について、原子力規制委員会は26日、2、3号機で丸いフラスコ状の「原子炉格納容器」上部の蓋(ふた)に当たる部分が、極めて高濃度の放射性物質に汚染されていたという調査結果の中間報告書案を明らかにした。格納容器内の底部などにある溶け落ちた核燃料(燃料デブリ)周辺と同程度の放射線量で、廃炉作業の遅れなど影響が懸念される。 規制委は2013年から原発事故の調査や分析をしていたが、核燃料が溶け落ちる「メルトダウン(炉心溶融)」が起きた1~3号機内は放射線量が高く人が入れないため、調査を中断。放射性物質に汚染されたがれきが撤去されるなどして線量が下がり、19年10月に再開していた。  報告書案によると、蓋の部分は「シールドプラグ」と呼ばれ、円盤状で3枚重ねになっている。2号機の蓋の内側部分に付着したセシウムを推計したところ、約2京~4京ベクレル(京は兆の1万倍)、3号機では約3京ベクレルになった。放射線量は毎時10シーベルト前後とみられ、近づくと1時間以内に死ぬほどの強さだ。  大量のセシウムが付いた理由については、原発事故直後に蓋の部分で受け止めたためで、屋外に漏れるのを防ぐ役割を果たしていたと結論付けた。ただ、1号機は2、3号機より少ない約160兆ベクレルだった。水素爆発により、蓋の部分が変形した影響とみられる。 […]  規制委の更田(ふけた)豊志委員長は「燃料デブリがずいぶん高い所にあるようなもの。(作業中、放射線の影響を防ぐための)遮蔽(しゃへい)をどうするのか」と廃炉作業の課題を指摘。東電の担当者は「蓋の部分をどうするかは見通しが立っておらず、今後検討したい」と話した。 一方、3号機の水素爆発について、事故当時の映像を分析したところ、爆発が連続して起きていたことが明らかになった。これまでの原発では想定されていなかった水素以外の可燃性のガスの発生が考えられ、今後の安全対策ではそうしたガスも考慮した議論が必要になりそうだ。 […] 全文

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過酷な被ばく…今も 事故収束作業10年<東電福島第一原発ルポ> via東京新聞

 太平洋沿いにある東京電力福島第一原発(福島県大熊町、双葉町)は、2011年3月11日に起きた巨大地震と大津波により、世界最悪レベルの事故につながった。あの日からもうすぐ10年、事故収束作業が続く原発構内に18日、入った。新型コロナウイルス禍で作業員の感染が相次ぐ中、事前にPCR検査で陰性を確認した上での取材となった。(小野沢健太) ◆がれき消えるも 依然高い放射線量  高濃度の放射性物質を含む汚染水問題で現場が混乱していた13年以来、8年ぶりの原発構内。当時は防護服と顔全体を覆うマスクが必須で、原子炉建屋周辺には津波で流された自動車などが残り、がれきも散在していた。放射線量は海側敷地で毎時1080マイクロシーベルトと、そこに1時間いるだけで一般人の年間被ばく線量に達する水準だった。  ところが今回は、普通のマスクとゴーグルという身軽な装備。がれきはすっかり片付けられ、最も高線量だった2、3号機の間も毎時150マイクロシーベルトと大きく下がっていた。 ただし、その値は放射能で汚染されていない場所の約3000倍。そんな中で多くの作業員が働いている。ここで3、4日働けば一般人の年間被ばく限度(1ミリシーベルト)に達する。労働環境の過酷さは変わっていない。 ◆ひしめくタンク、よぎる8年前の光景  汚染水を浄化処理後の水をためたタンクがひしめく一角では、対策の要だったボルト締め型タンクがさびつき、解体が進んでいた。8年前、タンクを見上げた時の光景が頭によぎる。  当時、東電は日々増える汚染水の保管先を何とか確保しようと、工期が短いボルト締め型タンクを次々と造った。しかし、タンクからの水漏れ事故の発生で、耐久性のある溶接型タンクに置き換えざるを得なくなった。今では、タンク周囲に外部への水漏れを防ぐ堰も二重に設けられていた。 残り少なくなったボルト締め型タンクの手すりに命綱をかけ、作業員が「ドドドド」と大きな音を響かせて1基で1400個もあるボルトを外す。東電の甘い見通しで、現場の人たちが無用な被ばくを強いられる現実が目の前にあった。 […] 全文

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戻ったのは高齢者、いびつな町に 福島第一原発事故の被災地 via 東京新聞

 東京電力福島第一原発事故後に政府が出した福島県内11市町村の避難指示は、2020年3月までに解除が進み、対象範囲が狭まった。しかし、解除された自治体で暮らす住民は増えておらず、住民登録者のうち実際に住んでいる人の割合「居住率」は11市町村全体で27%程度(1月時点)。高齢者が多く、若い世代が少ない。【関連記事】車頼みの生活、体が動かなくなったら…不安抱えながらも故郷へ 東京から南相馬に戻った木幡さん夫婦【関連記事】【動画】無人の実家、奪われたままのふるさと 福島県大熊町・門馬さんの思い<あの日から・福島原発事故10年> 居住率をみると、放射線量が高く、立ち入りが制限されている「帰還困難区域」が残る自治体は低い。17年春に避難指示が一部解除された浪江町の居住率は9.3%。同時期に解除された富岡町も居住率は12.7%にとどまる。 […] 全住民の避難を強いられた楢葉町は居住率が59.6%。避難指示解除が15年9月と比較的早く、帰還困難区域も残っていないことが影響している。◆高齢者福祉ニーズあっても介護人材の確保難しく 居住者の年齢構成をみると、65歳以上の人が占める高齢化率の上昇が著しい。飯舘村では56.5%。浪江町では高齢化率は38.5%と、事故前よりも12ポイント上がっている。こうした状況では高齢者福祉のニーズが高まるが、人が増えない自治体では介護職員の確保が困難という現実がある。 一方、若い世代にとっては、学校など子どもへの教育環境が整っていないことや、放射能汚染への懸念もブレーキとなっている。(小川慎一) 全文

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車頼みの生活、体が動かなくなったら…不安抱えながらも故郷へ 東京から南相馬に戻った木幡さん夫婦 via 東京新聞

<あの日から・福島原発事故10年> 東日本大震災前は自給自足の生活を送っていたが、コメも野菜も作らなくなった。玄関前に広がる7000平方メートルの畑は、ブロッコリーを栽培する会社に貸している。田んぼには、太陽光発電のパネルを設置した。 ◆地区100軒で戻った住民は3分の1  小高区は、東京電力福島第一原発事故で全住民の避難を強いられた。避難指示解除から5年。木幡さん夫妻が住む地区は震災前、3世代で住む家も多かったが約100軒のうち住民が戻ったのは3分の1。それも高齢者が夫婦か、1人でだ。 【関連記事】戻ったのは高齢者、いびつな町に 福島第一原発事故の被災地【関連記事】【動画】無人の実家、奪われたままのふるさと 福島県大熊町・門馬さんの思い<あの日から・福島原発事故10年> 不便な町になぜ戻ったのか。避難先の東京から2019年1月末に小高に帰ってきた木幡堯男さんは「帰りたい気持ちはうまく表現できない。生まれ育ったところに戻る習性があるのかも」と複雑な胸中を明かす。 堯男さんと孝子さんの2人は、週1回、15キロ離れた原町区の中心部へ車を走らせる。日用品の買い出しだ。小高区には今は、小さなスーパーとコンビニしかない。 東京都江東区の国家公務員宿舎「東雲住宅」で避難生活をした8年間は、買い物も便利だった。東京に住む3人の子どもや孫とも気軽に会えた。 ◆表向きは以前の生活に戻ったようでも…  新型コロナウイルス禍もあり、昨年はほとんど子や孫に会えなかった。「表では前の生活に戻ったような感じがすっけども。みんな見えないけど悩み持ってんだよ」。堯男さんはぽつりとつぶやいた。  佐々木さんは運転免許を返上し、愛車の電動アシスト自転車で、小高区中心部に散髪に行く。足腰は元気なものの「毎日、家の中でもの探すだ。なんか使って置いたら場所分かんねんだ」。買い物はヘルパーにお願いする。堯男さんら近隣の人が気に掛けて訪ねてくる。 「お客は結構あるから寂しくはねえべさ」。でも、家族や地域がバラバラになった悔しさは忘れない。 近い将来への不安を抱えながら、自力で動ける人が故郷に戻っている。 「農業一つとっても、再開したとしても後継者がいない。小高をどんな町にしたいか、行政もビジョンが明確じゃない」と、小高区行政区長連合会の林勝典会長(73)。5年後、10年後の町はどうなっているのか。住民たちも分からないままだ。 (神谷円香、写真も) 全文

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消えた「復興は国の責務」を枝野氏が批判、菅首相は直接答えず 衆院代表質問 via 東京新聞

立憲民主党の枝野幸男代表は20日の衆院代表質問で、東京電力福島第一原発事故で被災した福島県内の市町村の将来像を巡り、政府の有識者検討会が改定する提言の概要案に、従来はあった「復興・再生は国の責務」の文言が盛り込まれなかったことを批判した。菅義偉首相は直接答えなかった。枝野氏は質問の際、この問題に関する18日付の本紙報道に言及した。【関連記事】「復興は国の責務」の文言が消える 福島の将来像 有識者会議で改定議論 枝野氏は概要案に加え、菅政権発足時の内閣基本方針に東日本大震災や原発事故の記述がなかったことも触れ「政府の中で風化が始まっているようにみえてならない」と指摘した。 首相は、復興政策の現状について「発災から10年を迎え着実に進展している一方、被災者の心のケアなどの課題が残る」と説明。福島の復興・再生については「中長期的な対応が必要」とし、引き続き最重要課題として取り組む姿勢を強調した。 (中根政人) 原文

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<デジタル発>東日本大震災 「人災としての原発事故」は伝えられているか 記録・伝承施設を訪ねる via 北海道新聞

東日本大震災とそれに伴う東京電力福島第1原発事故からもうすぐ10年。悲劇を記録・伝承する施設が福島県内各地に造られている。これら施設の展示は、地震や津波の恐ろしさを伝える一方、国会事故調査委員会(国会事故調)や政府の事故調査・検証委員会(政府事故調)などが指摘した「人災としての原発事故」の側面や、その教訓を十分に伝えているだろうか。「原発災害があたかも自然災害のように語られ、人災の側面について教訓を伝えるという点が希薄だ」と指摘する専門家もいる。福島県内の施設を訪ねた。(編集本部 斎藤雅史) ■双葉町「伝承館」での違和感  太平洋沿いに福島・浜通りを北上する国道6号から双葉町中心部へ。津波の被害が大きかった海岸方面に車を走らせる。双葉町は、昨年3月に帰還困難区域が一部解除され、避難指示解除区域と立入規制緩和区域に再編された。しかし、いまだ住むことはできない。整備途中の道を進むと荒野のなかに巨大な建物が現れた。  2020年10月に開館したばかりの「東日本大震災・原子力災害伝承館」だ。「福島だけが経験した原子力災害をしっかり伝える」(ホームページ)ことを目的にしている。  設置者は福島県で、「福島イノベーション・コースト構想推進機構」が運営する。機構は「産業基盤が失われた浜通り地域等の復興及び再生」を目的とする公益財団法人で、国や県が出資している。総工費約53億円の施設および展示は、県内にある伝承施設のなかでも最大規模だ。 (略) 東北大・大学院の学生時代に仙台に住み、福島出身の友人や後輩から原発事故当時の話を聞いてきた筆者は、そんな展示に違和感を覚えた。一つは緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)に関する問題だ。政府はSPEEDIの推計結果を把握していたのにもかかわらず、3月23日まで公表しなかった。  政府事故調はSPEEDIについて「少なくとも、避難の方向を判断するためには有効なものだった」としている。しかし、福島県はSPEEDIのデータを受け取っていたのにもかかわらず公表せず、しかも受け取ったメールを消去していた。「震災発生当初の電子メール消去及びその後の詳細調査の懈怠(けたい)など、県の対応に問題があった」(県ウェブページ「SPEEDI電子メールデータ削除問題」)。  その結果、放射能プルーム(放射性雲)が飛散した方向に住民を避難させた浪江町のような自治体もあった。政府事故調でもSPEEDIの情報が生かされていれば「各地方自治体及び住民は、道路事情に精通した地元ならではの判断で、より適切な避難経路や避難方向を選ぶことができたであろう」と指摘している。  しかし、この問題についての展示は「情報を共有することができませんでした」と書かれたパネルの記述だけだった。 (略) 政府事故調は、緊急事態での応急対策拠点施設であるはずのオフサイトセンターが「機能しなくなるような事態になった」と指摘している。その理由として①原子力災害が地震と同時に発生することを想定していなかった②センターが施設構造として放射線対策が取られていなかったーことを挙げている(政府事故調中間報告Ⅶ章)。  パネルや動画による展示でも「複合災害を想定していなかったため」「機能をほとんど発揮できなくなる」事態に陥ったことには言及している。しかし、事故調が指摘した②センターの構造上の問題について説明はなかった。 ■関連死には触れず  もうひとつの違和感は、震災関連死の問題だ。福島県警が把握している統計によると、福島県内の震災による死者は1614人(2021年1月11日現在)。一方、内閣府などによると関連死は2313人も発生しており、岩手県469人、宮城県929人と比較しても突出している(2020年9月30日現在、関連死者数集計)。 (略) 語り部「事故から10年、怒りだけでは…」  「なぜ津波のことばかり話すのか」ー。  伝承館で行っている「語り部講演」の語り部、鈴木史郎(ふみお)さん(58)は来館者からこう言われたことが印象に残っている。 (略) 富岡高に勤めている妻を迎えに行く際、普段使わない山沿いの道を通ったことから、国道6号まで迫っていた津波を避けることができた。妻と合流し、被災した大熊町の自宅で一夜を過ごしていたのもつかの間、原発事故が起きた。車や荷物をすべて置いて避難バスで田村市まで避難を強いられることになった。  避難所を転々とした後に福島市でアパートを借りることができた。一方で自宅は帰還困難区域にあり、現在も線量が高く取り壊すこともできない。  原発には複雑な感情がある。東電は福利厚生が保証された大きな雇用先であり、教え子が就職したときには率直に「よかった」と感じた。「事故から10年。怒りだけを持ち続けるというのは難しい」  伝承館の語り部マニュアルは「特定の団体、個人または他施設のへの批判・誹謗(ひぼう)中傷等」を講演に含めないよう求めている。鈴木さんが語り部活動を始めて数カ月、原発事故に関する避難の話も織り交ぜるようになった。伝承館の展示についても「原発、放射能に特化した展示は少ないと感じます。本当は線量計を使う体験などがあればいいのかもしれませんが、難しいでしょうね」という。  恩義を感じる東電への複雑な感情と、放射能の被害について言及が足りないという感情が入り交じっているようだった。 (略)  対して原発事故に関連する展示は、34枚あるパネルのうち10枚。震災関連死についても「いわき市の被害」と記された表に「間接死者数」として137人の数字が記録されているだけだった。  アーカイブ担当の坂本美穂子さんにSPEEDを巡る問題や震災関連死について展示が少ない理由を尋ねると「東日本大震災についてコンパクトにまとめて展示している性質上こうなりました」と話した。 ■「比類なき安全を創造し続ける原子力事業者に」  2017年4月に帰還困難区域の大半が解除された富岡町には、2020年12月2日時点で1567人が帰還した。町内居住者と避難者数を分母に計算すると、帰還率は10%ほど。それでも、双葉町と比べると人が戻ってきている計算だ。  町が帰還を促すために設営した複合商業施設「さくらモールとみおか」のすぐ近くに、洋館の外壁をつなぎあわせた建物がある。2018年11月に開館した東電の廃炉資料館だ。廃炉資料館は、東電のPR施設だった旧エネルギー館の建物を利用している。「廃炉の現状を知ってもらうことを通して、福島の復興につなげていく」(鶴岡淳資料館館長)という。 (略)  1階は「廃炉の現在」というテーマ。全方位型のスクリーンで福島第1原発構内の様子を見ることができる。廃炉現場のロボットの実物や技術開発についての映像もある。  2階は「記憶と記録・反省と教訓」。半円状のスクリーンがあるシアターホールでは、東電の事故対応について簡潔にまとめている。その映像の中では「福島県の皆さま、広く社会の皆さまに甚大な被害をもたらし、今なお多大なご負担とご心配、ご迷惑をおかけしています」と「おわび」が語られる。  「反省と教訓」と名付けられたビデオでは、事故前に安全に対する「おごり」や「過信」があったことに言及しつつ、一方で最後に「比類なき安全を創造し続ける原子力事業者になること」も決意表明している。展示を通して関連死については一切言及していなかった。 (略) センターは2013年にオープンし、その際には佐藤栄佐久・元福島県知事も訪れた。来館者は年間1000人ほど。施設は長野県の養蚕農家の家をモデルに造られた木造平屋建てで、併設するアウシュヴィッツ平和博物館の敷地内に建てられている。アウシュヴィッツ平和博物館は、認定NPOが運営し、ポーランドの国立博物館から提供された犠牲者の遺品・記録写真・関連資料を常設展示する日本で唯一の博物館だ。  センターの管理をしているアウシュヴィッツ平和博物館の館長の小渕真理さん(64)は「現在の計画で30年から40年はかかると言われている廃炉が終わるまで生きているか分からない。未来のためにも事故の記憶は残していかなければとは思う」と語る。しかし「原発災害情報センター」は現在、問い合わせがあった際にのみ開館している。常設のパネルや展示は存在しない。当初は資料の収集や展示についても話し合われたというが、会員の高齢化などで2018年以降休止状態だ。 ■専門家「教訓を残す意識希薄」   「原発を推進してきた事故前、事故発生時、避難を含めた事故対応段階、復旧工事段階に分けてそれぞれの段階での教訓の検証が必要だ。なぜ原発が建てられたのか、県はどういう役割を果たしたのか、ということから展示しないと、あたかも自然に原発ができて事故が起きたことになってしまう。伝承館にはその視点がほとんどない」 … Continue reading

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群馬の原発避難者 賠償求める裁判2審 国の責任認めず 東京高裁 via NHK Newsweb

福島第一原子力発電所の事故で群馬県に避難した人たちが、国と東京電力に賠償を求めた裁判の2審の判決で、東京高等裁判所は国の責任を認めた1審判決を取り消し、国の責任を認めませんでした。原発事故で避難した人たちが国を訴えた集団訴訟の高裁判決は全国で2件目で、国の責任を認めた去年9月の仙台高裁の判決とは判断が分かれました。 原発事故で福島県から群馬県に避難した91人が国と東京電力に総額およそ15億円の慰謝料などを求めた裁判で、4年前、1審の前橋地方裁判所は「津波を予測して事故は防ぐことができた」として、全国の集団訴訟では初めて国と東京電力の責任を認め、3800万円余りの賠償を命じました。 21日の2審の判決で、東京高等裁判所の足立哲裁判長は「津波の発生を予測できたとは言えず、防潮堤などを設置したとしても津波による原発内の浸水は防げず、原発事故の発生を回避することはできなかった。国の対応に問題があったとは認められない」と指摘し、国の責任を認めませんでした。 一方で東京電力については賠償責任があるとし、1審よりも賠償額を大幅に増やし、90人に対して1億1900万円余りを賠償するよう命じました。 原告弁護団「容認できない判決」 判決の後、原告と弁護団が東京 千代田区で会見を開きました。 鈴木克昌弁護団長は「判決は、今後も原発施設はいいかげんな設計でも仕方がないと言っているのと同じだ。国の責任や落ち度について、非常に甘い判断していて、容認できない」と強く批判しました。 (略) これについて原子力規制委員会は「原発事故の教訓を踏まえて策定された新規制基準の審査を厳格に進めていくことで、適切な規制を行って参りたい」とコメントしています。 東京電力「判決内容精査し対応検討」 福島第一原子力発電所の事故で群馬県に避難した人たちが国と東京電力に賠償を求めた裁判の2審の判決で、東京高等裁判所が東京電力に賠償を命じたことを受け、東京電力は「原子力発電所の事故により、福島県民のみなさまをはじめ、広く社会のみなさまに大変なご迷惑とご心配をおかけしていることについて、改めて心からお詫び申し上げます。本日、東京高裁において言い渡された判決について、今後、判決内容を精査し、対応を検討して参ります」とコメントしています。 全文は群馬の原発避難者 賠償求める裁判2審 国の責任認めず 東京高裁

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福島第一原発 原子炉を納めている格納容器の圧力が一時低下 via NHK News Web

廃炉作業が進む福島第一原子力発電所1号機で21日夜、原子炉を納めている格納容器の圧力が一時低下し東京電力が原因を調べています。東京電力によりますと放射性物質の漏れはなかったと見られ、施設の安全上の問題もなかったとしています。 東京電力によりますと21日午後6時半ごろ、福島第一原発1号機の原子炉を納めている格納容器の圧力が低下していることを社員が確認しました。 格納容器は水素爆発の危険性を下げるために内部に窒素を常時入れて圧力を高めていますが、通常1.2キロパスカルの圧力が午後9時すぎには、およそ0.7キロパスカルまで低下したということです。 21日は格納容器内部の調査実施に向けてカメラを挿入するガイドパイプと呼ばれる管を取り付ける作業を行っていたということですが、圧力の低下を受けて管を取り外したところ、圧力は回復したということです。 (略) 東京電力によりますと放射性物質の濃度を測る装置の値に有意な変化はなかったことなどから、圧力低下による放射性物質の漏れはなかったと見られ、格納容器への窒素の注入も継続されていたため、施設の安全上の問題もなかったとしています。 全文は福島第一原発 原子炉を納めている格納容器の圧力が一時低下

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黒い雨はどこまで降ったか~気象専門家 増田善信 の約束 via 「黒い雨」動画作成チーム

昨年7月の『黒い雨訴訟判決」のことを覚えていられるでしょうか。広島地裁が、原爆投下後に降った黒い雨の雨域を国の判断より広げ、被爆者健康手帳の交付を認めた画期的な判決でした。その判決で採用されたのが「増田雨域」です。元気象研究所研究室長の増田善信さんが1985年、被爆者の訴えを受けて再調査して発表したものです。今回の判決はそれを採用したのですが、国・広島県・市は控訴しました。 そのことを巡って、97歳の増田先生が昨年8月90分の講演をされました。その講演をもとに、分かりやすく28分にまとめたのがこの動画です。制作は「黒い雨」動画作成チーム(増田善信、権上かおる、日野川静枝、西脇久美子、佐藤国仁)作画、音楽、ナレーションは元中学教員の西脇さんが担当されています。手作りの動画ですが、それだけに思いがこもっています。ぜひご覧いただき、黒い雨訴訟で問われたことを知っていただきたいと思います。 この動画はまた、科学者の生き方について考えさせられるものです。増田さんは35年前の被爆者との約束を97歳の今日まで守ろうと努力されているのです。増田さんについて、2020年10月18日の朝日新聞が「97歳の元学術会議会員がSNS発信 軍支えた過去反省」と報じています。https://digital.asahi.com/articles/ASNBJ7J7TNBHUTIL04V.html?iref=pc_ss_date 1942年に気象専門学校に入った増田さんは、その後、島根県の海軍大社基地に配属されました。天気図を作成し、風向きや雲の高さなどの情報を出撃する爆撃機の乗員に伝える任務でした。終戦間際には帰還の見通しもなく沖縄方面へと飛び立つ仲間を連日のように見送ったのです。「なんとも気の毒な気持ちになった。軍隊はデタラメばかりだった」と語られています。そして、「科学者が望むと望まざるとにかかわらず、すべてが戦争のための科学になる。そんな戦前を知るからこそ、科学者・技術者が軍に協力したことを反省し、二度と科学を戦争には使わせないことを誓ってつくられた学術会議に対する今回の政府による任命拒否は、「絶対に認めることはできない」と語られます。そのような気骨のある増田さんの『黒い雨』の研究、そして今、その研究が戦後の政府の被爆者政策のまやかしを鋭くついていることをぜひ知っていただきたいと思います。小寺隆幸(明治学院大学国際平和研究所研究員)

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過酷な被ばく…今も 事故収束作業10年<東電福島第一原発ルポ> via 東京新聞

太平洋沿いにある東京電力福島第一原発(福島県大熊町、双葉町)は、2011年3月11日に起きた巨大地震と大津波により、世界最悪レベルの事故につながった。あの日からもうすぐ10年、事故収束作業が続く原発構内に18日、入った。新型コロナウイルス禍で作業員の感染が相次ぐ中、事前にPCR検査で陰性を確認した上での取材となった。(小野沢健太) ◆がれき消えるも 依然高い放射線量  高濃度の放射性物質を含む汚染水問題で現場が混乱していた13年以来、8年ぶりの原発構内。当時は防護服と顔全体を覆うマスクが必須で、原子炉建屋周辺には津波で流された自動車などが残り、がれきも散在していた。放射線量は海側敷地で毎時1080マイクロシーベルトと、そこに1時間いるだけで一般人の年間被ばく線量に達する水準だった。 ところが今回は、普通のマスクとゴーグルという身軽な装備。がれきはすっかり片付けられ、最も高線量だった2、3号機の間も毎時150マイクロシーベルトと大きく下がっていた。 ただし、その値は放射能で汚染されていない場所の約3000倍。そんな中で多くの作業員が働いている。ここで3、4日働けば一般人の年間被ばく限度(1ミリシーベルト)に達する。労働環境の過酷さは変わっていない。 ◆ひしめくタンク、よぎる8年前の光景  汚染水を浄化処理後の水をためたタンクがひしめく一角では、対策の要だったボルト締め型タンクがさびつき、解体が進んでいた。8年前、タンクを見上げた時の光景が頭によぎる。 (略) 残り少なくなったボルト締め型タンクの手すりに命綱をかけ、作業員が「ドドドド」と大きな音を響かせて1基で1400個もあるボルトを外す。東電の甘い見通しで、現場の人たちが無用な被ばくを強いられる現実が目の前にあった。 ◆21年夏にはタンクの容量が不足  構内のタンクは22年夏には容量が足りなくなるという。政府は、処理水に海水を混ぜて海に放出処分することを検討しているが、漁業者を中心に風評被害を懸念する声が強い。菅義偉首相は「適切な時期に責任を持って決める」としているが、出口は見えない。 今回は構内を5時間取材し、記者の被ばく量は約50マイクロシーベルト。8年前は4時間半で99マイクロシーベルトだった。 全文は過酷な被ばく…今も 事故収束作業10年<東電福島第一原発ルポ>

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