「もしもあの時あの場所にいなければ…」第五福竜丸事件 #1
(略)
「航海は最初からおかしかった」
1954(昭和29)年1月22日午前11時、「第五福竜丸」は母港の静岡県・焼津港を出港した。140トンの木造漁船。1947年に神奈川県・三崎港所属の漁船として和歌山県で建造され、別の船名で操業していたが1953年、譲渡されて第五福竜丸に。“改名”後、5回目の航海だった。
出航直前、ベテランの甲板長ら5人が船を去り、乗組員が入れ替わった。船に乗り込んだのは23人。久保山愛吉・無線長(39)を最年長に30代が3人。ほかは、10代3人を除いて、船長も、操業の全責任を持つ漁労長(船頭と呼ばれていた)も20代で、平均年齢25歳の若いメンバーだった。
「考えてみると、この航海は最初からおかしかった。首をかしげたくなるようなことばかり起こった」。出航の翌日に20歳を迎えた「冷凍士」で現在も健在の大石又七さんは著書「死の灰を背負って」にこう書いている。
(略)
静けさの中の閃光「西から太陽が昇った」
記述は水爆実験の瞬間に入っていく。
夜明け前の静かな洋上に、稲妻のような大きな閃光がサアーッと流れるように走った。午前1時から始まった投縄作業がついいましがた終わり、一区切りついた体を船室の戸口に近いカイコ棚のベッドに横たえて、開けっ放しになっている暗い外をぼんやり眺めていた。午前3時30分、船はエンジンを止め、かすかな風に流れを任せている。さっきまでの目の回るような忙しい作業と騒音がうそのような静けさだ。閃光はその時である。光は、空も海も船も真っ黄色に包んでしまった。はじかれたように立ち上がり、外へ飛び出した。きょろきょろと見回したが、どこがどうなっているのか見当がつかない。左の空から右の空まで全部黄色に染まって、まるでこの世のものとは思えない。
その時のことを、広田重道「第五福竜丸」は「突然誰かが叫んだ。『太陽が上がったゾ!』。恐怖に震える声だった」「『西から太陽が昇った』。これがみんなの実感だった」と記している。「死の灰を背負って」によれば、デッキには見崎漁労長や船長らがいて左舷をじっと見ていた。
一段と鮮明な黄白色が大きな傘状になって、水平線の彼方で不気味な光を放っている。「あそこだ」「なんだ、あれは」。声にならない。心の中で叫んだ。今にも、どでかい太陽が昇ってきそうな感じだ。
光は微妙に色を変えた。黄白色から黄色、オレンジがかって、かすかな紫色が加わり、そして赤く変わっていった。それも、少しずつ少しずつゆっくりと。誰もが無言で息をころし、立ちすくんだまま、目はその光景に吸い付けられるように、じっと成り行きを見守っていた。1954(昭和29)年3月1日午前4時12分。南太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁北東約90マイル(約170キロ)、北緯11度63分、東経166度58分。
乗組員は慌てて延縄を引き揚げ、朝食をとった。「そのときだった。『ドドドドド!』。足元から突き上げてくる轟音は、海ごと船を揺さぶった」。縄を揚げる作業に戻ると、久保山無線長(「局長」と呼ばれていた)の大きな声がした。
(略)
久保山無線長は「中央公論」1954年11月号掲載の「絶筆 死の床にて」という手記で、2月27日に「虫が知らせたのか、私は見崎漁労長、筒井船長に『終戦後も原爆実験はやっているのだから、禁止区域には接近しない方がいいだろう』と注意した」と書いている。彼は戦争中、海軍に徴用されていたという。戦争中の感覚が体に染みついていたのだろう。
(略)
漁は最後まで不漁で、乗組員は「デッキにたまった白い灰も海水で洗い流し、自分たちも裸になって、髪の毛や耳などについた灰を洗い落としてほっと一息」。船は焼津港に向かって北へ。しかし……。
「灰をかぶった時点では誰も口には出さなかったが、作業中にめまいがしたり、縄を揚げ終わるころには頭痛や吐き気、夜になると下痢をする者も何人かいた」(同書)。
降り注いだ白い灰…続いた乗組員の体の異常
久保山無線長は危険を感じていたのか、甲板員に「水で体を洗え」と何度も言った。甲板員の1人が、戻って見てもらうため、白い灰を拾ってひとつかみ袋に入れていた。乗組員の体の異常は続いた。
(略)
「みんな異様な黒い顔に目玉をきょろきょろさせ、手足にできた傷も気になっていたが、次の出港までにはなんとか治るだろう。そんなふうに軽く思っていた」。3月14日午前5時50分、ひっそりと焼津に帰港。
事情を聞いた船主の勧めもあって、全員が午前中、焼津協立病院で受診。当直医は翌日、傷がひどい山本忠司機関長ら2人を東大付属病院に回した。
(略)
「焼けたゞ(だ)れた グローブのような手」が見出しの別項記事では、記者が東大付属病院で乗組員から聞き出した当時の模様を書いている。また、被爆者研究で知られた都築正男・東大名誉教授の談話も。
「外傷などから判断すると、広島、長崎の原爆の場合と違う」「今度の場合は、直接灰をかぶって2、3日後に顔が火ぶくれになったというが、その灰は水爆か原爆かの破片が落ちてきたものだ。いわば原爆のカケラの放射能そのものにやられたわけで、かぶった直後、丁寧に洗い流せばなんでもないのだが、放置しておくと、放射能が体を突き通し、火ぶくれのようになる」。
(略)
佐野眞一「巨怪伝」も「この時代、どこの新聞社も放射能についての知識をほとんど持ち合わせていなかった。それが読売に限って、焼津通信部員からの一報だけでピンときたのは、この年の元旦から『ついに太陽をとらえた』という原子力開発の解説記事を連載していたためだった」と書いている。
読売の特ダネは、アメリカの核実験が周知の事実だったように書いているが、多くの日本国民にとってはそうではなかっただろう。同紙の3月2日付夕刊は1面2段で【ワシントン特電1日発】で次のような2本の記事を載せている。
【AFP】アメリカ原子力委員会のストローズ委員長は、第7合同機動部隊がマーシャル群島にある原子力委員会の太平洋実験場で原子力装置を爆発させたと1日発表した。この爆発は一連の実験の最初のものである。
【INS】米政府当局はある種の“原子装置”の実験がマーシャル群島で行われたと1日、簡単な発表を行ったが、その直後、超強力の水爆“地獄爆弾”が爆発されたのだという推測が行われている。原子力委員会及び海空両軍当局は、厳しい口止めをされていると語ったが、完成された水爆が実験されたとみてよいようである。
“地獄爆弾”とはすさまじいが、16日の特ダネがこの記事を参照していたことは間違いない。「水爆か」という見出しにも根拠があったわけだ。