「乗組員はスパイとも思える」「損害が誇張されている」終戦9年目、日本人水爆実験被害者にアメリカから向けられた言葉 via 文春オンライン

「もしもあの時あの場所にいなければ…」第五福竜丸事件 #2

小池 新

「食べれば原子病にかかる」“原子マグロ”登場

 3月16日付夕刊では朝日が「マグロ漁船ビキニで原爆浴びる」を社会面トップで、毎日は「ビキニの水爆?実験で邦人漁夫三十三名被災」を1面左肩で追いかけた。毎日が社会面トップに載せた「売られた“原子マグロ” 食べれば被病 都内では一応押える」の記事はその後の騒動のきっかけとなったといえるだろう。(全2回の2回目。#1を読む)

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 3月17日朝刊の朝日には社会面3段で「築地で五百貫埋める 各地に流れる福竜丸の魚」の見出しの記事が。

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 同じ話題を取り上げた記事に毎日は「原子マグロを土埋め」、読売は「原子マグロ土葬」の見出しを付けた。既に「原爆マグロ」「原子マグロ」が紙面をまかり通っていた。

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同じ日の紙面には、焼津で乗組員の診察や第五福竜丸の船体検査などを続けていた東大などの総合調査団が

1)乗組員らは生命に危険はなく2カ月ぐらいで回復する
2)船体を焼いたり沈めたりする必要はない
3)魚はサメは危ないがマグロは食べてもよい

 との結論を出したことも載っている。

ついにあきらかにされた水爆の事実 「想像を絶した爆発力 測定不能」

 3月18日付夕刊各紙には、アメリカ議会原子力委員らを情報源としたビキニ実験の規模などについての記事が掲載された。朝日は「想像を絶した爆発力 測定不能 米科学も驚倒」、読売は、「測定装置役立たず 強力無比の水爆」の見出しだったが、「史上最大・ビキニ『水爆』 広島原爆の六百倍」が見出しの毎日を見よう。

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各機関の調査団が現地へ 交錯する評価

 現地焼津には東大のほか、京大など各機関の調査団が入ったほか、広島のABCC(原爆傷害調査委員会=現放射線影響研究所=)のモートン所長らも加わることになり、3月19日付読売朝刊は「日米死の灰調査合戦」の見出しで報じた。

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さらに、同じ紙面では、サンフランシスコ特電(INS)で、ビキニの実験場と東京を視察して帰国したアメリカの上下両院合同原子力委員会委員のパストール(パストアと表記した新聞もある)上院議員の談話が「漁夫の火傷は浅い」の見出しで載っている。

 同議員は日本滞在中、アメリカ側官憲から第五福竜丸の23人についての「あらゆる資料の提供を受けた」としたうえで「残念なことだが、最初の報告は事件を誇張したものであり、漁夫たちの火傷を実際よりもはるかに重いように伝えたことが分かった」と語っている。

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乗組員はスパイ!? アメリカの思惑

 アメリカは3月19日に実験の危険区域を数倍に拡大する一方、実験の被害をなるべく小さく見せようとした。パストール議員から報告を受けたコール委員長はさらに踏み込んだ。

 3月24日付産経夕刊には「被爆漁民スパイとも思える コール委員長が重大発言」の見出しでワシントン発AP=共同電が載っている。第五福竜丸の補償について、権限はあくまで議会にあるとしたうえで、最後にこう語っている。

「日本人漁船及び漁夫が受けた損害についての報道は誇張されているし、これら日本人が漁業以外の目的(スパイの行為を意味する)で実験区域に来たことも考えられないことではない」

 不幸にも久保山無線長の危惧が的中したことになる。第五福竜丸平和協会編「ビキニ水爆被災資料集」によれば、これに先立つ3月18日、原子力委員の下院議員2人が「部外者が放射能によって被害を受けるほど接近できた理由を議会が調査すべきだ」「そうでなければソ連が潜水艦でスパイ行為をするのを防げないことになる」と述べていた。

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3月27日、第五福竜丸は危険区域外にあり、事件に対して日本側に全く手落ちがなかったとする日本政府の調査結果がアリソン大使に伝えられた。それに対して、アメリカ側は直接意思表示はしなかったが、4月9日、アリソン大使が事実上受け入れを表明。焦点は補償問題に移った。

 3月28日には、焼津で入院していた乗組員21人がアメリカ軍用機で東京に移送され、東大付属病院と国立東京第一病院に収容された。

 この間にも数多くの放射能を浴びた船と魚が発見された。

 川崎昭一郎「岩波ブックレット 第五福竜丸」によれば、船は北海道から沖縄まで太平洋岸の全都道府県に登録されており、特に多かったのは高知、神奈川、静岡、和歌山。漁獲した魚を廃棄した漁船は、1954年末までに856隻、廃棄された魚は485.7トンに及んだという。

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水爆実験による被害は、海上保安庁の調査船「俊鶻(こつ)丸」の5月から2カ月近くに及ぶ調査で証明された。ビキニ海域で海水やプランクトン、魚から高濃度の放射能を検出。予想を覆して、ビキニ環礁から1000~2000キロ離れた海域でも海水や魚が放射能に汚染されていることが分かり、世界に衝撃を与えた。

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「5月ごろになると、放射能の混じった雨が日本列島、特に太平洋岸の各地に降るようになった」(「岩波ブックレット 第五福竜丸」)。同書によると、各地の大学や研究所に雨やチリの放射能測定が始まり、観測ネットワークが作られた。

「本格的に放射能雨が確認されたのは5月半ば以後のことである。鹿児島大学から5月14日の雨に毎分1リットル当たり4000カウント、5月16日には1万5000カウントの放射能を検出。京都大学でも16日の雨に8万6760カウントの測定。その他の大学からも続々と雨水中の高い放射能価が報告された」(同書)

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「日本側がアメリカ医師の診断と治療を許していたら死ななかったのでは」

 直後にはアメリカ原子力委員である下院議員が「日本側が原子力委員会のアメリカ医師の診断と治療を許していたら死ななかったのでは」と発言。翌1955年3月、同委員会幹部が「久保山氏は黄疸と肝臓病で死亡したのであり、放射能が原因ではない」との見解を示し、同年8月、国防次官補も公式の声明でそれを追認した。

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「各地で市民の中から自発的、自然発生的に水爆実験禁止や原子兵器反対の署名運動が始められた」「公民館長の永井郁・法政大教授を囲んで読書会を開いていた東京・杉並の母親の学習グループは『水爆禁止署名運動協議会』をつくり、1954年5月9日に呼び掛け、1カ月余りで区民の7割の署名を集めた」(「岩波ブックレット 第五福竜丸」)。原水爆禁止運動の始まりだった。

同書によると、8月には署名を集計する全国協議会が結成され、署名は12月には2000万人を突破。翌1955年には第1回「原水爆禁止世界大会」が広島で開催される。第五福竜丸の“犠牲と功績”といえるだろう。

 その後、原水禁運動は分裂。海外から逆輸入する形で「反核運動」が広がり、現在に至っている。第五福竜丸は東京水産大の練習船として使われた後、1967年に廃船となり、東京・夢の島に放置された。1968年にそのことが報道されて保存運動が起き、「東京都立第五福竜丸展示館」として現存する。また、「死の灰」によるマーシャル諸島住民の被害も明らかになり、ロンゲラップ島では1984年に住民全員が離島した。

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「第五福竜丸の事件には、一つの重大な意味があったはずである」「もしあの時、あの場所に第五福竜丸がいなかったらば、という仮定の上に立ってもう一度考え直すことは今でも必要だと思われる」。その言葉はいまも意味を持っている。

全文は「乗組員はスパイとも思える」「損害が誇張されている」終戦9年目、日本人水爆実験被害者にアメリカから向けられた言葉

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