目に見えないものとの戦いで平和な日常が突然奪われていく。「まるで原発事故後をなぞるようだ」。今年、新型コロナウイルスが感染拡大していく様子を目の当たりにしながら、そんな思いを強くした。
感染者や医療従事者らへの差別やいじめ。2011年3月の東京電力福島第一原発事故後に起きた、福島県の人たちへの心ない行為と重なって見える。「この国は何も変わっていないのではないか」
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それから9年半たった。自身は大阪市内で事務職として働く。夫は月に1回、福島から夜行バスに乗って会いに来る。「まさかこれほど長い別居生活になるとは思わなかった」
幼い頃は父親と別れるたびに泣いた子どもたちも中学生と小学生になり、涙を見せなくなった。福島県内の放射線量は徐々に下がっているが、事故前の状態には戻っていない。「野球とサッカーに打ち込んでいる子どもたちを、何の心配もなく外で活動させられる状況ではない」
住んでいた郡山市は福島第一原発から60キロ離れており、強制的に避難を求められる区域でもなかったため、避難せずに住み続けている人の方が多数だ。自分なりの選択で避難を決めたとたん、社会の「少数派」になった。「本当は誰にでも起こりうる。少数派だからこそ、多数派以上に声を上げていかなければ」との思いに揺らぎはない。
「放射能から逃れ健康を享受することは、基本的原則です」。18年3月19日、スイス・ジュネーブの国連人権理事会に赴いて意見を述べた。持ち時間は2分。原発事故による被害者をもう一人も出したくないという思いを英語で訴えた。
同年7月には、参議院特別委員会に参考人招致された。仕事の合間を縫い、東京電力や国に損害賠償を求める集団訴訟の関西原告団代表を務める一方、体験を少しでも伝えたいと講演活動を続ける。
来年3月で原発事故から10年がたつ。「私たち家族だけでなく、多くの人がまだ各地で避難を続けている。原子力災害による被害を『なかったこと』にされたくない」(白木琢歩)