核兵器の保有や使用を禁止する核兵器禁止条約の批准国・地域が50に達した10月24日、その輪の中に日本はいなかった。記録報道「2020ヒバクシャ」の9回目は「長崎を最後の被爆地に」と願えばこそ、政府にも厳しい言葉を投げかける被爆者運動のリーダーに焦点を当てる。
「ほっとしたが、今日は核兵器なき世界への第一歩。安心しちゃいかん」。10月25日、秋晴れの平和祈念像前(長崎市)。被爆者の全国組織「原水爆禁止日本国民会議(原水禁)」議長の川野浩一さん(80)=長崎県長与町=は、核兵器禁止条約の批准国・地域が50になって2021年1月の発効が決まっても心からは喜べなかった。
長崎の被爆者5団体の一つ「長崎県平和運動センター被爆者連絡協議会」の議長として、全ての国に条約への賛同を求める「ヒバクシャ国際署名」に他の4団体と共に携わってきた。活動を始めて4年余り。条約は核保有などを全面的に禁止する初の国際法として効力を持つことになったが、米国の「核の傘」の下にいる日本は条約に背を向けている。
条約は今後、どこまで日本や核保有国を巻き込んでいけるかが焦点になる。「私たちの声が政府に届いていないことはないと思う。でも無視されている」と唇をかむ。この間、そろって声を上げてきた被爆者団体のトップは相次いで鬼籍に入った。「4人の遺志を継がなければ。我々、被爆者の役目は終わっていない」【今野悠貴】
首相に異例の直言
「あなたはどこの国の総理ですか」。異例の問いかけだった。長崎市への原爆投下から72年の2017年8月9日。平和祈念式典に参列するため長崎を訪れた安倍晋三首相(当時)と被爆者5団体の面談の場で、川野浩一さんは首相の目をじっと見つめ、声を震わせた。
例年は被爆者援護策などをまとめた要望書を首相に静かに手渡すだけだが、この年は怒りを抑えられずに言葉が口をついて出た。「被爆者の願いがようやく実って核兵器禁止条約ができた。私たちは心から喜んでいます。あなたは私たちを見捨てるのですか」
この1カ月前、米ニューヨークの国連本部で核兵器の保有や使用を禁止する核兵器禁止条約が採択されていた。「日本を最後の被爆国に」と条約成立を待ち望んでいた川野さんら被爆者は歓喜したが、米国の「核の傘」に依存している日本は他の核保有国とともに条約に反対し、制定交渉にも加わらなかった。
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被爆者の思いはこれまでも度々裏切られていた。歴代政権は「核を持たず、つくらず、持ち込ませず」という「非核三原則」を掲げる一方で米国などが持つ核による「核抑止力」を肯定する発言も繰り返してきた。米国、英国、ロシア、フランス、中国の5カ国以外の核兵器保有を禁じる核拡散防止条約(NPT)にこそ加盟しているものの、13年4月に「いかなる状況下でも核兵器が再び使用されないことが人類生存のためになる」と訴えた「核兵器の人道的影響に関する共同声明」には加わらなかった。
日本政府が核兵器禁止条約に反対したのは決定的だった。NPTと異なり全ての国の核保有を認めない国際条約の制定は被爆地の宿願で、国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)などが展開した「ヒバクシャ国際署名」に長崎県内の被爆者5団体も参画。川野さんも自ら街頭で条約の早期制定を訴えた。晴れて17年7月、条約は採択されたが、日本は「核保有国と非保有国の『橋渡し役』を務める」としてその輪に加わらなかった。
首相への発言が報じられると、川野さんが議長を務める被爆者団体「長崎県平和運動センター被爆者連絡協議会(被爆連)」には「首相に失礼だ」と批判の電話が相次いだ。ネット上には「あいつは何様だ」と心ない言葉が並んだ。しかし、意思は揺るがない。「いつも通り『よろしくお願いします』と頭を下げるだけでは駄目だ。被爆者としての使命感からだった」
原爆は直接的な死ばかりではなく、生き残った人たちにも差別や後遺症などあらゆる災禍をもたらした。それを目の当たりにしてきたからこそ川野さんは使命感に駆られる。
差別知り運動傾注
被爆したのは5歳の時。爆心地から3・1キロの長崎市本紙屋町(現麴屋(こうじや)町)の自宅前で15メートルほど吹き飛ばされた。その瞬間の記憶はない。幸い大きなけがはなかったが、避難した山上から見た長崎の街は炎に包まれていた。8月15日に戦争が終わってからも近くの空き地では遺体が焼かれていた。あのにおいは今も鼻について離れない。
地元の高校を卒業し、21歳で県庁に入った。組合活動に傾注するうち、職場に体調不良で悩む同僚が大勢いることに気づいた。20代の職員が白血病で亡くなった際は原爆の影響を疑い、組合報に投稿して世に訴えようと考えた。しかし、職員には妹がいた。職員の母親は川野さんに懇願した。「娘の縁談が破談になる。やめてください」
原爆による症状が感染するなどと誤った認識が広がっていた時代。被爆者らは差別を恐れて被爆の事実をひた隠しにしなければならなかった。川野さんの妹も両親に「被爆者手帳は人に見せるな」と言いつけられていた。「被害を受けた側なのに後ろ指をさされて、おびえて生きなければならないなんて」。不条理に対する憤りから1975年、現在の被爆連設立に携わり、被爆者運動の中心的存在になっていった。
信条超えて5者団結
長崎県には川野さんの被爆連の他、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の県組織「長崎原爆被災者協議会(被災協)」▽「長崎県被爆者手帳友の会」▽「長崎県被爆者手帳友愛会」▽「長崎原爆遺族会」――の4団体がある。運動方針や党派性の違いから長年、横のつながりはほとんどなかったが、風穴を開けたのが2003年に被爆連議長に就いた川野さんらだった。
きっかけは04年に成立した国民保護法だった。外敵からの武力攻撃に備えて住民の避難や救援について定める法律で、核攻撃も想定されていた。しかし、政府が自治体などに示した避難の指針を見て川野さんらは怒り、あきれた。「避難の際は風下を避け、手袋、帽子、雨がっぱなどで外部被ばくを抑制する」。目を疑った。「冗談じゃない。原爆を落とされたら逃げる暇はない。原爆の威力を軽んじている」
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5団体はそろって声を上げた。14年、長崎市は「被爆都市長崎は、核兵器による攻撃から市民を守れないことを身をもって体験しており、核兵器の廃絶こそが市民を守る方法と強く認識している」とし、核攻撃を受けた際の対応を定めない異例の国民保護計画を策定。それ以降も5団体は足並みをそろえた。
そして16年9月、5団体が呼びかけ人になって「『ヒバクシャ国際署名』をすすめる長崎県民の会」を結成。核兵器禁止条約の早期制定、早期発効を目指して会としての目標を50万筆とし、今秋、4年かけて達成した。条約は今年10月24日、発効に必要な批准50カ国・地域に達し、21年1月の発効が決まった。しかし日本や核保有国は依然、条約に背を向けたままだ。
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かわの・こういち 現在の北朝鮮生まれ。原水爆禁止日本国民会議の4代目議長。元長崎県職員で、連合長崎会長を務めるなど組合運動でも中心的役割を担った。被爆者と認められない「被爆体験者」の訴訟を支援し、北朝鮮の在外被爆者にも被爆者健康手帳を交付するよう訴える。