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ほどなく「原発が危ない」といううわさが伝わってきた。自宅の北側約8キロには東京電力福島第一原発、南側約5キロには第二原発がある。
翌朝、妻と娘夫婦、孫の5人で1台の車に乗り、内陸部の川内村に向かって逃げた。
道は大渋滞でのろのろとしか進めない。雪が降り始め、阿武隈山地は白く染まった。
午後3時36分、福島第一原発の1号機が水素爆発を起こす。「そういえば海の方角で乾いたパーンという音がするのを車の中で聞いた。あれが爆発の音だったのか」
通常なら30分ほどで行ける川内村の体育館に5、6時間もかかって到着すると、避難者でごった返していた。
おにぎりが配られたが人数分はなく、子どもや女性に回して多くの男性は空腹に耐えた。富岡町の職員が「雪にあたらないでください」と呼び掛けていた。放射能を含む雪に触れないためだが、当時は意味がわからなかった。後に同じ職員がテレビ取材に「パニックを恐れて原発の爆発は隠していた」と答えるのを聞いた。
当時、政府は放射性物質を含んだ雲が阿武隈山地上空に流れているという情報を公表しなかった。高線量の雲は北側の浪江町津島地区や飯舘村に流れ、川内村は比較的低い汚染ですんだが、「運に恵まれただけでした」と坂本さんは振り返る。