2012年5月5日にシカゴ大学で開かれた「アトミックエイジII:福島」シンポジウムでの武藤類子さんの講演です。
この講演の英訳版は、The Asia-Pacific Journal: Japan Focus掲載の“Muto Ruiko and the Movement of Fukushima Residents to Pursue Criminal Charges against Tepco Executives and Government Officials”後半部分をご覧ください。
大震災と津波にともなう原発事故から1年以上が経ちました。私は事故の前まで福島原発から45Kmの山の中で小さいカフェを経営していました。
とても静かで自然の恵みがたくさんある美しいところでした。しかし原発事故で私の生活はすっかり変わってしまいました。原発事故が起きた後、どのような事が起きたのかを少しお話します。
3月11日、地震と津波が襲った後、原発に制御棒が入り停止したとラジオで流れました。しかし夕方になってから、原子炉を冷やすための電源を全て失ったとニュースが流れました。私はそれが何をひき起こすか少しだけ知識があったので、これは大変なことになったと思い、近くの友人の家を回り、避難を勧め、自分たちも車で避難をしました。しかしこの時点で住民には、国からの指示は何もありませんでした。夜になってから、原発から3Kmの人々の避難が始まりました。翌日に1号機が爆発、避難区域は20Kmまで拡大されました。津波に襲われた人々の中で、まだ生存していた人もいました。でも捜索隊も避難を余儀なくされ、救出に行くことはできませんでした。
避難区域の中にはたくさんの家畜やペット、生き物たちが残されました。避難の途中で多くのお年寄りが亡くなりました。高齢者や障害を持つ人々は避難そのものも、避難所での生活でも大変な困難を強いられました。
そんな中、日本の政府がしたことは、SPEEDIの情報や原子炉のメルトダウンについて国民に知らせないこと。それから事故を矮小化させようと安全キャンペーンを張ったこと。放射線量の高いところから放射線健康リスク管理アドバイザーという人たちが、「大丈夫です。安心しなさい。」と言って県内をくまなく回りました。さらに、年間に許容できる放射線量や食品基準値を引き上げることでした。
それによって、市民に起きたことは
- 安定ヨウ素剤はほとんど配られませんでした。
- 放射線の値がより高いところへ避難してしまいました。
- 外で地震の片付けをしました。
- 子どもといっしょに給水車や公衆電話の列に長い時間並びました。
- 外での部活がすぐに始まりました。
人々はどの情報を信じたら良いのか迷い、やがて分断されていきました。
- 飲み水を心配した親が学校に水筒を持たせたところ、皆が持ってきていないから水道の水を飲むようにと注意されました。
- 自分だけが安全な場所に避難するのはイヤダ。お友達はどうなる のと泣いた中学生がいました。
- 仕事や家のローンをかかえ、父親は福島に残り、母子が他県に避 難し、バラバラの生活をしている家族がたくさんあります。
- ある街には、巨大な室内遊戯場ができ、中にはジャングルジムやブ ランコ、砂場があります。子どもたちは楽しそうに遊んでいますが、そこには太陽の光も涼しい風も鳥の声もありません。
- 町や村のあちこちにふしぎな形のモニタリング・ポストができました。 刻々の空間線量が表示されています。
そして、1年が経ち、政府はそれがまるで唯一の被曝低減策であるかのように除染に莫大な予算を投じました。
そして、福島第1原発立地町以外の自治体は、避難した人々に帰還を呼びかけています。
- 人々の自主的に避難する権利や保養については、何の支援もありません。
除染は、大手ゼネコン会社が利権をにぎっています。一方で実際に被曝をしながら作業するのは事故で家や仕事を失った人たちです。または、住民の手による自らの地域の除染です。その効果はあまり思わしくはありません。また、ガンバロウ フクシマのスローガンのもとに復興が叫ばれています。郷土を思う気持ちはわかりますが、私にはその叫びはとてもむなしく響くのです。
- ある市では、今年4月から学校における野外活動の制限が解除されました。
- 幼児も参加するマラソン大会や小学生の鼓笛パレードも外で開催されます。
- 他県の中学生が海岸地域のガレキの片付のボランティアに来ました。
- 安全キャンペーンは、姿や規模を変えて小さな集まりやガン撲滅のための集会などにもぐり込むように進められています。
- 学校給食の食材卸し業者による産地偽装事件もおきました。
- 政府は食品について独自のきびしい基準を設けているスーパーなどに対し、過剰な規制は混乱のもとになると暗に圧力をかけています。
国の無策が人々をさらに差別と分断に落ち込ませます。 - 障害を持つ子どもがいるシングルマザーは他地区への避難や保養が難しく、子どもを被曝させ続けているという罪悪感に苦しんでいます。
- 放射能に関心を持ち、避難や防護を訴える人々は「気にしすぎる人」と言われます。
- 避難区域や保障の線引きのために人々の関係は断ち切られていきます。
- 人々は子どもたちの健康被害を心配しています。あらゆる防護が 必要です。しかし、一方で障害を持つ人々は放射能による新たな差 別や分断に危機感を募らせています。
- 電力の不足を理由に止まっている原発の再稼働が叫ばれ、さらには経済発展のために原発の輸出がされようとしてます。
しかし、今年の3月と4月には、再び地震が頻発していて、圧力容器の中ではなく、爆発のために傾き、むき出しになったプールの中に燃料棒が入っている4号機の崩壊を誰もが心配して暮らしています。
人々は翻弄され、傷つき、疲れ果て・・・やがて放射能へ警戒を手放して行きます。ここで生きていくしかないのだから、もう何も聞きたくないと耳を塞ぎます。
人々の分断は、あらゆる部分に放射性物質が入り込むのと同じように入り込んでいきます。昨年暮れに日本政府は福島原発事故の収束宣言をし、メディアもそう報道しました。
しかし、被害者にとって何一つ事故は終わっていないのです。
原発事故とはこのようなものです。
私は、26年前に旧ソ連のチェルノブイリ原発事故が起きた時に、初めて原発の危険性を知りました。
原発は、原料であるウランの採掘から廃棄物の処理に至るまで、労働者の被曝なしにはできない発電方法です。ウラン採掘ではアメリカ先住民の人々の被曝を、途中で発生する劣化ウランは兵器となってイラクやアフガニスタンの子どもたちの健康に被害を与え続けています。また原発の運転や定期検査にも、日常的な労働被曝は避けられません。事故が起こればチェルノブイリや今回の福島のように、一般市民に膨大な被爆が引き起こされます。
私は、今回の事故以前から、核に関してはかなり絶望的な思いがありました。核実験や原発事故で世界中にばら撒かれてしまった放射性物質、何万年も危険で有り続ける核廃棄物・・・・・・。もしかしたら、人間が手を染めてはいけないものだったのではないでしょうか。あらゆる生き物の命を巻き込む原発事故を招いてしまった人類の驕った行為ではなかったでしょうか。今回、さらに飛び散った放射性物質、それにまみれたガレキや汚泥、汚染された大地をどうしていったら良いのでしょうか。若い人々にそれを押し付けることが本当につらいです。
チェルノブイリ原発事故以来、私は福島県内で、原発に反対する運動を始めました。さまざまな講演会、自治体や東京電力への申し入れ・交渉、署名活動、自主住民投票、通信の発行などをしてきました。私がとても自分に合うアクションだなと思ったのは、非暴力直接行動というものでした。人前で話すことや、原子力発電の技術的・社会的仕組みについての追及などは苦手でしたが、その場に身を置くことで何かを訴えるやり方が私にはとてもなじみました。福島第二原発3号機での大事故の時には、「女たちのリレーハンスト」を企画しました。まだ、1992年に青森県六ケ所村で、「核燃いらない女たちのキャンプ」というアクションを起こしました。それは核燃料サイクル施設の一つ、ウラン濃縮工場に六フッ化ウランという核燃料の材料が運び込まれる時でした。初めて六ヶ所村に持ち込まれる放射性物質のトラックを何とか止めようと、日本全国から女たちが集まり、トラックの搬送路沿いにテントを貼って、1ヶ月間のキャンプをしました。搬入の当日、歌の合図に従って、女たちはひとり、ふたりと集団から抜け、警備の手薄な場所を見つけ、道路に出て行き、座り込みました。何度も排除されながら、50分だけトラックを止めました。今回の事故後も東京の経済産業省前で「原発いらない福島の女たち・100人の座り込み」のアクションを行いました。福島県内の座り込みなど生まれて初めての人々も多数参加してくれました。日本中から2000人を超す女たちがかけつけました。東京電力への交渉、事故からの1年後の「原発いらない地球(いのち)の集い」などの開催、原発再稼働に反対するリレーハンストなどのアクションを起こしています。今日、5月5日は日本にある54基が定期点検のためにすべて運転停止となり、原発稼動がゼロになりました。そこで、東京の経済産業省を”カンショ踊り”と言う福島県の古くから民衆に伝わる踊りを踊りながら囲むことになっています(今頃、みんなで踊っているでしょう)。
私が女たちのアクションにこだわるのは、決して男を排除したいからではありません。歴史のなかで女たちは大いなる差別と抑圧のなかで生きてきましたが、この弱肉強食・経済優先の現代社会のなかで、最前線で抑圧を受けているのは男たちのほうかもしれません。そのような意味で、女たちにはまだ少し違う力が残っていると思うのです。思いつきで、感覚的。でもやわらかくて辛抱づよい。らくちんで楽しく、いつもなんとかなってしまうこのやり方に、いままでと違う社会をつくる鍵があると思うのです。私は座り込みの朝、女たちにこう呼びかけました。
「ようこそ勇気ある女たち。遠くから、近くから、自分の時間とエネルギーとお金を割いて集まってくれた一人ひとりにありがとう。女たちの限りなく深い愛、聡明な思考、非暴力の力強さが新しい世界を創っていくよ! ともに座り、語り、歌いましょう!」
また、福島の市民たちは、日々、様々な行動に取り組んでいます。子どもたちや若い人々の被曝を低減するための避難、保養の計画を日本各地の支援者とともに進めています。安全な食べ物を入手できるルートを作ったり、市民の食品測定所を開いたりしています。被害者の支援のための法制定にも積極的に提言しています。
私たちは3月から東京電力と日本の原子力の規制機関などを訴える告訴団を作りました。6月の告訴に向けて1000人の団員を募るため、日々活動をしているところです。
被害を受けた者が立ち上がり、自分の言葉にして訴えていくことはとても大切なことだと考えています。
それは、分断された人々の気持ちをつなぐことにもなり、ひとりひとりの傷をいやし、力と尊厳を取り戻していくプロセスにもなると考えています。
日本の国は経済成長を最優先していく中で、従順な労働者や消費者を作るため、もの言わぬ国民に仕立ててきました。市民の怒りを封じ込めて来ました。社会も学校もメディアもみんなこぞってものを考えさせないようにしてきたのです。私たちはまんまとそれに乗せられてきたという自覚が必要です。今、市民が自信を誇りを取り戻さなければなりません。ひとりひとりが自分の頭で考え、自分ができる行動を取っていくことが大切だと思っています。私たちはそれぞれにすばらしい力を持っているのですから。
ここからは、私が原発事故が起きる前に営んでいた自然の中の暮らしを少しご紹介いたします。
私は、原発に反対する運動をする中で、世界に蔓延する核に対する絶望感と無力感に襲われることが何度もありました。そんな時にふと自分の「暮らし」に目が向いて行きました。
私たちが何気なく使う電気。それがつくられていく過程は、様々な差別とたくさんの命の犠牲の上に成り立っていることに気づいた時に、できるだけその対極にいたいと思いました。
そこで始めたのが山を開墾して、なるべく自給的な暮らしをすることでした。
― 武藤さんの3.11以前の暮らしのスライドを含む、発表のパワーポイントへのリンク(SlideRocketはブラウザ上で見られます。PDFはダウンロードされます。) ―
日本語版 SlideRocket / PDF
英語版SlideRocket/ /PDF
省エネの生活とは我慢をしたり、つらかったりするものではなく、頭を使い、工夫をすることがとても楽しいことです。自然との調和をめざすことは、気持ちの良いものです。私たちは便利さと引き替えにそういった喜びを奪われてきたのかもしれません。
しかし、原発事故のために私のささやかだけれどエネルギーを大切に使い、自然の恵みを糧とし、工夫に満ちた暮らしはもう戻りません。大地の汚染は長い長い時間・・・300年くらいを経なければ、もとと同じにはなりません。
私たちは、世界中の核兵器や原発について、深く考えなければなりません。また、消費やエネルギーの問題についても考え直す必要があります。何が豊かな暮らしなのか、どれが私たちがひとりひとりが幸せになることができる価値観なのか、深く考え、必要なアクションを起こしていきましょう。
福島原発の事故は最悪の事態を招きましたが、こうして今日皆様とお会いすることができました。人々がつながるチャンスでもあります。市民同士が手をつなぎ、支え合い、助け合える新しい世界を作るチャンスでもあると思います。
ともに歩んでいきましょう。