Tag Archives: 広島・長崎

ウェブアプリ:広島・長崎の平和イベントを一覧 via 毎日新聞

広島、長崎両市で夏に開催される平和イベントを集約し、検索できるスマートフォンのアプリ「Peace Week 2015  Hiroshima−Nagasaki」の運用が始まった。市民グループ代表の安彦(あびこ)恵里香さん(36)=広島市中区=らが独自に開発した。 150以上のイベント情報を収集済みで、随時更新していく。 (略) アプリの内容はパソコンからでも利用でき、会員登録も不要。原爆の日の式典だけでなく、広島、長崎それぞれの平和イベントの日時、場所が一目で確認 できるほか、日付ごとの絞り込み機能もある。地図上に、開催場所の表示もできる。今後も被爆者の講演会や学習会、音楽会など、あらゆるジャンルのイベント を掲載していく。 費用は全てインターネット上で寄付を募る「クラウドファンディング」で賄っており、少なくとも20年までは継続してサービスを続ける予定。安彦さんは「イベントに参加する道しるべとして使ってもらいたい」と話している。【田中将隆】 全文は ウェブアプリ:広島・長崎の平和イベントを一覧

Posted in *日本語 | Tagged , , | Leave a comment

あの島はどうなったのだろう 被爆70年、4世代の旅 via 朝日新聞

(抜粋) ■90歳の記憶、子に孫にひ孫に 70年前の1945年8月6日。中川タマさん(90)=神奈川県茅ケ崎市=は、朝礼で並んだ同僚らと体操をしていた。広島湾に浮かぶ周囲5キロほどの小さな島「金輪島(かなわじま)」。タマさんは陸軍船舶司令部(通称・暁部隊)の「野戦船舶本廠(ほんしょう)」で事務員として働いていた。 午前8時15分。「ドカーン」という爆音が突然響いた。「なんだろうね」。タマさんが同僚らと話していると、島の山を隔てた約6キロ北西の広島市中心部で大量の煙が立ち上った。みるみる大きくなり、「きのこ雲」になった。 それから、どれくらい時間がたったのか。船に乗せられた人たちが次々と島に運ばれてきた。全身にひどいやけどを負い、皮膚はだらりとむけていた。男性か女性か、区別がつかない人も少なくなかった。 うめき、苦しむ人たちを軍人が担架に乗せ、山中の防空壕(ごう)へ。タマさんら女性たちも手伝った。少し前まで話ができていた男の子は直後に絶命した。目を背けたくなる惨状だった。 夜になると、タマさんを含む100人ほどの女性たちは、金輪島から約3キロ南西の「似島(にのしま)」へ船で向かわされた。暗闇には、ずらりと横たわったたくさんの負傷者たち。尿を空き缶でとり、傷口を縫う軍医を手伝っていった――。 あれから70年。結婚で広島を離れて以来、タマさんは初めて金輪島に戻った。そして3人の息子、2人の孫、1人のひ孫に当時の壮絶な体験を島の慰 霊碑の前で語った。今の日本では、想像がつかないかもしれない戦争と原爆の話をどこまできちんと聞いてくれるのだろうか。だが、杞憂(きゆう)だった。 (略) 2カ月前、タマさんが車の中で「金輪島はどうなったのだろう」とつぶやいたことがきっかけとなり、実現した4世代・7人の被爆をたどる旅。行ってみようか、と提案した長男の重年さん(68)=同県厚木市=は「地獄を見た母の経験を次の世代に伝える仲立ちができれば。そう思ったんです」と明かした。 「私には『戦争はだめ』と旗を振る力はもうないけど、そうした思いを持っていると知ってほしかった」とタマさん。息子や孫が原爆の惨禍と平和の大切さに向き合う姿に触れ、改めて誓った。「この島で亡くなった人たちのことを、けっして忘れない」 ■「水をください」 刻んだ碑 負傷者は血だらけで、手をにぎると皮がつるりとむげ、水をくださいと叫びながら、次々に恐怖と苦悶(くもん)の中で息絶えた (略) 〈金輪島〉広島市南区の沖にあり、面積は約1平方キロメートル。1894(明治27)年に陸軍の造船・船舶修理工場が造られた。「広島原爆戦災誌」によると、原爆が投下された時、島には将兵や工場労働者ら約1千人がいた。島外から約500人の負傷者が運び込まれたとされるが、死者数や負傷者の行き先を詳しく示す資料は残っていない。軍需施設があった瀬戸内海の島々は軍の検閲によって写真から削除され、戦時中の金輪島も「消された島」の一つだった。現在も造船工場などがあり、80人ほどが暮らしている。 全文はあの島はどうなったのだろう 被爆70年、4世代の旅  

Posted in *日本語 | Tagged , , , , | Leave a comment

戦争と平和を映画で見つめ直す 広島県内12館で高校生以下を招待 via 産経ニュース

被爆70年にちなみ、県内12の映画館が7~8月、「戦争と平和」をテーマにした映画を上映し、高校生以下を無料招待することに なり、広島市役所で行った会見で概要を発表した。平和の大切さや被爆体験を次世代に伝えると同時に、大スクリーンで映画の魅力を知ってもらう試み。 上映作品は広島出身の新藤兼人監督の「原爆の子」をはじめ、「聯合艦隊司令長官 山本五十六」「おかあさんの木」「あの日の声を探して」などの7本。 7月11日~8月25日に各館が1作品を1回だけ上映する。「野火」を上映するシネマ尾道(尾道市)と福山駅前シネマモード(福山市)では塚本晋也監督、 「ヒロシマ・ナガサキダウンロード」を上映する横川シネマ(広島市西区)では竹田信平監督がそれぞれ舞台あいさつ。「アオギリにたくして」のサロンシネマ (広島市中区)でも中村里美プロデューサーと伊藤茂利音楽監督があいさつする。 (略) 無料招待は先着順で、各劇場に往復はがきで申し込む。問い合わせは県興行生活衛生同業組合(電)082・293・9919へ。 全文は戦争と平和を映画で見つめ直す 広島県内12館で高校生以下を招待

Posted in *日本語 | Tagged , , | Leave a comment

在外被爆者の医療費認めず 広島地裁「適正額の確認困難」 via 日本経済新聞

 海外で暮らし、居住国で受診した場合、被爆者援護法に基づく医療費の全額支給を受けられないのは違法だとして、米国在住の被爆者13人が国と広島 県を相手取り、医療費支給の却下処分取り消しなどを求めた訴訟で、広島地裁は17日、全額支給を認めず、原告側の訴えを全面的に退けた。原告側は控訴する 方針。 在外被爆者の医療費訴訟では、大阪高裁が昨年6月、支給を認めるとした大阪地裁判決を支持。しかし、同3月の長崎地裁は訴えを退け、判断が分かれている。 13人は、いずれも広島で被爆した70~80代の男女(うち1人は死亡)。 梅本圭一郎裁判長は判決理由で、援護法では国内の指定医療機関の受診が原則で「医療内容と費用の額が、適正かどうか確認できるのを前提に支給を認めている。国外の医療機関では適正性が担保できない」とした。 (略) 判決後、原告弁護団は「『被爆者はどこにいても被爆者だ』と認めてきた司法判断を否定するもの。国内の被爆者との差別を正面から認めた判決だ」と批判した。〔共同〕 全文は在外被爆者の医療費認めず 広島地裁「適正額の確認困難」

Posted in *日本語 | Tagged , , , , , | Leave a comment

松村明写真展「Evidence NAGASAKI―ありふれた長崎 爆心1Km―」 via デジカメWatch

(抜粋) 長崎に原爆が投下されて今年で70年という年月が経ちます。被爆者の高齢化や歳月の経過が原爆を過去の出来事として風化させ、街の移り変わりと共にその記憶が薄れているように感じた氏は、原爆の記憶を留めようと撮影をはじめました。 被爆した樹木、爆風で吹き飛ばされた鳥居、原爆の閃光を浴びた石垣など、今も長崎の日常的風景の中に残る被爆の痕跡を氏は丁寧に写 しとめています。同時に平和祈念像前で手を合わせる年配者の姿や、カメラの前に立つ被爆者のポートレイトから伝わってくる悲しみは、私たちに原爆の悲惨さ を静かに語りかけてきます。 世代を超えて原爆に対しての気持ちを共有することや、直接伝えていくことが難しい状況に立ち至っている現在、あの悲惨な出来事を二 度と繰り返さないためにも、過去のこととして忘れていくのではなく、今も続く被爆の苦しみに目を向けてほしいという氏の想いが感じられる作品展です。 (写真展情報より) 会場・スケジュールなど ・会場:JCIIフォトサロン ・住所:東京都千代田区一番町25番地JCIIビル ・会期:2015年6月30日火曜日~2015年7月20日月曜日(祝日) ・時間:10時~17時 ・休館:月曜日(祝日は開館) ・入場:無料 全文は松村明写真展「Evidence NAGASAKI―ありふれた長崎 爆心1Km―」

Posted in *日本語 | Tagged , , , | Leave a comment

ケネディ米大使が被爆地広島を再訪、慰霊碑に献花 via Global Voices

キャロライン・ケネディ駐日米大使が4月に広島を訪問し、日本側関係者から歓迎を受けた。 ケネディ氏は駐日米大使として、2014年8月に69周年の平和記念式典に出席した。現役の米大使が、1945年に広島に投下された原爆被害者のための平和記念式典に出席したのはわずか2回でしかない。 (略) この4月の広島訪問についてさらに注目すべき点は、ケネディ大使が広島平和記念資料館を訪れ、原爆慰霊碑に献花した点である。これは現役の米国大使として前例のない事だ。 ケネディ大使はジョン・F・ケネディ元大統領の生存している唯一の子供であり、1978年、当時上院議員だった故エドワード・ケネディ氏と共に、 初めて広島平和記念資料館を訪れている。 アメリカの大使が広島の原爆資料館を訪問すると決めたことは、多くの日本人にとって意義深いものであり、オバマ大統領が2009年と2013年に提唱した核兵器削減宣言の後に続くものである。広島と長崎の市民は、核攻撃を体験した世界でたった2つの都市であり、長い間核兵器の廃止を求めてきた。 ケネディ大使が広島を訪問したのは、 広島市長である松井一實氏がロシアのプーチン大統領の発言に対し失意を表明したちょうど1ヶ月後だった。ロシアのプーチン大統領はドキュメンタリー番組において、ウクライナ危機の最中、モスクワは厳戒態勢で核兵器の準備をしていたと言及したのだ。日本がロシアとの貿易協定を締結させようとしていたときのことである。 日本は後に、ロシアのクリミア侵攻に対し経済制裁を下した。 全文は ケネディ米大使が被爆地広島を再訪、慰霊碑に献花 関連記事: Kennedy visits Hiroshima A-bomb museum for first time as U.S. envoy via The Japan Times

Posted in *日本語 | Tagged , , , | Leave a comment

長崎の悲劇「避けられた」原爆投下、技術者も反対 via 中国新聞

[ニューヨーク共同] 米国が原爆を開発した「マンハッタン計画」に技術者として参加したジェームズ・ショーキ氏(91)は9日までに米フロリダ州の自宅で共同通信の取材に応じ、市民を巻き込む原爆の実践使用には反対だったと証言、少なくとも「長崎への投下は避けられたはずだ」と述べた。 (略) 原爆の破壊力を熟知した科学者の間では実践使用をためらう声があったことが知られているが、ショーキ氏の発言は現場の技術はの間でも消極的な意見が広がっていた実態を裏付けるものだ。 全文は長崎の悲劇「避けられた」原爆投下、技術者も反対

Posted in *日本語 | Tagged , , , | Leave a comment

「マンハッタン計画」に関わっていた女性科学者に話を聞きました。via FNN News

第2次世界大戦の終結から、2015年で70年を迎えます。日本に投下された原子爆弾は、当時、アメリカで秘密裏に行われていた「マンハッタン計画」で開 発されました。その計画に関わっていた女性科学者が、FNNのインタビューに応じ、計画の裏側や、後悔する思いなどについて語りました。 (略) 元研究者のノーマン・ブラウンさんは、「街を歩いていたら、人々が寄ってきて、『戦争を終わらせてくれてありがとう』と言ってくれた。原爆は、いい結果を生んだのかもしれないと感じた」と話した。 こうした声がある一方、原爆の開発を悔やむ元研究者もいる。 イザベラ・カールさん、93歳。 イザベラさんは「わたしは、博士号を取得してから、数カ月後に計画に加わった。23歳の時だった」と話した。 1943年、夫のジェロームさんが研究を行っていたシカゴ大学の特別施設に勧誘され、原爆に使われるプルトニウムの研究に携わることになった。 施設では、数百人の科学者が、研究に携わっていたが、女性はイザベラさんだけで、「マンハッタン計画」の全貌は知らされていなかったという。 イザベラさんは、「当時、ドイツがわれわれと同様の研究をしているという、深刻な憂慮があった。もし、ドイツが先に原爆を手に入れれば、ヨーロッパ全域が消滅すると考えられていた」と話した。 断片的な情報から、開発中の原爆は、ドイツに対して使用されると考えていたイザベラさん。 しかし、ドイツの降伏後に、日本に投下されたことを知らされた。 イザベラさんは、「『マンハッタン計画』の研究者は、わたしが知るかぎり、原爆投下が成功しないことを願っていた。原爆投下が成功したという事実に驚がくした」と話した。 戦後は、研究の功績を表彰されたが、原爆の開発に関わったことには、後悔の念を抱いている。 イザベラさんは、「とても申し訳なく感じた。原爆は、戦争とは関係のない、多くの人々を犠牲にした。原爆投下は、戦争終結に必要だったかもしれない。でも、はたして、2つも原爆を落とすべきだったのだろうか?」と話した。 イザベラさんは今、核兵器が2度と使われることのないよう、強く願っている。 全文と動画は「マンハッタン計画」に関わっていた女性科学者に話を聞きました。  

Posted in *日本語 | Tagged , , , | Leave a comment

被爆者75人分カルテ、佐賀の病院で発見 「詳細で貴重」 via 日本経済新聞

 佐賀県の医師や大学教授らでつくる「佐賀医学史研究会」(鍵山稔明会長)は、長崎と広島の被爆者計75人分のカルテを旧佐賀県立病院(現県医療セ ンター好生館)で発見したと明らかにした。病状だけでなく、被爆した克明な状況や死後に病理解剖した臓器の状態も記されている。 原爆に関する資料は、戦後に進駐軍が多くを没収しており、研究会の青木歳幸事務局長は「詳細な記録がまとまって見つかるのは近年では珍しい。人体への影響を研究する上で貴重な資料」と話している。 75人は1945年8月14日~46年1月、当時の県立病院内科を受診した16~59歳の男女。妊婦もいた。カルテには脱毛や皮下出血などがドイツ語と日本語で記されている。放射能被害の特徴的な症状の一つとされる白血球の減少がみられる人もいた。 (略) 病院によると、カルテは原則、専用の倉庫でまとめて保管するが、県立病院に進駐軍の医師が複数回訪問した記録があるため、当時の医師が見つからないよう別に保管していた可能性もある。〔共同〕 全文は被爆者75人分カルテ、佐賀の病院で発見 「詳細で貴重」

Posted in *日本語 | Tagged , , , , | Leave a comment

連載第1回 これから起きる“内部被ばく”の真実を覆う、放射能の「安心神話」 放射能の光と影、政府のデタラメな対応で健康被害の問題は置き去りに via Health Press

(抜粋) 「安全神話」「安心神話」へのすり替え 私は、地方のがんセンターの臨床医として、40年間、放射線を用いたがん治療に従事してきましたが、その業務は放射線の有効利用を追求してきたものです。 (略) 21世紀に入ってからの放射線治療の照射技術の進歩は著しく、放射線の医学利用という「表」の世界は加速度的に進化しています。しかし一方で、放射 線による健康被害という「影」の世界は、広島・長崎の原爆投下によるデータを基にした「疑似科学」によって支配され、研究の進歩が止まっています。放射性 核生成物による不都合な健康被害に関しては研究もせず、また研究もさせない姿勢で推移しているのです。 福島原発事故後の対応もこうしたレールに乗って進められています。破綻した原発の「安全神話」は、100ミリシーベルト以下の被ばくならば過剰発がんは 心配ないとする「安心神話」にすり替えられ、汚染地域への帰還を促しています。また、原発再稼働の審査においても「安全基準」から「規制基準」へと言葉を 変えて再稼働を進めようとしています。 さらに、原発輸出にも積極的で、日本でも処理の目途が立っていないにもかかわらず、売り込んだ原発の放射線廃棄物は日本が全部引き受けるとか、原 発稼働の費用も税金から融資し、原発事故が起きたら日本の税金で補償するという密約を交わして、世界中に放射線物質を撒き散らそうとしています。 「法治国家」ならぬ「放痴国家」の現状 しかし、一般国民も深刻な原発事故による日本の危機に無頓着で、マスコミ報道の鎮静化とともに関心は風化してきました。そして日本という国は、放 射線量が年間20ミリシーベルトの地域にまで国民を住まわせるために、退避していた人々を帰還させようとする、「法治国家」ならぬ「放痴国家」となってい ます。 原発稼働にともなう緊急時の被ばく医療対策は、東海村JCO臨界事故の教訓を踏まえて、2000年6月に「原子力災害対策特別措置法」が施行され、事故時の初期対応の迅速化、国と都道府県および市町村の連携確保等、防災対策の強化・充実が図られてきたはずでした。 しかし、現実の対応は犯罪的ともいえるほど杜撰でデタラメなもので、さらに情報の隠蔽も行われました。そして健康被害の問題は置き去りにされ、地域経済の復興だけが目指され、帰還が促されているのです。 全文は連載第1回 これから起きる“内部被ばく”の真実を覆う、放射能の「安心神話」

Posted in *日本語 | Tagged , , , , , , | Leave a comment