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『福島の野菜農家が自殺 摂取制限指示に「もうだめだ」』 via asahi.com

 福島県須賀川市で24日朝、野菜農家の男性(64)が自宅の敷地内で首をつり、自ら命を絶った。福島第一原発の事故の影響で、政府が一部の福島県産野菜について「摂取制限」の指示を出した翌日だった。震災の被害に落胆しながらも、育てたキャベツの出荷に意欲をみせていたという男性。遺族は「原発に殺された」と悔しさを募らせる。 続きは『福島の野菜農家が自殺 摂取制限指示に「もうだめだ」』から。

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子ども甲状腺がん裁判意見陳述要旨(原告2)via 311supportnet

Microsoft Word – 意見陳述要旨(原告2).docx 令和4年(ワ)第1880号 311子ども甲状腺がん裁判(損害賠償請求事 件)原告 1~6被告 東京電力ホールディングス株式会社 意見陳述要旨 2022年(令和4年)5月19日 原告2 あの日は中学校の卒業式でした。 友だちと「これで最後なんだねー」と何気ない会話をして、部活の後輩や友だ ちとデジカメで写真をたくさん撮りました。そのとき、少し雪が降っていたよ うな気がします。 地震が来た時、友だちとビデオ通話で卒業式の話をしていました。最初は、「地 震だ」と余裕がありましたが、ボールペンが頭に落ちてきて、揺れが一気に強 くなりました。 「やばい!」という声が聞こえて、ビデオ通話が切れました。「家が潰れる。」 揺れが収まるまで、長い地獄のような時間が続きました。 原発事故を意識したのは、原発が爆発した時です。「放射能で空がピンク色にな る」 そんな噂を耳にしましたが、そんなことは起きず、危機感もなく過ごしていま した。 3月16日は高校の合格発表でした。 地震の影響で電車が止まっていたので中学校で合格発表を聞きました。歩いて 学校に行き、発表を聞いた後、友達と昇降口の外でずっと立ち話をして、歩い て自宅に戻りましたが、 その日、放射線量がとても高かったことを私は全く知りませんでした。 甲状腺がんは県民健康調査で見つかりました。 この時の記憶は今でも鮮明に覚えています。 その日は、新しい服とサンダルを履いて、母の運転で、検査会場に向かいまし 1 た。 検査は複数の医師が担当していました。検査時間は長かったのか。短かったの か。首にエコーを当てた医師の顔が一瞬曇ったように見えたのは気のせいだっ たのか。検査は念入りでした。 私の後に呼ばれた人は、すでに検査が終わっていました。母に「あなただけ時 間がかかったね。」と言われ、「もしかして、がんがあるかもね」と冗談めかし … Continue reading

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「若者が希望持てる判決を」 原発事故被災者愛媛訴訟の原告・渡部寛志さん via 東京新聞

連載「6・17最高裁判決/原発被災者4訴訟」④愛媛 ◆避難、離婚…家族はバラバラに  「フクシマさん、フクシマさん」。福島県南相馬市から愛媛県に避難した渡部寛志さん(43)は、愛媛で知り合った人からこう呼ばれることがある。東京電力福島第一原発事故から11年がたっても、「避難者」であり続ける。そして、差別もなくならない。 福島から愛媛に避難しているのは、わずか22人(4月時点、復興庁調べ)。人数が少ないだけに「避難者が目立ち、差別につながりやすい」。住居を購入しても、近所の人たちに福島から来たことを隠し続けている避難者もいる。  事故前、原発の北約12キロにある南相馬市小高区で妻と娘2人と暮らし、専業農家をしていた。政府の避難指示で町を離れ、事故から1カ月後、大学時代を過ごした愛媛に避難した。 遠く離れた地での避難生活が長引き、妻と意見が衝突することが増え、2019年に離婚した。渡部さんと次女(13)が残り、長女(17)は元妻と福島県須賀川市に移った。家族がバラバラになった現実に、「原発事故が起きなかったなら…」との思いが拭えない。 ◆国の冷酷な態度見せつけられ 国と東電を相手に裁判を起こすきっかけとなったのは、松山市内の住職の呼びかけで事故直後に始まった避難者の交流会。月1回集まると、「経済的に苦しい」と窮状を訴える声が相次いだ。賠償を東電に任せ、避難者支援も不十分なまま放置している国が許せなかった。  交流会に参加する避難者を一軒一軒訪ねて説明し、原告を募った。子育て世代の避難者が多く、事故時に20歳未満だった原告は8人と3割に上る。  15年1月、松山地裁での第1回口頭弁論で、国の冷酷な態度を見せつけられた。避難生活の苦しさを法廷で意見陳述しようとしたところ、国の代理人は「(裁判の)証拠にならないから不要だ」と、耳を傾けようとしなかった。その後も延々と科学的な論争が続き、傍聴席で疑問に思った。「この裁判に、避難者の居場所はあるのだろうか」 ◆「避難者の学校ほしかった」 […] その中に、いじめに遭い不登校になった兄弟がいた。弟は20年秋に自殺した。22歳の兄は「避難者同士が通える避難者学校を全国につくってほしかった」と吐露し、「『悪かった』と素直に謝罪ができる国だったら、そもそも事故は起きなかった」と憤った。  渡部さんの中学2年の次女は「同級生は原発事故をあまり知らない。知らないとまた事故を起こすから、判決が出たら『国の政策によって起きた事故』と教科書に載せてほしい」。  若い原告の声を聞き、渡部さんは思う。「これからも事故を背負って生きていく若者が、希望を持てる判決を言い渡してほしい」(小野沢健太)  愛媛訴訟 東京電力福島第一原発事故で福島県内から愛媛県内に避難した住民が2014年3月から順次提訴し、25人が国と東電に慰謝料を請求。一審松山地裁(久保井恵子裁判長)は19年3月26日、国と東電に計2743万円の支払いを命じた。21年9月29日、二審高松高裁(神山隆一裁判長)も、東電に津波対策を講じさせなかったのは「許容される限度を逸脱して著しく合理性を欠く」と国の責任を認め、計4621万円の支払いを命じた。東電の賠償責任は最高裁第2小法廷(菅野博之裁判長)が22年3月30日付で東電の上告を退け、確定した。 全文

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「歩く風評被害」と言われても、私は逃げない 覚悟決めた原発事故被災者福島訴訟の中島孝原告団長via 東京新聞

連載「6・17最高裁判決/原発被災者4訴訟」①福島 ◆店、つぶしちゃうかもしれないな  「原告団長になってもらえませんか」。2012年12月、東京から訪れた馬奈木まなぎ厳太郎いずたろう弁護士(46)からそう頼まれた時、福島県相馬市で地元鮮魚を扱うスーパーを営む中島孝さん(66)は即答できなかった。「店、つぶしちゃうかもしれないな」 東日本大震災直後、スーパーには水や食べ物を求めて毎日、たくさんの人が詰め掛けた。買い置きの店の米を炊き、交渉して市場の冷凍倉庫から魚を買い、漂白したいけすで水を運んだ。ガソリンがなく自転車や歩きで遠方から来る人も。1日1500人が長蛇の列を作った。周辺の店が閉まる中、地域の人を餓死させてはならないと、死に物狂いで食材を確保した。 東京電力福島第一原発事故の後、福島の漁業は操業停止に。仲買業者も中島さんが組合長を務める小売業者組合も、地元の魚が手に入らず困窮した。「首つるしかねぇ」。そんな声が日々、入ってきた。弁護士の力も借りて東京電力に損害賠償を直接請求したが、遅々として進まなかった。 ◆売り上げ3割減、妻と無給で年金暮らし 東電と国に損害賠償を求める訴訟の原告団長に請われたのはそんな時だった。妻和美さん(66)からは「みんな首つりそうなんだべ。息子に魚の切り方教えっから。店は何とかすっから」と背中を押された。弁護団に「私財をなげうっても勝つ覚悟です」と言われたことも脳裏をよぎった。「逃げるわけにはいかない」 […] 原告団長として被害を訴え続けることで周囲から非難されるだろうと覚悟していた。「歩く風評被害」と近隣住民から言われた時はこたえた。だが、東電と国に原発事故の責任を認めて謝罪させ、原告以外の被害者も救済するという気持ちは揺るがなかった。 ◆再稼働進めようとする国 判決で終わりではない  事故から11年超が過ぎ、100人以上の原告が亡くなった。中島さんは15年に自殺した福島県南相馬市のラーメン屋だった高木光雄さん=当時(71)=が忘れられない。法廷で「子どもたちが家族で店に来てくれるのが喜びだった。避難指示区域となり、その店さえできない。悔しさが分かるか」と意見陳述した姿が心に残る。遺書はなかった。 中島さんは言う。「最高裁判決で国の責任が認められると信じている。亡くなった仲間にも聞かせたかった。国は今、再稼働を進めようとしている。判決で終わりではない。原告団は解散せず、二度と原発事故が起きない社会を次世代に引き継げるまで闘い続ける」(片山夏子、写真も)  福島訴訟 「生業なりわいを返せ、地域を返せ!」をスローガンに2013年3月11日に提訴した。原告は福島県や茨城県などの住民ら約5000人で、原発事故の被災者訴訟として最多。一審福島地裁(金沢秀樹裁判長)は国の責任を東電の2分の1としたが、二審仙台高裁(上田哲裁判長)は東電と同等と判断し、賠償金も一審の倍となる総額10億1000万円にした。高裁判決は、国の賠償基準「中間指針」で帰還困難区域だけに認められた「ふるさと喪失」の慰謝料の対象地域を拡大。避難指示区域の外にある福島・会津地方などや栃木、宮城両県の一部の被災者への賠償も認めた。 […] 全文

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「子ども甲状腺がん裁判」 始まる~20代女性陳述「大学行きたかった」 via OurPlanet-TV

[…] この日の裁判では、弁護士らが訴状の要旨を陳述したほか、原告の20代女性が法廷に立ち、意見陳述した。女性は、高校生の時にがんが発覚。手術後、大学に進学したものの、再発と転移により、大学を中退。以来、治療中心の生活を送っている。放射性ヨウ素を服用する特殊な治療・アイソトープ治療の過酷さや、将来の夢を描けない苦しさを綴った陳述書を、約15分かけて読み上げた。 甲状腺がんをめぐっては、インターネットを中心に、被曝影響を主張する言説に対してバッシングが広がっていることもあり、原告は、傍聴席からは見えないよう、四角いパーテーションで囲われた中で陳述した。がんが分かった時のことや、大学を断念したことなど、苦しい経験を語るくだりでは、時折、声をつまらせたり、しゃくりあげるような泣き声となったが、声を震わせながらも最後まで読み続けた。 2回目以降の意見陳述は未定 この日は、意見陳述をした原告以外に、3人の原告が出廷。やはり傍聴席から見えないよう、パーテーションで仕切られた原告席で弁論に参加した。同席した弁護士によると、原告の陳述に聴き入りながら、3人とも涙が止まらなくなり、慟哭するようば場面もあったという。意見陳述の間中、法廷内は、鼻をすする声が終始聞こえていた。 原告の意見陳述をめぐっては、4月に行われた進行協議で、東京電力が原告の意見陳述の実施に反対を唱えており、2回目以降の予定は決まっていない。原告弁護団は弁論の最後に、原告の意見陳述を認めるよう改めて主張。被告側代理人は明確に反対はせず、裁判所に委ねると述べた。裁判所は1週間程度で方針を示す。 被曝との因果関係が争点 この裁判の最大の争点は、事故に伴う放射線被曝とがん発症の因果関係となる見通しだ。原告側は、年間で100万人に1~2人しか発症しない小児甲状腺がんが、この10年間に293人が発症したと指摘。また、子どもの甲状腺がんの最大の発症因子は放射線被曝であることから、疫学的な手法で、因果関係は証明できると主張している。 一方、原告側によると、東電側は答弁書で、原告らは被曝していないなどと反論しているという。次回の裁判は、3ヶ月後の9月7日に開かれる。 […] 原告の意見陳述要旨 あの日は中学校の卒業式でした。友だちと「これで最後なんだねー」と何気ない会話をして、部活の後輩や友だちとデジカメで写真をたくさん撮りました。そのとき、少し雪が降っていたような気がします。 地震が来た時、友だちとビデオ通話で卒業式の話をしていました。最初は、「地震だ」と余裕がありましたが、ボールペンが頭に落ちてきて、揺れが一気に強くなりました。「やばい!」という声が聞こえて、ビデオ通話が切れました。 「家が潰れる。」揺れが収まるまで、長い地獄のような時間が続きました。 原発事故を意識したのは、原発が爆発した時です。「放射能で空がピンク色になる」そんな噂を耳にしましたが、そんなことは起きず、危機感もなく過ごしていました。 3月16日は高校の合格発表でした。地震の影響で電車が止まっていたので中学校で合格発表を聞きました。歩いて学校に行き、発表を聞いた後、友達と昇降口の外でずっと立ち話をして、歩いて自宅に戻りましたが、その日、放射線量がとても高かったことを私は全く知りませんでした。 甲状腺がんは県民健康調査で見つかりました。この時の記憶は今でも鮮明に覚えています。その日は、新しい服とサンダルを履いて、母の運転で、検査会場に向かいました。 検査は複数の医師が担当していました。検査時間は長かったのか。短かったのか。首にエコーを当てた医師の顔が一瞬曇ったように見えたのは気のせいだったのか。検査は念入りでした。 私の後に呼ばれた人は、すでに検査が終わっていました。母に「あなただけ時間がかかったね。」と言われ、「もしかして、がんがあるかもね」と冗談めかしながら会場を後にしました。この時はまさか、精密検査が必要になるとは思いませんでした。 精密検査を受けた病院にはたくさんの人がいました。この時、少し嫌な予感がしました。血液検査を受け、エコーをしました。やっぱり何かおかしい。自分でも気づいていました。そして、ついに穿刺吸引細胞診をすることになりました。この時には、確信がありました。私は甲状腺がんなんだと。 わたしの場合、吸引する細胞の組織が硬くなっていたため、なかなか細胞が取れません。首に長い針を刺す恐怖心と早く終わってほしいと言う気持ちが増すなか、3回目でようやく細胞を取ることができました。 10日後、検査結果を知る日がやってきました。あの細胞診の結果です。病院には、また、たくさんの人がいました。結果は甲状腺がんでした。 ただ、医師は甲状腺がんとは言わず、遠回しに「手術が必要」と説明しました。その時、「手術しないと23歳までしか生きられない」と言われたことがショックで今でも忘れられません。 手術の前日の夜は、全く眠ることができませんでした。不安でいっぱいで、泣きたくても涙も出ませんでした。でも、これで治るならと思い、手術を受けました。 手術の前より手術の後が大変でした。目を覚ますと、だるさがあり、発熱もありました。麻酔が合わず、夜中に吐いたり、気持ちが悪く、今になっても鮮明に思い出せるほど、苦しい経験でした。今も時折、夢で手術や、入院、治療の悪夢を見ることがあります。 手術の後は、声が枯れ、3ヶ月くらいは声が出にくくなってしまいました。 病気を心配した家族の反対もあり、大学は第一志望の東京の大学ではなく、近県の大学に入学しました。でも、その大学も長くは通えませんでした。甲状腺がんが再発したためです。 大学に入った後、初めての定期健診で再発が見つかって、大学を辞めざるをえませんでした。「治っていなかったんだ」「しかも肺にも転移しているんだ」とてもやりきれない気持ちでした。「治らなかった、悔しい。」この気持ちをどこにぶつけていいかわかりませんでした。「今度こそ、あまり長くは生きられないかもしれない」そう思い詰めました。 1回目で手術の辛さがわかっていたので、また同じ苦しみを味わうのかと憂鬱になりました。手術は予定した時間より長引き、リンパ節への転移が多かったので傷も大きくなりました。 1回目と同様、麻酔が合わず夜中に吐き、痰を吸引するのがすごく苦しかった。2回目の手術をしてから、鎖骨付近の感覚がなくなり、今でも触ると違和感が残ったままです。 手術跡について、自殺未遂でもしたのかと心無い言葉を言われたことがあります。自分でも思ってもみなかったことを言われてとてもショックを受けました。手術跡は一生消えません。それからは常に、傷が隠れる服を選ぶようようになりました。 手術の後、肺転移の病巣を治療するため、アイソトープ治療も受けることになりました。高濃度の放射性ヨウ素の入ったカプセルを飲んで、がん細胞を内部被曝させる治療です。 1回目と2回目は外来で治療を行いました。この治療は、放射性ヨウ素が体内に入るため、まわりの人を被ばくさせてしまいます。病院で投薬後、自宅で隔離生活をしましたが、家族を被ばくさせてしまうのではないかと不安でした。2回もヨウ素を飲みましたが、がんは消えませんでした。 3回目はもっと大量のヨウ素を服用するため入院することになりました。病室は長い白い廊下を通り、何回も扉をくぐらないといけない所でした。至る所に黄色と赤の放射線マークが貼ってあり、ここは病院だけど、危険区域なんだと感じました。病室には、指定されたもの、指定された数しか持ち込めません。汚染するものが増えるからです。 病室に、看護師は入って来ません。医師が1日1回、検診に入ってくるだけです。その医師も被ばくを覚悟で検診してくれると思うととても申し訳ない気持ちになりました。私のせいで誰かを犠牲にできないと感じました。 薬を持って医師が2、3人、病室に来ました。薬は円柱型のプラスチックケースのような入れ物に入っていました。 薬を飲むのは、時間との勝負です。医師はピンセットで白っぽいカプセルの薬を取り出し、空の紙コップに入れ、私に手渡します。 医師は即座に病室を出ていき、鉛の扉を閉めると、スピーカーを通して扉越しに飲む合図を出します。私は薬を手に持っていた水と一緒にいっきに飲み込みました。 飲んだ後は、扉越しに口の中を確認され、放射線を測る機械をお腹付近にかざされて、お腹に入ったことを確認すると、ベッドに横になるように指示されます。 すると、スピーカー越しに医師から、15分おきに体の向きを変えるように指示する声が聞こえてきました。 … Continue reading

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【傍聴記】311子ども甲状腺がん裁判 via ウネリウネら

《あの日は中学校の卒業式でした。 友だちと「これで最後なんだねー」と何気ない会話をして、部活の後輩や友だちとデジカメで写真をたくさん撮りました。そのとき、少し雪が降っていたような気がします。》  記者は人の話を聞くのが仕事だけれど、こんなに必死になって人の話に耳を傾けたのは、久しぶりかもしれない。プライバシー保護のため、東京地裁103号法廷の中央はパーテーションで仕切られている。その仕切りの奥から、原告の方の声が聞こえてくる。 […] 午後2時の開廷から約1時間後、原告の1人による意見陳述は始まった。その声が聞こえてきた瞬間、法廷の空気は一変した。先ほどまで余裕ぶった表情で裁判に臨んでいた東電側の弁護士たちが、悄然として原告の声に耳を傾けている。 《甲状腺がんは県民健康調査で見つかりました。この時の記憶は今でも鮮明に覚えています。その日は、新しい服とサンダルを履いて、母の運転で、検査会場に向かいました。》 《私の後に呼ばれた人は、すでに検査が終わっていました。母に「あなただけ時間がかかったね。」と言われ、「もしかして、がんがあるかもね」と冗談めかしながら会場を後にしました。この時はまさか、精密検査が必要になるとは思いませんでした。》  この原稿を書いている今でも、原告の声音をはっきり思い出せる。やわらかくて、丁寧で。私は福島に住んで2年余り。数は少ないが、同じ年ごろの人たちと話したことがある。その人たちと同じ声をしている。 《医師は甲状腺がんとは言わず、遠回しに「手術が必要」と説明しました。その時、「手術しないと23歳までしか生きられない」と言われたことがショックで今でも忘れられません。》 《大学に入った後、初めての定期検診で再発が見つかって、大学を辞めざるをえませんでした。「治っていなかったんだ」「しかも肺にも転移しているんだ」とてもやりきれない気持ちでした。「治らなかった、悔しい」この気持ちをどこにぶつけていいかわかりませんでした。「今度こそ、あまり長くは生きられないかもしれない」そう思い詰めました。》  「治らなかった、悔しい」。そう言ったところで、原告の方は少し声をつまらせた。鼻をすするような声も聞こえる。それでも、陳述が止まることはなかった。声がかすれて聞き取れなくなることもなかった。この人は強い、と思った。傍聴席ではもう、みんなボロボロ涙を流していた。 《手術跡について、自殺未遂でもしたのかと心無い言葉を言われたことがあります。自分でも思ってもみなかったことを言われてとてもショックを受けました。手術跡は一生消えません。それからは常に、傷が隠れる服を選ぶようになりました。》 […] 《一緒に中学や高校を卒業した友だちは、もう大学を卒業し、就職をして、安定した生活を送っています。そんな友だちをどうしても羨望の眼差しでみてしまう。友だちを妬んだりはしたくないのに、そういう感情が生まれてしまうのが辛い》   ここのところで、原告の方はもう一度、声を詰まらせた。私は心の中で声援を送ることしかできなかった。 《もとの身体に戻りたい。そう、どんなに願っても、もう戻ることはできません。この裁判を通じて、甲状腺がん患者に対する補償が実現することを願います。》 […] 原告側の井戸謙一弁護士が立ち上がる。 「裁判長、原告側は6人全員の意見陳述の機会を求めます。きょう陳述を行った原告は6人の代表ではありません。皆さん、ひとり一人置かれた状況はちがいます。そのことを裁判官には早期に分かっていただきたい」  裁判長は被告側代理人に意見を求めた。東電側の弁護士が慎重に意見を述べる。 「(原告本人の意見陳述よりも)争点の整理が今後必要です。それを優先してほしいという考えではありますが……、意見陳述については裁判長のご判断にお任せします」  閉廷後の記者会見で、井戸氏はこう話した。 「裁判所は毎回原告の意見陳述をすることには当初から消極的でした。被告代理人も反対でした。今日も明確に『反対』と言うかと思ったら、原告の意見陳述を聞いた直後でしたから、その迫力、うったえる力が大きかったので、被告代理人は『反対』とまでは言えなかったんだと私は受け止めました」  原告の声が、東電側弁護士の耳にも届いたのか?  私はそう信じたい。東電側の弁護士も結局は一人の人間である。一人の人間としてこの日の意見陳述を聞けば、心を動かさない者はいないはずだ。そして、この声がもっと多くの人に届けば、裁判を始めてから原告たちが浴びているという全く正当化できない誹謗中傷など生まれる余地がない。私はそう信じている。 […] 全文

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原発避難者の静かな叫び 「自死した息子の後追いたい」 via ザ・密着(Asahi Digital)

SUBSCRIBED3月4日朝、私のスマートフォンに着信履歴があるのに気がついた。午前4時すぎ、福島県南相馬市の庄司範英さんからかかってきていた。留守電には呼吸の音だけが入っている。  かけ直してもコール音が鳴るだけだ。胸騒ぎがした。2カ月前にも3日間つながらなかったことがあった。このときは庄司さんから「相談電話で『死にたい』と話したら、強制入院させられて電話できなかったんですよ」と聞いた。  庄司さんは、東京電力福島第一原発事故で家族と共に新潟県に避難していた。政府と福島県が2017年に住宅提供を打ち切ったため、庄司さんだけが戻って働かざるを得なくなった。庄司さんの勤務初日の未明、長男で中学3年の黎央さん(当時14)は自ら命を絶った。以来、庄司さんは後を追おうと自殺未遂を繰り返し、6回ほど保護されている。 https://www.asahi.com/articles/ASN4G4…

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原発事故への怒り演劇で伝える 相馬高「放送局」OGら任意団体立ち上げ 各地で30作品上映会 via 河北新報

東京電力福島第1原発事故と東日本大震災をテーマに演劇や映画を制作してきた福島県立相馬高(相馬市)の部活動「放送局」のOGと元顧問が、任意団体「相馬クロニクル」を立ち上げ上映会を続けている。「高校生たちが絞り出した大人への怒りや葛藤を伝えたい」との思いが原動力だ。  2012年初演の劇「今伝えたいこと(仮)」が今年8月、オンラインで約30分上映された。原発事故後、1人の女子生徒が突然自殺。友人2人が理由を探る中、女子生徒は津波で家族を亡くし、福島県民だからとインターネットで誹謗(ひぼう)中傷を受けていたことが明らかになっていく内容だ。  「周辺地域は原発のおかげで潤ってきたと思う。でも、私たちの世代が決めたことじゃないよね?」「子どもの訴えを無視しないで」「ほら、こんなに叫んでも、結局届かないんだよ」-。壇上から観客へ次々とぶつけられる言葉は重い。  上映後、相馬クロニクルメンバーで会社員の荒優香さん(24)は画面の先の観客へ「日本で原発事故がまた起きるリスクはある。福島のことを忘れないで」と訴えた。 (略) 今も関わり続けるのは上映後に全国の参加者がそれぞれの3月11日の記憶を語ってくれるからだ。「被災体験には重いも軽いもない。自分はこうだったと思い出し、考える場になれば」と話す。  放送局は11~18年に約30作品を制作した。顧問だった教諭渡部義弘さん(50)は「優等生的に振る舞いがちな災害下の高校生が、自ら批判的な視点を身に付けてくれた」と目を細める。他校に異動後も卒業生と上映会を続けてきた。  リピーターは多く、青山学院高等部(東京)の教諭武藤拓さん(48)は4回ほど参加。「震災当時の高校生の気持ちが胸に刺さる。教え子が社会の複雑な問題に向き合うきっかけになる」と同校での上映会を検討する。  新型コロナウイルスを機に始めたオンライン上映会で、米国在住の日本研究者など参加者の幅が広がった。来年2月にはドイツの大学とつないで開催する予定だ。  「今も古びない作品に、私自身が魅了されています」と渡部さん。世代や国境を超え、生徒の思いを届け続ける。 全文は原発事故への怒り演劇で伝える 相馬高「放送局」OGら任意団体立ち上げ 各地で30作品上映会

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福島の漁師は言った「漁業やる人がいなくなっと」 近づく汚染処理水の海洋放出方針決定 via 東京新聞

「福島の海はなーんでも捕れる宝庫。こんな海はないよ」。福島県沖の漁船上で漁師の声は誇らしげだった。東京電力福島第一原発事故から9年半が過ぎ、復活途中の福島の漁業に再び暗い影がちらつく。原発から出る汚染水を浄化処理した後の水について、政府は近く、海洋放出の方針を決定しようとしている。反対の声を上げる漁業関係者の思いの底にあるのは、被災者と向き合わない国と東電への怒りだ。(福島特別支局・片山夏子)  10月21日午前2時すぎ、福島第一原発から北約50キロにある福島県新地町しんちまちの釣師浜つるしはま漁港で、漁船「第十八観音丸」に乗った。沖合5キロに着くと、小野春雄さん(68)と息子らが固定刺し網を一気に引き上げた。 […] ◆2021年春には本格操業という矢先  原発事故後、福島では出漁日などを制限する試験操業が続いている。事故前は週6日出ていた漁が、今は週2日のみ。来春に本格操業という矢先、放射性物質トリチウムなどを含む処理水の海洋放出が現実味を帯びてきた。 「10年、我慢して我慢してきた。今トリチウム流したら、魚を食べなくなると思うよ。福島の漁業はやる人いなくなっと。明日がわかんねえんだもん。自殺者が出るよ」。小野さんの表情がぐっと険しくなった。 中学卒業後に漁師になった小野さんは、ずっと海で生きてきた。2011年3月11日、二つ下の弟は漁船を沖に出したが津波にのみ込まれ、亡くなった。3人の息子は復興関連の建設業などをしていたが、試験操業を機に呼び戻した。祖父の代から続く生業を引き継ぐため、船も新調した。 原発構内のタンクで保管する処理水の処分を巡っては、政府の小委員会が「海洋放出が確実」と示して以降、所属する相馬双葉漁業協同組合で国から説明があったのは1度だけ。「コロナ禍で人が集まらなかった。漁業者や国民と東電や国で何度も話し合い、ある程度納得してから流すならわかるよ。説明1回ってありえねぇ」 ◆「国はなんで東電の言うこと聞くの」 […]  次の漁場で「すぐそこは宮城沖だぁ」と小野さん。海はつながっている。だからこそ、全国漁業協同組合連合会は「我が国漁業の将来に壊滅的な影響を与えかねない。漁業者の総意として絶対反対」と訴える。 漁の方法や船の操縦を伝えようと、息子たちに厳しく指導していた小野さんは、一層険しい表情で訴える。「トリチウム流して怖いってイメージが1度ついたら、払拭するには相当な年月がかかる。これだけ反対の声がある。1度立ち止まってもらわなきゃ困る」 ◆「どんなに薄めても気持ちのいいものではない」  福島県では、震災翌年の2012年6月から試験操業が行われている。昨年の水揚げ量は3640トンで事故前の14%にすぎない。今年2月、全魚種の出荷制限がようやく解除され、9月には福島県漁連が来年4月から本格操業を再開する方針を決めた。 小名浜機船底曳網そこびきあみ漁協(いわき市)の柳内やない孝之理事(54)は、トリチウム水と呼ばれる処理水は他の原発も放出していると説明を受けた。だが福島第一の処理水は、事故で溶け落ちた核燃料(デブリ)に触れた汚染水を浄化したもので、他の放射性物質が残る。「どんなに薄めても気持ちのいいものではない」 中国や韓国などへは、福島の魚はまだ輸出できない。柳内さんは、処理水放出となれば風評被害は避けられないとみる。「海洋放出すると聞き、宮城の三陸でホヤを作るのをやめた人が出ている。効果的な風評被害対策があるなら、今だってやってほしい」 東電は風評被害を賠償するというが、具体策は見えない。相馬原釜はらがま魚市場買受人協同組合の組合長で水産加工業も営む佐藤喜成さん(67)は「事故前は年商8億円だったのが、2019年には3億円に。それなのに16年で賠償は打ち切られた。仲買や水産加工もきちんと賠償してほしい」と憤る。 ◆漁業者の同意見通せず 東電「理解得る」の一点張り […] だが、漁業関係者から理解が得られるかは未知数。東電は15年8月に当時の広瀬直己社長名の文書で処理水について「関係者の理解なしには、いかなる処分も行わない」と回答した。理解を得られなかった場合について、東電の小野明・福島第一廃炉推進カンパニー最高責任者は10月29日の記者会見で「理解を得られるよう努力する」と繰り返すだけで、合意形成への道筋は全く見えない。 タンク容量も、解体タンクの敷地活用などで増やす余地があるが、小野氏は「精査が必要」と述べるにとどまり、「22年夏」という期限を見直す方針は示さなかった。(小野沢健太) 全文

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「フクシマ50」の中にもヤクザはいた 原発事故の“英雄たち”は月給100万円 『ヤクザと原発 福島第一潜入記』#7 via 文春オンライン

 30年近くヤクザを取材してきたジャーナリストの鈴木智彦氏は、あるとき原発と暴力団には接点があることを知る。そして2011年3月11日、東日本大震災が起こった――。鈴木氏が福島第一原発(1F)に潜入したレポート、『ヤクザと原発 福島第一潜入記』(文春文庫)より、一部を転載する。(全2回の1回目/後編に続く) (略) 情報を漏らさないフクシマ50  俗にいう『フクシマ50』の定義はひどく曖昧である。一般的には「東日本大震災によって発生した“想定外”の津波が1Fに来襲し、冷却システムがダウン、1号機および3号機が立て続けに水素爆発をした後、1Fに残った職員・作業員」となろう。インターネットのフリー辞書であるWikiにもある程度の記述がある。サイトには関係者の大半が避難するなか、死を覚悟して原発の収束作業に当たった50人……実際の総数は約70名だったと書かれており、取材の印象でいえば、その程度なら信用してもいい。  ただ、東電は免震重要棟で指揮を執った吉田昌郎所長(当時)以外のメンツを、プライバシー保護を理由に公開していない。東電社員の内訳、協力企業の人数や年齢、支給された危険手当の金額など、よく分かっていない部分が多い。噂が一人歩きをしてしまい、神格化されている部分はある。東電としてもフクシマ50を曖昧なままにしておきたいはずで、世間が彼らの英雄的行動を賞賛することで、原発事故への批判が多少でも薄まればありがたいだろう。  当時、私が把握していたフクシマ50は彼だけだった。その後、吉田所長以外の4名から話を訊けたが、うち2名は私をフリーライターと認識していない。あえて隠しているわけではない。問われないから言わない。これまでさんざん情報を隠蔽してきた東電からアンフェアと批判されても、私はまったく平気である。 (略) 死んでもいい人間を用意  責任者の名を、仮に佐藤としておこう。私は佐藤を毎日食事に誘った。責任者に嫌われたら仕事がやりにくい。また、いったい佐藤がどこまで私の素姓を知らされているか、確認したいからでもあった。  何回か食事をして、ようやく佐藤は私の目を見て話してくれるようになった。彼は3号機が水素爆発した直後、1Fへの召集令状を受け取り、地獄絵図の中に降り立ったという。 「あとで聞いた話だと、経営者が電力から『死んでもいい人間を用意してくれ』と言われていたらしい。社長、もじもじしてて、なかなか『行け』と言わなかったですね。だから志願しました。うちの社長、自分が行っちゃいそうだったんで。社長が死んだら社員が路頭に迷うけど、俺が死んでも代わりはいますから」 もちろん佐藤は自殺志願者ではない。これまで、原発を生活の糧(かて)にしてきた贖罪だったわけでもないらしい。 「居直るわけじゃないけど、誰も原子力や原発が社会的にどうのなんて考えず、普通の会社に就職する感覚でこの仕事に就いてるんじゃないですか? 原発が善か悪かなんて、深く考えたことなかったです。学校もろくに行ってないんで、難しいことは得意じゃないし(笑)。  たしかにドキドキはしましたね。不謹慎かもしれないけど、それはどっちかといえば楽しい気持ちで……。そりゃあたくさんの人が困ってるんだから、俺たちが頑張らなきゃいけないっていう使命感はありましたよ。でもそれを自分で言ったらマンガでしょう?  あと、当てつけみたいな気持ちはありました。これまで威勢のいいこと、偉そうなこと言ってた人間たちがビビってたんで、『よし、じゃあ俺が行ってきてやる』みたいな。 (1Fに向かう)バスの中、みんな青白い顔して泣きそうなんです。話しかけられる雰囲気じゃなかった。でも俺、わくわくしちゃって、みんなを写メしてました。20代とか、若いヤツらのほうが元気だったですね。みんながみんなじゃないけど、歳をとればとるほどブルってたですね。なにかあっても死ぬだけなのに。ぼちぼち1Fも落ち着いて、いまになって復活してきたゾンビもいるけど、『あんた、あの時バックレたよね?』って言いたいです」  佐藤の話はどこまでが本気で、どこまで冗談なのか、簡単には判断が付きかねる。修羅場を経験した一時のテンションが、彼を調子づかせている可能性はある。それだけ、水素爆発直後の1Fは悲惨だった。自衛隊に退避命令が出され、住民たちを置き去りにしていったほど、一帯は放射能に汚染されていた。ヒロイズムに酔いしれている可能性を考慮し、佐藤のインタビューには時間をかけた。まる一日原発のことには触れず、酒を飲み、ソープをハシゴし、馬鹿話をした。 (略) 「コーラ……放射能に効くんだってさ。これ飲んでまた明日1Fに行く」  コーラが放射能に効くというのは、完全なる勘違いである。それは膣内射精した後、コーラで洗浄すれば避妊できる……という中学生レベルの話に近い。  ただ、強がっている佐藤にも、少しは恐怖心があるんだろう、と感じた。夜空の月に雲がかかり、まるで吐瀉物まみれの佐藤のようだった。 (略)  上司にぶち切れ、会社を辞めた佐藤を、いまの社長が拾ってくれたという。つまり佐藤が原発で働くことになったのは成り行きである。その割に、こちらが恥ずかしくなるほど、彼はいまの社長をべた褒めする。たとえば、弟と妹の進学にあたり、実家に金が必要になったとき、社長が黙って50万円を用意してくれたエピソードは、もう10回は訊かされた。 「別に金に転んだわけじゃないんですけど、学校行くのを諦めようってときだったから、すっごく嬉しかったです。その後も、いろいろ面倒をみてもらって、まだ半人前だし、これまた不謹慎かもだけど、今回の事故でちょっとは恩返しが出来たかもしれないって思ってます。  上会社からいくらもらってるか、そんなこと知らないし、知りたくもない。電力は一人当たりの日当をいくら出してるんですか? 現場じゃ、8万円とか50万円とか、いろいろ言われてますけど、みんな普段の2割増しくらいでしょ。鳶でも、溶接でも、鍛冶屋でも、たぶんそんなもんです。社長には『いっぱい儲けてくれ』って言ってあるんです。俺の日当は3万円もあれば十分ですって、そう伝えて。でも、(爆発した直後の)何日かは、20万円も(日当を)くれた」 (略) 「おじいちゃんとおばあちゃんが、近所に『うちの孫はフクシマ50だ』って自慢してるんだって聞いて、俺、すっごく嬉しくて」  佐藤は世間が放射能におびえる中、幸せの絶頂にある。なんとも皮肉な話である。 全文は「フクシマ50」の中にもヤクザはいた 原発事故の“英雄たち”は月給100万円

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