(抜粋)
2004年、郡山二中で学年主任をしていたときだった。社会科学習の一環で東京電力福島第一原発を見学した。
「福島と言えば原発だと、誇りを持たせたい」。そんな思いで生徒たちに言った。
「福島の原発が東京の電力を支えているんだぞ」。原子炉プールの青く光る冷却水を、生徒らは興味深くのぞいていた。
7年後、原発が爆発する。
60キロ離れた郡山市も、場所によっては避難レベルを超えた。市外へ逃げる住民が相次いだ。残った子どもも登下校時はマスクを着用。校庭での活動は制限された。
心が打ち砕かれた。「結局、何の根拠もなく生徒たちに安全だと言っていた。自分も原発事故の『共犯者』だったのです」
(略)
経済効果を考え
高野さんが出島の魅力を知ったきっかけは、郡山二中時代の校長、木村孝雄さん(75)との出会いだった。木村さんは出島に生まれ、中学まで島で育った。
木村さんは女川原発が建設される前に、島を離れている。その後の話を聞くため、民宿の近くに住む須田菊男さん(72)を訪ねた。島の区長の一人で、木村さんとは親戚関係だった。
「実は木村さんの本家は、女川原発にずっと反対していました」
女川原発が建設着工を控えていた1979年。米スリーマイル島の原発で炉心溶融事故が起きた。女川での反対運動は、警察隊が出動するほど熱を帯びた。
須田さんの父も原発には反対した。しかし、着工されると何も言わなくなったという。
(略)
出島の災害公営住宅。高齢の女性に聞く。「原発のことはねえ……。お国が決めたことだから」
反対と言う住民には巡り合わなかったが、言葉の端々に「諦め」や「窮屈さ」がにじむ。
(略)
島の取材で民宿の高野さんからこんな言葉を聞いた。
「まさかこんなにすんなり再稼働が決まるとは思っていませんでした。本当は(女川原発の)3基とも廃炉の可能性があるんじゃないかと期待していました」
その高野さんも島民と原発の話はしないという。
なぜか。
震災10年をすぎ、島の経済はますます原発マネーに頼るようになる。人口も100人を切り、これ以上不安な要素をかき立てたくない空気が島民に重くのしかかっている。私はそう感じた。
昨年、国はエネルギー基本計画を改め、原発を温室効果ガスの排出削減に必要な電源と位置付けた。再稼働や新増設に反対すると、時代に逆行していると白い目で見られるのだろうか。
福島の事故から11年。いまも私には、原発が社会のゆがみを膨らませるだけにしか見えない。(編集委員・大月規義)
前文は[有料記事]「私も共犯者」元校長は語った 進む原発再稼働、口ごもる島民