KATRIN
2019.08.11 Sun
避難先には布団、蛍光灯、ガスコンロ、アルミ鍋、包丁、紙皿などは用意してあったものの、カーテンやテレビ、冷蔵庫・炊飯器・テーブル・洗濯機などはないため、近所のリサイクルショップで一つずつ買い揃える日々が始まった。
娘の小学校は、避難先から歩いて15分ほどのところにあった。
原発避難者を迎えるのは初めてということもあってか、校長、副校長、担任、クラスメイトすべてが暖かく迎え入れてくれた。
しかし、身近には避難者はもとより、サポート体制もなく、それまでの緊張感からの疲労と受け入れがたい現実、未来への不安も重なり、私の心が悲鳴をあげた。
夜になり娘が寝静まると孤独感が押し寄せ、声を出して泣いた。
電車に乗ると動悸に襲われ、眩暈を覚えるようになった。
そのうえ、娘が登下校の際、仲間はずれにされ、泣いて帰るという事件が勃発した。
このままでは親子で倒れてしまう・・・私は出口を探した。
そんな中、「放射能汚染地域から、汚染がより少ない地域へ少しでも長く離れることにより、体内の放射性物質を排出し、免疫力を高め、健康を取り戻せるようにするためのプログラム」所謂「保養キャンプ」の存在を知った。
本来は福島から避難できずにいる子どもたちを保養させるためのキャンプであったが、すでに関西に避難した子どもも受け入れてくれるというので喜んで出かけた。
そこには懐かしい福島弁があった。
そこにはのびのびと野山を駆け回る子どもたちの笑顔があった。
しかし、「福島では放射能の危険を口に出来ない」と話す保護者の言葉に、福島での自分を重ね、理不尽な現状に怒りが再燃したものだった。
「身近で本音を語り合える仲間の存在こそが、今の自分に必要不可欠だ!」
私は福島からの避難者が多く住む京都へのさらなる移住を決意した。
京都の避難先には、福島だけではなく、宮城、岩手、茨城、栃木など、多方面から、多いときでは100世帯を超える避難者が身を寄せていた。
ある日、娘とともに避難先の商店街を歩いていると、「ママ、あそこ見て!」と。
娘が指差す方向へ目を向けると、そこには風にはためく「脱原発」の三文字が。
私たちはのぼり旗に吸い込まれるように近づいた。
そこには、翌年に控えた自治体首長選挙候補者が、いままさに街頭演説をするところだった。
[…]
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