こちらの本は70年ほど前に当時の子どもたちが書いた原爆の体験記です。当時、手記を寄せた女性は、今でも、手元に本を置いています。
広島市安佐南区に住む早志百合子さんです。
85才の早志さんは、体操教室の講師を長年勤めていることが、元気の秘訣だといいます。早志さんの元には、中学生の頃から持ち続けている本があります。
「なんで長いこと、70年間持ち続けていたのかなとか開いたこともなかったけど」(早志百合子さん)
「原爆の子 広島の少年少女のうったえ」には、105人の子どもの被爆体験とその後の生活が綴られています。早志さんも、手記を寄せた少女の1人でした。9歳のとき、爆心地から1.6キロの比治山付近で被爆した早志さんは、中学2年生のときに学校の宿題として手記を書きました。
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一緒に逃げた母の政子さんは、目にした光景を原爆の絵に残しています。
「もちろん道も、もうないし、家が全部重なってすぐ燃え上がった。死体がその中に混ざってるし、真っ黒こげのそれを踏みつけるように、ズルッとなるわけよね。死体だからね」
その後、手記を元にした映画やラジオドラマも作られました。
「ここの牧師さん、あの日私を拾ってくだったんです。それからずっとここに居ます。お父さんやお母さんは?みんな死んじゃったんです」(TBSラジオドラマより)
ドラマは、原爆で家族を失ったり病気になったりした子どもたちの、境遇や心情を描いています。早志さんは、「手記のその後も地獄だった」と振り返ります。なんとか生き延びても、戦後、アメリカが設立したABCC=原爆傷害調査委員会から呼び出しを受け、裸で検査を受けさせられるなど辛い思いをしました。
「結婚を反対され、出産を反対され、お医者さんすらこういう体の状況で悪性貧血で妊娠することは無理だと。そういう事が徐々にあるわけでしょ。だから原爆を忘れたくても、ついてくるわけよ。いろんなことでね」
結婚して子どもを産んでも、早志さんは長い間記憶を閉じ込め、手記を再び読むこともありませんでした。
転機が訪れたのは十数年前、手記を書いた当時の子どもたちが集まったことをきっかけに、中学生の自分が書いた被爆体験記に目を通しました。
「本当に正直に書いているでしょう。本になって何十年も残って人が読むと思いもしないし、そうだったらもうちょっと書き方が違ってたと思うから、そうじゃなくてよかった」
戦争に苦しめられた子どもたちの素直な気持ちが書かれた本を、今の子どもにも読んでほしいと感じています。小学校での被爆証言や原爆の絵の作成など自分の体験を伝える活動を出来る範囲で、取り組んでいます。