東日本大震災や原発事故の体験「おらもしゃべってみっが」 つらい思いも安心して語れる場を via 東京新聞

2021年11月1日 15時37分

震災よりもその後の10年のほうが生きるのがつらかった-。東日本大震災や原発事故後、つらい体験を誰にも話せないまま、ストレスやトラウマ(心的外傷)を抱え、今も苦しんでいる人は多い。それは福島に残った人も避難した人も同じ。もっと地域全体で、震災や原発事故のことを語り合える社会になれば。そんな願いを込めた集まりが福島県南相馬市で開かれた。 (片山夏子)

◆「大丈夫だよ」全力で娘と自分についたうそ

「2011年3月12日土曜の夜。突然のごどさ、あでもなぐ逃げた。2歳と4歳の子、車さ乗せで。このまま家さいだら、ちびら、あぶねえっつって」 10月23日、震災や原発事故やその後の記憶を語り合う「おらもしゃべってみっが~市民が語る3・11」が開かれた南相馬市の会場に、同市から京都府綾部市に避難している井上美和子さん(52)の声が響いた。 あの日、井上さんは家族で車で逃げる途中、北か南か西かと地図を見ていた時、長女から「お母ちゃんどこに行くの」と聞かれ、どきっとした。どこ行くのかわからないと泣きたい気持ちを喉の奥にのみ込み、自分を「おめえ、お母ちゃんだべよ」と叱咤しったし「大丈夫だよ。もうすぐだから。寝てていいかんね」と全力で娘と自分にうそをついた。

◆つらくて体験を語れなくても、聞くことで

 井上さんは避難後、体験談を語りながら、原発事故が当事者だけの問題のように感じられているのではと違和感を感じてきた。どうしたらわが事として考えてもらえるかと悩み、2年前から自分や家族の震災体験や福島の日常を描いた話を生まれ故郷の浪江町の方言で朗読する「ほんじもよぉ(そうは言ってもよう)語り」を始めた。 井上さんは「今回、福島で初めて朗読できた。苦しみは人の数だけある。自分の体験がつらくて語れない人でも、話しているのを聞いて自分も同じだって思ってもらえたら」と、会場とオンラインの計130人の参加者に語りかけた。

◆「話せば家族に影響するかも」声が出なくなる

 南相馬市原町区でクリーニング店を営む高橋美加子さん(73)は「この10年はたくさんの人の苦しみや死が積み重なった10年だった」と言う。原発から30キロ圏内の原町区は震災直後、屋内退避に。新聞も郵便も届かなくなり、見えないバリアーが張られたように感じた。 高橋さんは震災から2年後に妹が書いた7編の詩「震災日記」を紹介。「死んでも故郷へ戻りたいという、この強い思い これは一体何なんだろう」「私の生きる場所はどこなのか? 私の生きているところが故郷なのか?」など複雑な気持ちが書かれていた。 「たくさんの疑問を抱えながら、地域を消さないため、地域や子どもたちを守るために何をすればいいか、地元の若者らとグループを立ち上げ議論した」と高橋さん。16年には市民が地域を学ぶ場「まなびあい南相馬」を設立した。 「震災のことはふたをしようとしても消えない。今も原発事故の影響を不安に思う人たちもいる。現実に起きたことを知ってほしい。でも私が話すことで家族に影響するかもと考えると声が出なくなる。みんな体験は違う。違いがあっても責められない、安心してしゃべれる場を作りたい」と場所作りの計画があることを明かした。

◆周囲に避難者と明かせない人も

 全村避難となった飯舘村の兼業農家だった北原康子さん(68)は事故後、多い時で村民400人が避難した相馬市の仮設住宅の管理人を7年務めた。「高齢者の1人暮らしも多く、班長を決め、毎朝安否確認をした」 北原さんは、体調が悪くなった人のために救急車を呼んだり、高齢者を狙った訪問販売への注意喚起をしたりした。そんな中、ともに奔走した前自治会長が脳卒中で亡くなった。 これまでなかなか話せなかったという。「避難者の中には、避難先や職場で避難者と言えない人もいる。分かっている人に話せても他では話せない。10年たっても原発事故は終わらない」と北原さんは言った。

◆「話すことで孤立感が緩和されたら」

第2部は、会場の30人余が円陣になって語り合った。滋賀県に避難した男性は「自分の事を誰かに聞いてもらえる場は大事。でも仲間内でもなかなかはき出せない」と発言。3年前に南相馬市に会社をつくり滋賀県と行き来する井上昌宏さん(61)は「どこまで津波が来たかは聞けるが、被災者の思いは聞きにくい。語れる場を作りたい」。同市の会社員伏見香代さん(50)は「避難した人や福島にいる人がどう思っているのかは、話し合わないと分からない。今回のように安心して話せる場が必要」とした。 福島原発被害者支援かながわ弁護団の姜きょう文江弁護士は「裁判所でも原告の被災者の思いを十分聞く場になっていない」と発言。その上で「避難者の中には、避難できてよかったねと言われて、福島に戻りたくても戻れないという人もいる。福島にいる人たちもまた原発事故で傷ついている。話すことでお互いのつらさが分かり、孤立感が緩和されたら。10年たっても本心や苦しいと言えず、傷が癒えないままの人もいる。語れる場が広がっていけば」と望んだ。

◆事故後10年で精神的な問題はより深く

 「自分の体験を語るのがつらければ、聞くだけでもいい」。今回の会を主催した「震災ストレス研究会」代表で精神科医の蟻塚ありつか亮二さん(74)は、2013年から相馬市のクリニックで、震災や原発事故後、心的外傷後ストレス障害(PTSD)や鬱うつに苦しむ患者や、原発事故後変わってしまった地域の人間関係に悩む住民らを診察してきた。 「震災の記憶、特にトラウマ(心的外傷)やつらい体験はそれぞれが心の中に閉じ込めてしまう。それは大人だけではなく、子どもにも影響する。10年がたったが精神的な問題はむしろ潜伏していっている」と蟻塚さん。13年ごろには不眠やパニック障害や鬱症状を訴える人が多かったが、月日がたつにつれ「何のために生きているか分からない」「死にたい」「震災時より今の方がつらい」との訴えが多くなり、疲れ果てた人が増えたのを感じる。

◆PTSDの発症割合、戦争にも匹敵

 蟻塚さんは19年、帰還困難区域である浪江町津島地区の住民を調査。約500人のうち、約半数もの人がPTSDの症状を訴えたことに驚愕きょうがくした。戦争によるPTSDに匹敵するような非常に高い割合だ。「原発事故が起きた福島では、震災や原発事故後のつらい体験を周囲の人に語れないということがある。避難者だと明かすと、あの人は賠償金をもらっていると言われたり、放射能が不安だと言うと、まだそんなことを言っているのかと言われることも。『原発事故のことは語れない。墓場まで持っていく』と言った人もいる」 蟻塚さんは福島に来る前、沖縄戦のPTSDの患者を診てきた。「沖縄でも以前は沖縄戦の話はタブーだったが、語り始めた体験者の話をみんなが共有し、今では沖縄戦の体験を語れば、社会が受け止められるようになった」と説明する。自分の体験を語り、受け止めてくれる人がいることで傷が癒えてくるという。 「震災や原発事故のつらい体験を生き抜いてきたこと自体がすごいこと。福島でも震災体験を語ってもいいんだと思え、語ったら受け止められる、今回がそんな社会への第1歩となれば」

[…]

全文

This entry was posted in *日本語 and tagged , , . Bookmark the permalink.

Leave a Reply