<デジタル発>東日本大震災 「人災としての原発事故」は伝えられているか 記録・伝承施設を訪ねる via 北海道新聞

東日本大震災とそれに伴う東京電力福島第1原発事故からもうすぐ10年。悲劇を記録・伝承する施設が福島県内各地に造られている。これら施設の展示は、地震や津波の恐ろしさを伝える一方、国会事故調査委員会(国会事故調)や政府の事故調査・検証委員会(政府事故調)などが指摘した「人災としての原発事故」の側面や、その教訓を十分に伝えているだろうか。「原発災害があたかも自然災害のように語られ、人災の側面について教訓を伝えるという点が希薄だ」と指摘する専門家もいる。福島県内の施設を訪ねた。(編集本部 斎藤雅史)


■双葉町「伝承館」での違和感

 太平洋沿いに福島・浜通りを北上する国道6号から双葉町中心部へ。津波の被害が大きかった海岸方面に車を走らせる。双葉町は、昨年3月に帰還困難区域が一部解除され、避難指示解除区域と立入規制緩和区域に再編された。しかし、いまだ住むことはできない。整備途中の道を進むと荒野のなかに巨大な建物が現れた。

 2020年10月に開館したばかりの「東日本大震災・原子力災害伝承館」だ。「福島だけが経験した原子力災害をしっかり伝える」(ホームページ)ことを目的にしている。

 設置者は福島県で、「福島イノベーション・コースト構想推進機構」が運営する。機構は「産業基盤が失われた浜通り地域等の復興及び再生」を目的とする公益財団法人で、国や県が出資している。総工費約53億円の施設および展示は、県内にある伝承施設のなかでも最大規模だ。

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東北大・大学院の学生時代に仙台に住み、福島出身の友人や後輩から原発事故当時の話を聞いてきた筆者は、そんな展示に違和感を覚えた。一つは緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)に関する問題だ。政府はSPEEDIの推計結果を把握していたのにもかかわらず、3月23日まで公表しなかった。

 政府事故調はSPEEDIについて「少なくとも、避難の方向を判断するためには有効なものだった」としている。しかし、福島県はSPEEDIのデータを受け取っていたのにもかかわらず公表せず、しかも受け取ったメールを消去していた。「震災発生当初の電子メール消去及びその後の詳細調査の懈怠(けたい)など、県の対応に問題があった」(県ウェブページ「SPEEDI電子メールデータ削除問題」)。

 その結果、放射能プルーム(放射性雲)が飛散した方向に住民を避難させた浪江町のような自治体もあった。政府事故調でもSPEEDIの情報が生かされていれば「各地方自治体及び住民は、道路事情に精通した地元ならではの判断で、より適切な避難経路や避難方向を選ぶことができたであろう」と指摘している。

 しかし、この問題についての展示は「情報を共有することができませんでした」と書かれたパネルの記述だけだった。

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政府事故調は、緊急事態での応急対策拠点施設であるはずのオフサイトセンターが「機能しなくなるような事態になった」と指摘している。その理由として①原子力災害が地震と同時に発生することを想定していなかった②センターが施設構造として放射線対策が取られていなかったーことを挙げている(政府事故調中間報告Ⅶ章)。

 パネルや動画による展示でも「複合災害を想定していなかったため」「機能をほとんど発揮できなくなる」事態に陥ったことには言及している。しかし、事故調が指摘した②センターの構造上の問題について説明はなかった。

■関連死には触れず

 もうひとつの違和感は、震災関連死の問題だ。福島県警が把握している統計によると、福島県内の震災による死者は1614人(2021年1月11日現在)。一方、内閣府などによると関連死は2313人も発生しており、岩手県469人、宮城県929人と比較しても突出している(2020年9月30日現在、関連死者数集計)。

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語り部「事故から10年、怒りだけでは…」

 「なぜ津波のことばかり話すのか」ー。

 伝承館で行っている「語り部講演」の語り部、鈴木史郎(ふみお)さん(58)は来館者からこう言われたことが印象に残っている。

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富岡高に勤めている妻を迎えに行く際、普段使わない山沿いの道を通ったことから、国道6号まで迫っていた津波を避けることができた。妻と合流し、被災した大熊町の自宅で一夜を過ごしていたのもつかの間、原発事故が起きた。車や荷物をすべて置いて避難バスで田村市まで避難を強いられることになった。

 避難所を転々とした後に福島市でアパートを借りることができた。一方で自宅は帰還困難区域にあり、現在も線量が高く取り壊すこともできない。

 原発には複雑な感情がある。東電は福利厚生が保証された大きな雇用先であり、教え子が就職したときには率直に「よかった」と感じた。「事故から10年。怒りだけを持ち続けるというのは難しい」

 伝承館の語り部マニュアルは「特定の団体、個人または他施設のへの批判・誹謗(ひぼう)中傷等」を講演に含めないよう求めている。鈴木さんが語り部活動を始めて数カ月、原発事故に関する避難の話も織り交ぜるようになった。伝承館の展示についても「原発、放射能に特化した展示は少ないと感じます。本当は線量計を使う体験などがあればいいのかもしれませんが、難しいでしょうね」という。

 恩義を感じる東電への複雑な感情と、放射能の被害について言及が足りないという感情が入り交じっているようだった。

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 対して原発事故に関連する展示は、34枚あるパネルのうち10枚。震災関連死についても「いわき市の被害」と記された表に「間接死者数」として137人の数字が記録されているだけだった。

 アーカイブ担当の坂本美穂子さんにSPEEDを巡る問題や震災関連死について展示が少ない理由を尋ねると「東日本大震災についてコンパクトにまとめて展示している性質上こうなりました」と話した。

■「比類なき安全を創造し続ける原子力事業者に」

 2017年4月に帰還困難区域の大半が解除された富岡町には、2020年12月2日時点で1567人が帰還した。町内居住者と避難者数を分母に計算すると、帰還率は10%ほど。それでも、双葉町と比べると人が戻ってきている計算だ。

 町が帰還を促すために設営した複合商業施設「さくらモールとみおか」のすぐ近くに、洋館の外壁をつなぎあわせた建物がある。2018年11月に開館した東電の廃炉資料館だ。廃炉資料館は、東電のPR施設だった旧エネルギー館の建物を利用している。「廃炉の現状を知ってもらうことを通して、福島の復興につなげていく」(鶴岡淳資料館館長)という。

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 1階は「廃炉の現在」というテーマ。全方位型のスクリーンで福島第1原発構内の様子を見ることができる。廃炉現場のロボットの実物や技術開発についての映像もある。

 2階は「記憶と記録・反省と教訓」。半円状のスクリーンがあるシアターホールでは、東電の事故対応について簡潔にまとめている。その映像の中では「福島県の皆さま、広く社会の皆さまに甚大な被害をもたらし、今なお多大なご負担とご心配、ご迷惑をおかけしています」と「おわび」が語られる。

 「反省と教訓」と名付けられたビデオでは、事故前に安全に対する「おごり」や「過信」があったことに言及しつつ、一方で最後に「比類なき安全を創造し続ける原子力事業者になること」も決意表明している。展示を通して関連死については一切言及していなかった。

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センターは2013年にオープンし、その際には佐藤栄佐久・元福島県知事も訪れた。来館者は年間1000人ほど。施設は長野県の養蚕農家の家をモデルに造られた木造平屋建てで、併設するアウシュヴィッツ平和博物館の敷地内に建てられている。アウシュヴィッツ平和博物館は、認定NPOが運営し、ポーランドの国立博物館から提供された犠牲者の遺品・記録写真・関連資料を常設展示する日本で唯一の博物館だ。

 センターの管理をしているアウシュヴィッツ平和博物館の館長の小渕真理さん(64)は「現在の計画で30年から40年はかかると言われている廃炉が終わるまで生きているか分からない。未来のためにも事故の記憶は残していかなければとは思う」と語る。しかし「原発災害情報センター」は現在、問い合わせがあった際にのみ開館している。常設のパネルや展示は存在しない。当初は資料の収集や展示についても話し合われたというが、会員の高齢化などで2018年以降休止状態だ。

■専門家「教訓を残す意識希薄」 

 「原発を推進してきた事故前、事故発生時、避難を含めた事故対応段階、復旧工事段階に分けてそれぞれの段階での教訓の検証が必要だ。なぜ原発が建てられたのか、県はどういう役割を果たしたのか、ということから展示しないと、あたかも自然に原発ができて事故が起きたことになってしまう。伝承館にはその視点がほとんどない」

 こう語るのは福島大学の後藤忍准教授(環境計画論)だ。後藤准教授は県内の伝承施設だけではなく、チェルノブイリ博物館(旧ソ連領ウクライナキエフ市)や水俣病資料館(熊本県水俣市)など各地の伝承施設を巡り、展示内容を研究してきた。

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後藤准教授は、比較対象としてコミュタン福島(三春町)をテキスト・マイニングで分析した。コミュタン福島は福島県環境創造センターに併設された交流棟の愛称で2016年7月に開館、放射線の科学的基礎知識や環境回復の歩みについて展示している。

 コミュタン福島でも最頻出の単語は「放射線」だったが、その後に続くのは「利用」などの肯定的単語が多くを占め、「死亡」や「汚染」といった否定的単語はなかった。また、研究室の学生が同じ手法で「いわき震災伝承みらい館」の展示を分析すると、上位にきたワードは「津波」だった。

 分析結果について後藤准教授は「回数だけを見るとコミュタン福島は肯定語と否定語がバランスよく使われており、チェルノブイリ博物館は否定的な側面に偏っているとも言える。しかし、事故の教訓を伝える施設として役割を考えればチェルノブイリ博物館の方が放射線の否定的側面をよく説明していると言える」と評価する。

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■海外の伝承施設では

 後藤准教授は「チェルノブイリ博物館では事故で亡くなった方が顔写真つきで紹介され、被害者を悼み事故を忘れない工夫が随所になされている。また、事故処理に当たった消防車やホースといった、事故の教訓を象徴的に物語る実物展示されているのも特徴。どこでも学べる写真やパネルだけではなく、その施設に行かないと見ることができない展示があるかというのが施設の価値につながる」という。

 語り部についても「水俣では語り部のプロフィールを公開している。語り部と来館者が双方向的に事故の教訓を考える仕組みが求められる」。

 その上で、「負の歴史」を伝えていく上で参考になるのは、ドイツで市民が主体となってホロコーストの「被害・加害」の歴史を伝えてきた「記憶の文化」だと指摘する。例えば、芸術家のグンター・デムニヒが1993年からはじめた「つまずきの石」プロジェクトはその代表例だ。ホロコースト犠牲者が最後に過ごした場所に埋められた小さな記念碑は、現在欧州20か国以上の約2000カ所にあり、日常的に犠牲者の名前を思い起こすことができる。

 「福島でも除染廃棄物の仮置き場があった場所に分散型記念碑を作るなどの取り組みができるかもしれない」「公的な施設に対して展示内容の改善を働きかけていくことは重要。同時に市民による記録や継承を続け、公的な施設が伝えていない重要な教訓を残していく必要がある」という。

全文は<デジタル発>東日本大震災 「人災としての原発事故」は伝えられているか 記録・伝承施設を訪ねる

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