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福島と京都の間で:古里の意味を問う「自主避難者」の旅(上)–寺島英弥 via Huffpost

(抜粋)

福島から京都へ自主避難

西山さんの自宅は福島市瀬上町。阿武隈急行という第3セクターの駅があり、のどかなリンゴ畑に囲まれた住宅地だ。京都に避難するまでの経緯を、筆者のブログ『震災3年目/余震の中で新聞を作る109~同胞をつなぐ、はるか京都の地で』でたどってみよう。

【「2011年3月11日の震災があり、福島第1原発事故による放射性物質の拡散で、原発から60キロ以上離れた福島市内でも3月15日に急激に放射線量が増えて、24.2マイクロシーベルト毎時まで上がった。(政府から)福島市に避難や屋内避難の指示は出なかったけれど、『自主的に避難した方がいい』と友人からメールをもらった」

「共同通信の記事(同16日)も、福島市で同日5時以降、『通常の約500倍に相当する毎時20マイクロシーベルト以上の放射線量を少なくとも5時間、連続して観測した』という県の発表と、『必要のない外出は避けてほしい』という呼び掛けを伝えていました」(注・17年7月12日現在の『福島県放射能測定マップ』で、同市瀬上町は0.1前後に低減)。

「両親や夫に反対されたけれど、避難しようと決め、そのころ2歳の娘を連れて18日に東京に行った。でも、都は自主避難する人の受け入れ、支援をしておらず、親戚を頼って都内でアパートを借り、3カ月滞在した」。夫は仕事のある福島に残り、二重生活となって経済的な負担も生じました。「5月の連休に一度帰ったけれど、放射線量の状況は震災前に戻らず、避難が長期化するかもしれないと感じて、受け入れの情報を懸命に集めた」。

(略)

「私がいる公務員宿舎とは別の場所で暮らす福島からの避難者とも出会った。府の宿舎以外には公的な支援がないことが分かり、『ずるい』と言われた。同じ避難者として、誰もがつながれることが必要だ、と感じた」といいます。「原発事故で故郷を離れた人、津波のために帰る家をなくした人、福島だけでない他県からの避難者も、とにかくそれぞれが孤立に陥らず、つながろう。支援をしたい、という地元京都の人もつなぐ。そんな場をつくりませんか」と西山さんは呼び掛け、12月に「避難者と支援者を結ぶ京都ネットワーク みんなの手」を立ち上げました。スタッフは、西山さんら福島からの避難者が2人、京都の有志3人。「自分はつなぎ役になろう」と決めて、拠点は公務員宿舎の自室に置いて月1、2回のニュースレターを発行し、避難先リストを持つ京都府に郵送を委託しました。発送便の届け先は435世帯に上ります。希望者にはメーリングリストを使った発信も始め、登録者は現在65人。「支援やイベントの招待など、いろんな情報が電話でも集まるようになり、それらを発信してきた」】

福島県が支援打ち切りそれから6年。西山さんをはじめ福島県内から全国各地へ自主避難を続けてきた人々の境遇は、大きな転機を迎えようとしていた。

筆者の京都訪問のほぼ1カ月後、政府は福島第1原発事故の被災自治体に発した全住民の避難指示を、2017年3月末(富岡町は4月1日)に解除。それを以前から見据えたように同県は2015年6月、放射能への不安などから自らの判断、選択で避難した県民の生活を支えてきた住宅無償提供(家賃全額補助)の支援を打ち切る方針を決めていた。その時点で古里を離れて県内外に避難した人は4万3700世帯、10万1900人、うち自主避難者は9000世帯、2万5000人に上る。同県の意向は「除染や災害公営住宅の整備が進み、生活環境が整うと判断」「災害救助法に基づく応急的な支援から新たな生活再建策に軸足を移す。県外の借り上げ住宅から県内への引っ越し費用を補助するなどして帰還を促す」(同月16日の『河北新報』)と報じられたが、政府のスケジュールと軌を一にしていたことは明らかだった。

復興庁も同じ時期、自主避難者らを対象に「子ども・被災者支援法」の基本方針を改定する案の説明会を東京都内で開き、(1)自主避難に関する支援を縮小する(2)古里への帰還支援などに比重を移す――という方針を伝えた。東日本大震災から5年の節目であった2015年度末で政府の「集中復興期間」が終わることを踏まえ、「福島県内の多くの地域で空間放射線量が大幅に低減した」「避難指示区域以外の地域から避難する状況にない」などを根拠に、法律の上でも自主避難者への支援を打ち切る内容だった。「避難者の切り捨てではないか」という反発や疑問が会場の自主避難中の人々から相次ぐ中、政府は同年8月25日、「幕引き」を急ぐかのように閣議決定した。

(略)

自宅の周りの地域でも除染作業が行われ、放射線量は低減したが、「安全と言われても、安心はできない。『ホットスポット・ファインダー』で見ると、まだ高い所がある。子どもを住まわせてもいいのかどうか、悩みます。低線量被ばくの危険をぬぐえないのに、『安全』と決めつけないでほしい」と西山さん。サラリーマンの夫は仕事のため福島に残り、二重生活が続いてきた。2年前に東京の企業に再就職し、以前より距離は縮まったが、家族分断の現実は変わっていない。

駆け抜けてきた4年

「みんなの手」の活動も4年になる。「つながってくれている避難者は、京都府に登録している約250人。3年前の600人からずいぶん減りました。でも、住宅探しなど、さまざまな支援情報などのニュースレターを毎月送っている先は、関西の他府県にいる人も合わせて、いまも650世帯ある」。情報の発信だけでなく、京都での交流会も年7回ほど催し、古里の東北らしい芋煮会や紅葉狩り、餅つき大会など、家族で楽しめるレクレーションを企画してきた。避難者の身の振り方を検討する一助として、京都への移住を希望する人を応援する団体「京都移住計画」と共にランチ交流会なども。

「ふるさととつながろうツアー」は2011年12月、避難先の京都と福島に離れた親子らをつなぐ夏休みや年末の「家族再会プロジェクト」として始め、その後福島県の交通費助成も得て、2013年から現在の名称で避難者の参加を募って続けている。「今年(2017年)のお正月には30人が参加しました。次の3月のツアーは40人くらいになりそう」。本拠とする「みんなのカフェ」も、西山さんが避難先の伏見の古い町家を見つけて改装したが、助成金が数百万円不足し、最後は自費で賄った。「スタッフは6人。南相馬市など福島県からの避難者の仲間も働いてくれたけれど、それぞれ古里に帰って、いまは京都の人だけになった」。

全文は福島と京都の間で:古里の意味を問う「自主避難者」の旅(上)–寺島英弥 

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