前回、何故声を上げようと思ったかを書かせて貰いました。
詳しく書き綴ったら1冊の本じゃ足りない量になるから、ザックリ理解してもらえる長さを目指すね。「何故行動したのか」
自分の中で抑えきれない、誤魔化せない思いをTwitterで呟いたのが2011年4月の始め。
「原発反対って言っただけで芸能界は干されてしまう。でも言ってやりますよ、原発反対って」
確かこんな言葉で呟いたと思う。
呟いた瞬間、涙が止まらなかった。嗚咽を漏らしながら泣いた。
「ずっと抑え続けてきたものが一気に溢れ出した」
そんな感じ。誰かを誹謗中傷するわけで無く、ただ自分の思った事を口に出せない世界に自分が生きている事に事故後、ずっとショックだった。
「原発はいらない」って事さえ言い辛い同調圧力。
「食べる為には仕方無いじゃないか」と慰める自分への失望。
「声をあげるんだ!」と声なき声で叫ぶ心の中の自分。
でも結局声を上げない自分自身への絶望。何が表現の自由だ。何が言論の自由だ。事故前の基準からすればあり得ない数値の場所に人々を「安全」だと住まわせ、事故を小さく見せる為に情報操作、印象操作を繰り返すこの国には「生きる権利」さえないじゃないか。
続きは なぜ行動したのか