Tag Archives: 広島・長崎

NPT再検討会議が決裂 核軍縮文書採択できず via 朝日新聞

(抜粋) 会議は先月27日に始まり、約190の加盟国が世界の核軍縮と核不拡散、原子力の平和利用について協議し、NPT体制を強めるための最終文書の採択を目指してきた。だが、22日の最終会合で、フェルキ議長は「努力を尽くしたが、会議は最終文書を採択できなかった」と述べた。 5年に1度開かれるNPT会議が、最終文書の採択に失敗するのは前々回の2005年以来。 フェルキ議長がまとめた最終文書案には、中東非核地帯構想についての国際会議を来年3月1日までに開くことを国連事務総長に委ねることが盛り込まれ、「全中東諸国が招待される」と明記された。中東では、事実上の核保有国とされるイスラエルがNPTに加盟しておらず、そのことを問題視するアラブ諸国は非核地帯構想の実現を長年訴えてきた。 だが、22日の会合では、米オバマ政権で核軍縮・不拡散政策を担うゴットメラー国務次官が、この記述を理由に最終文書案に「同意できない」と明言。英国やカナダも同調した。中東非核化に向けた会議が開かれれば、アラブ諸国がイスラエルを非難するのは必至で、米国は、事実上の同盟国であるイスラエルに配慮したとみられる。 世界の核兵器の約9割を持つ米国とロシアがウクライナ情勢などで対立し、中国も核戦力を増強するなど、核軍縮の機運は低下している。 一方で、核の非人道性や核兵器禁止を訴える国際潮流が拡大しており、今回の最終文書案にもそうした動きを反映する文言が残った。また、日本が世界の政治指導者らに被爆地・広島、長崎の訪問を求めたことを受け「核兵器の被害を受けた人々の経験の直接共有」といった文言も盛られた。だが、会議の決裂で、これらの「成果」は国際合意にはならなかった。 全文はNPT再検討会議が決裂 核軍縮文書採択できず 当サイト既出関連記事: UN nuclear weapons talks fail ‘over Israel row’ via BBC News 関連記事: NPT文書「核なき世界」遠のく 保有国、禁止条約拒否 via 東京新聞

Posted in *日本語 | Tagged , , , , , | Leave a comment

イスラエル・ディモナ原発の作業員多数が、がんにより死亡 via Iran Japanese Radio

シオニスト政権イスラエルのメディアが、イスラエル南部にあるディモナ原発で働く作業員数百名が、がんにより死亡したと報じました。 イスラエルのテレビ・第10チャンネルは、「イスラエルの責任者はディモナ原発の作業員の死亡に関する事実を隠蔽しようとしている」と報じています。 このチャンネルはまた、「ディモナ原発には、核実験所があり、この原発の作業員はこの実験所を広島のミニチュア版と呼んでいる」としました。 続きはイスラエル・ディモナ原発の作業員多数が、がんにより死亡

Posted in *日本語 | Tagged , , , , , | 1 Comment

重松清、広島・長崎・福島の大学生と「平和」を語る via cakes

重松清さんの「ノーニュークス」の思いを知りたい。重松さんは、4月に刊行されたメッセージ&フォトブック『No Nukes ヒロシマ ナガサキ フクシマ』(講談社)に「カタカナの街」という一文を寄せ、核廃絶のバトンを握り、手渡すことの大切さを訴えています。その重松さんが広島で、同書の編集メンバーの大学生3人と刊行記念トークイベントを行いました。戦後70年のいま、重松清さんが若者に手渡したバトンとは? 全3回でお届けします。 重松清さん、堤未果さんが同書に寄稿したメッセージの特別掲載、井上ひさしさんの「原爆取材手帳」なども併せてお読みください。 (略) パンプキンというのは、アメリカ軍が原爆投下の練習のため日本中に落とした49発の「模擬原爆」の呼び名で、全体で400人以上の死者、1200名以上の負傷者が出ました。核弾頭は積んでいませんでしたが、長崎に投下された原爆と同サイズ同重量で、形がカボチャに似ていたので「パンプキン爆弾」と呼ばれました。令丈ヒロ子さんが書いた小説『パンプキン! 』は、夏休みの自由研究でそのことを調べる小学生の物語です。 そのパンプキン爆弾が最後に投下されたのは愛知県の春日井市と豊田市で、1945年8月14日のことでした。おかしいと思いませんか? 長崎に2発目の原爆が投下されたのは8月9日ですから、アメリカは3発目の原爆投下を考えていたのかもしれない。そんなぞっとするような情報も、この児童書から知ることができます。 パンプキン爆弾の存在がくわしくわかるのには、投下された街によっては半世紀近くの歳月を要しました。今後も新たな事実が明らかになる可能性は否定できません。そうなると、戦争を語る上で戦争体験のあるなしは、あまり意味がなくなる気がします。戦争を知っている世代が知らなかったことを、戦争を知らない世代の人たちが知ることになるのですから。戦争に関する新たな事実を知ったとき、人々が何を感じ、どう行動するかは、世代の問題ではなく、その人間の感受性に関わることかもしれません。 僕が紹介するもう1冊の本は、長崎出身の俳人・故松尾あつゆきさんの『原爆句抄』です。 (略) 重松清さん、坂本龍一さん、吉永小百合さんらの心のこもったメッセージと美しい写真が1冊の本になりました。本書には、広島大学・長崎大学・福島大学の現役大学生7人が編集スタッフとして参加しています。知る。考える。そして、伝える——。被爆者、被災者、作家、学者、写真家、俳優、音楽家、アーティスト、学生……みんなの思いが1冊に。 『No Nukes ヒロシマ ナガサキ フクシマ』 全文は重松清、広島・長崎・福島の大学生と「平和」を語る

Posted in *日本語 | Tagged , , | 2 Comments

被爆者、米の放射能被害者と交流 ウラン鉱山の先住民 via 西日本新聞

 【チャーチロック共同】訪米中の被爆者川副忠子さん(71)は24日、ニューメキシコ州のウラン鉱山を視察し、放射能被害を訴えている先住民と交 流した。「核実験場やウラン採掘、原爆、原発事故のヒバクシャは同じ痛みを抱えている」。27日から核拡散防止条約(NPT)再検討会議(略)で、原爆を含めたあらゆる核の被害を伝えるつもりだ。 二つのウラン鉱山に挟まれたチャーチロック地区の村に暮らすナバホ族の女性イディス・フッドさん(63)は「鉱山で働いていたが、健康被害の危険があるとは知らなかった」と話す。2006年に悪性リンパ腫が見つかった。 全文は被爆者、米の放射能被害者と交流 ウラン鉱山の先住民

Posted in *日本語 | Tagged , , , , , , | Leave a comment

被爆地の声、NPT再検討会議へ 「チーム長崎」合同壮行会 via 西日本新聞

米ニューヨークで27日から始まる核拡散防止条約(NPT)再検討会議に参加する長崎原爆の被爆者や長崎大の学生らによる合同壮行会が18日、長崎 市で開かれた。戦後70年の今年は被爆地、長崎から過去最多の10団体98人が「チーム長崎」として訪米し、世界に「核兵器廃絶」を訴える。 5年に1度の同会議に参加する被爆者は、長崎原爆被災者協議会や被爆者による合唱団「ひまわり」のメンバーなど28人。国連本部や平和集会で各国の政府関 係者らに直接、被爆の悲惨さを伝える。田中安次郎さん(72)は壮行会で「生きたくても生きられなかった人のために、核兵器廃絶と恒久平和を訴えていきた い」とあいさつした。 (略) 長崎大の学生12人は「ナガサキ・ユース代表団」として、現地で長崎の若い世代の平和活動を発表する。 全文は被爆地の声、NPT再検討会議へ 「チーム長崎」合同壮行会 

Posted in *日本語 | Tagged , , | Leave a comment

ケネディ大使が広島訪問 去年8月以来 via 日テレNews24

アメリカのキャロライン・ケネディ駐日大使が、日米友好の木・ハナミズキの植樹式に出席するため広島市を訪れた。また、就任後、初めて原爆資料館を見学した。 日本がアメリカに桜を贈って100年が経ったのを記念し、アメリカは日本にハナミズキを贈っている。被爆70年にちなんで広島市には70本が贈られた。 ケネディ大使「ハナミズキの樹木が広島で成長し、毎年花を咲かせ、美しい花を何世代もの人たちが楽しむことを希望します」 ケネディ大使が広島を訪れたのは、去年8月6日の平和記念式典に出席して以来。原爆慰霊碑に花を供え、犠牲者に祈りをささげた。 その後、ケネディ大使は原爆資料館を訪れた。資料館見学は37年ぶりで、小溝平和文化センター理事長の話す被爆当時の様子に耳を傾け、被爆直後の町の様子 を再現した模型などを見学した。見学を終えたケネディ大使は「平和のために尽力する決意を新たにすべきです」とメッセージを残した。 また、大学生との交流会にも臨み、広島大学の大学生や大学院生の11人と「海外留学の意義」について意見交換、終始、和やかな雰囲気で予定の倍の1時間にわたって対話がはずんだ。 続きはケネディ大使が広島訪問 去年8月以来

Posted in *日本語 | Tagged , | Leave a comment

井上ひさしさんの「原爆取材手帳」を手にして思う、日本と地球の未来 via Cakes

2014年の晩秋、亡くなった井上ひさしさんの鎌倉のお宅を訪ねました。 茅葺きのお屋敷は、車も通れない細い坂道を登りきったところにありました。書斎に案内していただくと、机には井上さん愛用の万年筆とめがねが無造作に置いてあり、今も故人が原稿を書き続けているかのようです。 50年前に書かれた「原爆取材手帳」は、書斎の隣の大きな書庫のすぐ取り出せるところに、整然と並べられていました。両てのひらにちょうど収まるぐらいの大きさの、黒い表紙の手帳でした。 思わず背筋を伸ばし、指先でつまむようにしてページを開きます。 ・どのような理由があろうが「あらゆる核」を認めない。——これが絶対的に正しい。 ・二十年たっても、死んだ子は十四才のまま。 ・原子力発電所 全世界に四百基以上 日本に五十基 圧倒されました。 被爆者の手記の書写、小説や新聞記事からの引用、井上さんの反核への思いなどが、ページを繰っても繰っても、特徴のある文字でていねいに記されていま す。広島で被爆した父娘を描いた戯曲『父と暮せば』は、これらの手帳に綴られた言葉の果てに誕生したのだと、深く合点がいきました。 そのちょうど1年前、長崎を訪ねました。「核兵器廃絶 地球市民集会ナガサキ」というイベントの「ナガサキの声 継承する若者たち」という分科会に、 10代、20代の若者たちに混ざり参加しました。レッド国(核兵器保有国)イエロー国(核の傘に依存する国)グリーン国(核兵器廃絶推進国)の代表が議論 を戦わせる国際会議の寸劇がとてもわかりやすく、その後のグループディスカッションの活発な議論につながりました。 え、これ、長崎の大学生が企画したんだ。九州全域から、高校生も来てるし、就職したてのサラリーマンも参加してる。とても新鮮な驚きでした。彼らといっ しょに、平和を願うメッセージを込めた本を編んでみたい。終戦から70年たっても100年たっても風化しないメッセージを形にしたい。そう考え、長崎大学 に電話を入れたのが、企画の始まりでした。 小学館OBで『日本国憲法』の編集者・島本脩二さんにも協力を求めました。島本さんと話をするうちに、広島・長崎から福島へ、核兵器から原発へとテーマ は広がりました。核兵器と原発はコインの裏表の関係にあり、「核」は経済の問題ではなく倫理の問題だと認識しました。 続きは井上ひさしさんの「原爆取材手帳」を手にして思う、日本と地球の未来 

Posted in *日本語 | Tagged , , , | Leave a comment

岸田外相、世界の指導者に被爆地訪問呼びかけへ via yomiuri online

岸田外相は4日、広島市内で開かれた日米露の高校生が核軍縮問題を話し合う国際会議であいさつし、27日から米ニューヨークで始まる核拡散防止条約(NPT)再検討会議で、世界の政治指導者に被爆地の広島と長崎への訪問を呼びかける考えを示した。 続きは岸田外相、世界の指導者に被爆地訪問呼びかけへ

Posted in *日本語 | Tagged , , | Leave a comment

震災から4年、東京電力はまだ罰を受けていない-Wペセック via Bloomberg.co.jp

コラムニスト:Willie Pesek  (ブルームバーグ・ビュー):東日本大震災から4年、福島県沖を漁場とする漁師らは、福島第一原子力発電所から再び汚染水が太平洋に流出しているのではないかとしばらく前から疑っていた。漁師らの疑いが正しかったことは2月24日に明らかになったが、東京電力は昨年5月から高濃度の放射性物質を含む汚染水の問題を把握していた。つまり、1年近くにわたって口を閉ざしていたわけだ。 汚染水流出を認めてから2週間余りが経過したが、東京電力本社で立ち入り検査が行われただろうか。あるいは当局は厳重な処罰を求めただろうか。チェルノブ イリ以降で最悪の原発事故を起こした同社に対し、安倍晋三首相は説明責任を要求しただろうか。民主主義国家ならば、そうした措置が講じられるのは明らかだ ろう。ところが日本では一切そうした行動は取られていない。ここで持ち上がってくるのは、東京電力の企業統治のみならず、こうした状況を許している「原子 力ムラ」の事なかれ主義というやっかいな問題だ。 安倍首相は12年12月の就任時、国際的な行動規範に準じた企業の説明責任を高めると約束し、13年8月には「汚染水対策は喫緊の課題」として国が対策の前面に出る方針を表明した。首相は当時、2020年のオリンピック東京招致活動への影響を心配したのだろう。 全ては見せ掛けだった。安倍政権による介入は一度もなく、東京電力に対応が任されたままだ。震災から4年が過ぎても、汚染水の流出は続き、県内ではなお12万人が自宅に戻れていない。そして東京電力の不透明な体質と無能さは変わらない。テンプル大学日本校のジェフ・キングストン教授は東京電力の曖昧な態度について、「無責任という根強い社風の全てを物語っている。全く変わっていない」と語る。 原子力ムラ この状況がなぜ許されるのだろうか。それは東京電力が原子力ムラに守られているからだ。原発推進派の政治家や官僚、電力会社が寄り集まって再生可能エネルギーよりも原発促進を優先させ、さらに競争や世界的な基準から国内の電力会社を守ろうとする。 (略) 実際、同社で誰も刑務所行きになっていないのは驚きだ。日本の大物企業人に対する刑事上の手続きに先例がないわけではない。オリンパスの損失隠し事件では 同社幹部が逮捕されたし、別の事件では堀江貴文ライブドア元社長も村上ファンドの村上世彰・前代表も服役した。それなのに東京電力の幹部はこれを逃れてい る。 日本株式会社に はびこる縁故主義を一掃したいという安倍首相の意欲はあっぱれだ。それによって経済は活性化され、生産性を上げ、海外からの投資先としての魅力が増すだろ う。まずは、最も甚だしく正義を踏みにじった者を裁くことから始めてはいかがだろうか。福島の漁師らは喜んで証言台に立つだろう。 全文は震災から4年、東京電力はまだ罰を受けていない-Wペセック 原題:It’s Time Japan Finally Punished Tepco Executives: William Pesek(抜粋)

Posted in *日本語 | Tagged , , , , , | Leave a comment

核・放射線のイメージ史――3.11後の語りづらさをめぐって – 山本昭宏 / 日本近現代文化史 via BLOGOS

『美味しんぼ』の鼻血騒動   人気グルメマンガ『美味しんぼ』の「福島の真実編」(『ビックコミックスピリッツ』2014年5月12日・19日合併号)が騒動になったのは記憶に新しい。 問題視されたのは、福島第一原発を取材した主人公が鼻血を出す場面だった。さらに、実在する人物が実名で登場して原発事故後は鼻血を出す人が増えているとの見解を述べる場面や、除染作業が終わっても福島には住めないのではないかと研究者が言う場面もあった。 これらの表現について、政府要人たちが「風評被害を与えることがあってはならない」と発言し、福島県も「人びとに不安と困惑を生じさせる」と声明を出したのである。 『ビックコミックスピリッツ』の編集部は抗議の電話が鳴り止まなかったという。『美味しんぼ』の原作者の雁屋哲は2015年の2月に反論本『美味しんぼ「鼻血問題」に答える』(遊幻舎)を出版し、健康被害に関する議論の継続を訴えている。 この騒動が明らかにしたのは、多くの人びとが原発災害後の様々な問題にいまなお関心を抱きながら、「原発や放射線については、発言しにくい」と感じている現状だったのではないだろうか。 例えば、放射線の専門家ではない私たちは、低線量被曝による健康被害の可能性について、何か発言することに困難を感じざるをえない。そうなれば、自 然と沈黙が多くなるが、関心を失ったわけではないため、時おりメディアに表れる健康被害に関する言説や表現に対して敏感に反応する。 このように、『美味しんぼ』の鼻血騒動は、「不適切表現へのバッシング」という側面だけでなく、依然として高い健康被害への関心という側面もあわせもっていたと考えられる。 (略) 新たなエネルギーの新奇性 意外に思われるかもしれないが、占領下の子どもむけポピュラー文化では、核が新奇で親しみやすいものとして提示される傾向があった。例えば、ヒー ローの名前に「アトム」の語が使われた『超人アトム 怪奇城の巻』(1948年)や、主人公のあだ名に核兵器の名前が使われた『ピカドン兄さん』 (1951年)、『水素ばくちゃん』(1951年)などのマンガがそれにあたる。 このようなイメージが量産された一方で、この時期のポピュラー文化は被爆の惨禍や後遺症をほとんど描いていない。占領軍による検閲制度があり、原爆被害を明らかにするような報道や言論は検閲による削除の対象になっていたからである。 (略) 文化的ムーブメントとしての「反原発」   1986年、ソ連のチェルノブイリ原子力発電所で大事故が起こった。それを受けて、日本でも原発に関する議論が高まっていく。 反原発のメッセージで若者たちを惹きつけたポピュラー文化は、ロックだった。それまでも、「アトミック・カフェ・フェスティバル」という野外ライブ が東京で開催されるなど、核とロックの結びつきは存在したが、チェルノブイリ原発事故後、その結びつきはよりいっそう密接になり、原発への反対が歌われる ようになったのである。 忌野清志郎が所属していたRCサクセションは、エルビス・プレスリーの「ラブ・ミー・テンダー」などの楽曲を、反原発の歌詞で「替え歌」し、ライブ などで歌い始めた。これらの曲は、シングル「ラブ・ミー・テンダー」とアルバム『COVERS』として1988年に発売される予定だったが、所属会社の東 芝EMIは、発売中止を決定した。 この騒動は、他のミュージシャンたちを刺激し、ザ・ブルーハーツや佐野元春ら人気ミュージシャンたちが、「反核・反原発ソング」を相次いで発表して いく。この動きに、若者向けカルチャー雑誌の『宝島』や一部のマンガ雑誌も連動し、反原発は一大ムーブメントになったのである。反原発という態度が、 「カッコいい」ものとして、一部の若者たちに受け止められたのだった。 しかし、このムーブメントは長続きせず90年代になると、ポピュラー文化が核を描く頻度も減っていった。ポピュラー文化における核のイメージに大きな変化がないまま、日本社会は2011年3月11日を迎えることになる。 全文は核・放射線のイメージ史――3.11後の語りづらさをめぐって – 山本昭宏 / 日本近現代文化史 

Posted in *日本語 | Tagged , , , , , | Leave a comment