青木美希
いまだに放射線量が高い帰還困難区域
福島県双葉町の鵜沼(うぬま)家に入る道路は、今も銀色のゲートで行く手を阻まれている。看板には「この先 帰還困難区域につき通行止め」という文字。住民の立ち入りは厳しく制限されている。
帰還困難区域は7市町村の計337平方キロメートルに及んでいる。住民登録している人は約2万人。国はその面積の8%を「特定復興再生拠点」とし、避難指示解除を始めているが、鵜沼さん宅の地域は対象外だ。
震災後に夫を亡くした鵜沼久江さん(69)はこの10月、20日ぶりにこの自宅に戻り、私も同行した。
ゲートの前で鵜沼さんが電話すると、3分後に青い作業服の男性がやってきた。男性は、鵜沼さんと私の運転免許証を確認。施錠された銀色のゲートを押し開けた。鵜沼さんが車を進ませると、セイタカアワダチソウやササなど高さ2メートルほどの草が道の両側を埋め尽くしていた。
「ここはみんな田んぼです」
どこが畔(あぜ)なのか。田んぼを思わせるものは何も見えない。
鵜沼さんは、ハンドルを握りながらフロントガラスに顔を近づけ、道路をじっと見つめる。道路には落ち葉が積もり、その下にどんなものが落ちているのか、注意しなければならないからだ。
2分ほど車を徐行させたところで、ピーピーという警告音が鳴りはじめた。私が持ってきたウクライナ製線量計のアラームだ。初期設定で0.3マイクロシーベルト毎時を超えると鳴るようになっている。事故前の双葉町は0.03マイクロシーベルト毎時程度だったので、10倍超ということだ。
数値はその後も上がっていく。
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「持ち出せるものなんて何もありません」
位牌もですかと問うと、鵜沼さんはうなずいた。
線量計の値が1マイクロを超える。
「(アラームが)鳴りっぱなしですものね。『あれを持っていこう』と思うときもあるんですけど、どうせ持っていったって、(汚染限度を)超えて没収となるでしょう? 持ち出す気にもなれません」
帰還困難区域で外に持ち出せるものは、対象物の汚染(1分間当たりの放射線の計数率)が1万3000cpmを下回るものに限られている。
牛舎に残る、逃げられなかった牛の骨
「牛舎を見せていただけますか」と頼むと、鵜沼さんが案内してくれた。来た道を戻っていく。右側に牛舎が見えた。事故前の鵜沼さんは放牧で約50頭の黒毛和牛を育てており、牛舎は餌場だった。今はがらんとしていて、コンクリートの床は乾いた牛糞で埋め尽くされている。その上に白いものが散らばっていた。
「骨です」
[…]
一度は東電が骨を片付けたが、あのときに見た牛たちの骨は、どれがどこの部分かわからないほどの微細な欠片となってしまった。散り散りになって落ちていたり、埋まったりしている。「まだまだ出てくるんです」と言いながら、鵜沼さんは靴で骨を掘り返す。「何とかならないかと思うんだけど、一人で拾うのは勇気がなくて……」。
鵜沼さんの放牧場は広大で、福島第一原発の敷地と隣接していた。
「原発構内からうちの牛が見えるのよ。福島第一原発を視察に来た人たちには、『安全ですよ』というすごいいいPRだったと思います。のんびりエサ食べて寝っ転がって」
東電から原発は安全だと繰り返し聞かされてきたという。
線量計の値は1.7マイクロにまで上がった。事故前の56倍だ。被曝させるのは申し訳ないと思い、私は鵜沼さんに先に外に出てもらい、残された骨を撮影した。これは脚か、こっちは首か。考えながら、カメラとビデオを向ける。
福島第一原発から西北西2.5キロに住んでいた鵜沼さん夫妻は2011年3月11日、牛とともに被災した。
防災無線が聞こえず、地域の町民たちが避難していくのを見て避難を始めようとしたが、牛が気になって仕方ない。近所の一家を避難させたあと、いったん自宅に戻った。出産を控えていた牛がいたからだ。その日は近くで車中泊したが、牛は出産せず、結局、牛舎を離れた。
忘れることはできない震災の記憶
鵜沼さんは11年あまり前の、突然自分たちを襲った避難の日々を忘れたことがない。
同じ双葉町の町民たちは自家用車で北西の川俣町を目指した。鵜沼さんは疑問だった。年1度の訓練では近くの公民館に集まり、自衛隊のトラックで双葉町役場まで行っていた。事故が現実になってみると、避難先は計画と異なり、移動も自力を強いられた。
[…]
「テレビも何もなく、情報がなかったんです。東電の制服を着た職員が『メルトダウンしてるんだからここにいてはだめだ』と叫んでまわってて。体育館の戸が閉められ、『出ないように』と言われ、閉じこもりました」
鵜沼さんは事故から3日後の3月14日、避難所の体育館を出て、車で牛舎に向かった。その時点で、避難指示は原発から20キロ圏内まで拡大されていた。鵜沼さんは制止をかいくぐって進んだ。牛舎に着くと、濡れた子牛がいた。出産は終わっている。しかし、母牛からは母乳が出ていない。置いていけば死んでしまうが、連れていくわけにはいかない。
翌15日午前、浪江町が全町民の町外避難を決めたため、鵜沼さんも内陸部の二本松市に向かった。
「牛たちが気がかりでしたが、『放射能で牛がみんな死んだ』という情報が流れ、あきらめました。それがうそ情報だとわかったのはあとのことです」
原発新増設の方針に対する疑問
新増設抑制したはずの方針を転換し、なぜ原発を増やすのか。岸田首相は今年7月14日の記者会見で次のように述べている。
「資源が乏しいわが国において、単一で完璧なエネルギー源はないというのが、まず基本的なわが国の置かれている状況であると思っています。その中で、安価で安定的に、かつ脱炭素に対応していくエネルギーをということを考えますと、結論として、多様なエネルギー源をバランスよくミックスさせていくしかない」
この方針に対する疑問の声は引きも切らないが、いくつかを挙げておこう。1つは、次世代に向けた新エネルギーの技術開発が停滞し、遅れがさらに遅れることへの懸念だ。
「政府が太陽光発電を本気で進めてこなかったため、企業側はこの間、『また政権は原発推進に戻すのではないか』と考えて開発に力を入れず、結果として日本は太陽光パネルや充電池、EV車市場で世界に大きく後れをとってしまった」(環境エネルギー政策研究所の飯田哲也所長)
太陽光パネルのシェアは2005年ごろ、日本が世界一で市場の約5割を占めていた。その後の落ち込みは著しく、2020年の日本製パネルはたった0.3%しかない。そうした結果、総発電量に占める再生可能エネルギーの割合を2030年度までに36~38%まで増やすとした政府目標は、期限まで10年ほどしか残っていない2019年度時点で18%にとどまってしまった。
自民党内には「太陽光は中国を利する」という声もあるそうだが、エネルギー政策の迷走がもたらす結果は覆い隠しようもない。
原発が抱える「安全性」と「高レベル核廃棄物の捨て場がない」問題についてはどうか。
NPO法人原子力資料情報室事務局長で、経済産業省の審議会「総合資源エネルギー調査会・原子力小委員会」委員を務める松久保肇さんは、政府の掲げる「次世代革新炉」にも懸念を示す。
次世代革新炉とは、「革新軽水炉」「小型軽水炉(小型モジュール炉)」「高温ガス炉」「高速炉」「核融合炉」を指し、これらについて岸田首相は「新たな安全メカニズムを組み込んだ次世代革新炉の開発・建設など今後の政治判断を必要とする項目が示された」と前のめりだ。
松久保氏の懸念は「すでに存在する技術を使うものも含んでいるのに、いかにも今までとまったく違った技術を使うかのようなネーミングで国民を惑わせている」点にある。
原発が生み出す高レベル放射性廃棄物は無害化まで10万年かかり、核廃棄物の最終処分も含めたコストは決して他の電源より安価ではない。しかも日本には、安全に保管できる地層はないと言われる。それなのに、原発新増設のために税金投入していく方針は、地震国・日本の姿として正しいのかどうか。
「この家に住んでみろ」
冒頭で紹介した鵜沼さんは、故郷・双葉町に行くと「ほっとする」と言う。この先、避難指示は解除され、鵜沼さんも自由に帰宅できるようになるかもしれない。でも、鵜沼さんは迷い続けている。
「『復興』と言われているけど、絵に描いた餅。言葉だけが踊ってて。私たちは復興の『ふ』の字も実感できない。放射能がなくなったのなら安心だけど。そうではなくて……」
除染したとしても放射線量がどこまで下がるかは未知数だ。山は除染対象外のため、放射性物質が飛来して放射線量が上がる事例が実際に起きている。鵜沼さんの家は2方向が山だ。事故で溶け落ちた核燃料は、取り出しの具体的なメドも立っていない。
「この家も、私の年も戻してほしい。原発事故のときは50代だったけれど、もうすぐ70歳になるんですよ。ここを更地にして、また一からやれるかって……。(原発の新増設は)絶対に反対。絶対安心ということはない。間違ってもない。それなのに、また原発造るって。ははは。何回事故が起きたら学習するんですかね。国の偉い人たちに何か言うとしたら、『この家に住んでみろ』ということです。私の家、貸しますよ」