Tag Archives: 浪江町

東北大新拠点、浪江を軸に検討 3年後にも設置、エフレイ連携視野via福島民友

 東北大は22日、浜通りに設置する意向を示していた研究開発や人材育成、産学官連携の機能を持つ新たな拠点について、浪江町を軸に立地先を検討する方針を表明した。早ければ3年後に設置し、福島国際研究教育機構(エフレイ)との連携も視野に入れる。同大は国の多額支援を受けて世界最高の研究水準を目指す「国際卓越研究大学」の認定候補に唯一選ばれており、国内外から学生や研究者らが集う新拠点が設置されれば、浜通り全体の活性化が期待される。 同大と町が役場で連携協定を締結し、終了後の報道陣の取材に明らかにした。同大副理事の湯上浩雄グリーン未来創造機構長は「まちづくりに貢献するイノベーション(技術革新)の人材を育成する場をつくる」と説明した。  拠点は同大の学生を主体に研究者らが短期滞在するほか、エフレイや企業関係者、同大が連携する海外の大学関係者らの来訪を見込む。一度に100人以上が利用できる規模を検討する。具体的な場所や規模は町などとの協議で詰める。  同大は2022年3月、復興への貢献を目的に県と包括連携協定を締結。本県で新たな社会的価値を創造する「Fサイエンスパーク構想」を掲げてきた。湯上氏は「福島復興への貢献は、国際卓越研究大学として大きな柱と位置付けている。新しい地域社会のモデルをつくり、世界最先端の福島の姿を国内外に発信するお手伝いをしたい」と語った。  吉田栄光町長は「町民の帰還意欲醸成や人材育成、産業振興、雇用創出など、浜通り全体の復興に相乗効果を発揮してほしい」と要望。学生ら若い人材が行き交う地域の将来像にも強い期待感を示した。  協定は〈1〉福島・国際研究産業都市(イノベーション・コースト)構想の推進〈2〉産学官連携による地域経済の復興・再生〈3〉復興まちづくり、人材育成―などについて連携し、東日本大震災と東京電力福島第1原発事故からの復興を図るとした。 原文

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【福島国際研究教育機構】「原発避難から町に戻ったと思ったら今度は立ち退き…」 再び国家プロジェクトに住まいを追われる浪江町民の苦悩 via 民の声新聞

震災・原発事故後の復興の起爆剤にしようと福島県双葉郡浪江町への設置が決まった「福島国際研究教育機構」(F-REI=以下エフレイ)。今月1日の仮事務所開所式は岸田文雄首相や内堀雅雄知事らが出席して華々しく行われたが、その陰で「立ち退き問題」に苦悩している町民がいる。予定地の大半は農地だが、なかには避難指示解除を受けて町に戻り、新たに土地を購入して暮らしていたところに再び「国家プロジェクト」の名のもとに住まいを追われようとしている人も。住民はどれだけ「お国のため」に振り回されるのか。苦悩に包まれる現場を歩いた。 【「用地買収はこれから」】 「エフレイ」は福島復興再生特別措置法に基づいて設置された法人。研究機関などが入る施設の誘致に田村市、南相馬市、川俣町、広野町、楢葉町、富岡町、大熊町、双葉町、浪江町が名乗りを挙げたが、浪江駅の西側、川添字中ノ目地区を中心に設置されることが昨年9月の「第35回復興推進会議」で決まった。7年後の2030年度には50の研究機関が入り、約5000人の交流人口を生じさせるとされている。 福島県のホームページでは「福島をはじめ東北の復興を実現するとともに、日本の科学技術力・産業競争力の強化に貢献する、世界に冠たる『創造的復興』の中核拠点」、「福島イノベーション・コースト構想の取組により整備された拠点間の連携等を促進し、構想を更に具現化、発展させる」と紹介されているほか、内堀知事も昨年12月の県議会で「福島国際研究教育機構の設立に伴う研究員等の新たな居住や往来が見込まれております」と答弁するなど〝肝いり〟のプロジェクトだ。一方、浪江町民からは「何の施設ができるのかさっぱり分からない」との声も聞かれる。 今月1日には、岸田首相も出席して仮事務所の開所式が行われた。各省庁から集められた官僚など約60人が常駐することになるが、多くはいわき市など浪江町外から通うという。 法人が発足したばかりとあって、福島県も浪江町も「具体化はこれから」と口を揃える。「いまは用地買収に向けて手続きをしているところ。相手(地権者)もあることなので、いつまでに(買収を終える)というのは決まっていない。国が住民説明会を開いたが、具体的な用地の取得はこれから」(福島県福島イノベーション・コースト構想推進課) 「いまはまだ用地買収の前の段階。予定地は完全に固まったわけではないので、あくまで仮定の話だが、住宅が引っかかる可能性がある。もし立ち退いてもらう必要が出てくるようであれば、しっかりご理解・ご協力いただける形で進めたい。いずれにしても具体化するのはこれから」(浪江町F-REI立地室) だがしかし、実際には国や町が町民に具体的な立ち退き話を持ち掛けていた。「仮定の話」などではないのだ。 […] 【拒否すれば強制執行?】 「立ち退いてくれってことですよ」 地権者の1人は、困惑した表情で話した。怒っているというより、弱り切った表情だった。 この地権者の自宅は建設予定地に面している。これまでに復興庁や町役場の担当者が何度か自宅を訪ねてきた。当初は自宅を避けて施設を建設するという話もあったが、役場職員から「国から(住宅を)どけてくれと言われた」と告げられたという。 「エフレイの建設予定地を見たら、うちが入っちゃってるんです。邪魔だということになっちゃった要は道路際から建てたいのでしょう。だから私の家があると邪魔なんです」 昨年12月3日、施設建設予定周辺に農地や宅地を持つ地権者たちを対象に住民説明会が町内で開かれた。町からは成井祥副町長が、復興庁からは福島国際研究教育機構準備室の江口哲郎参事官らが出席したが、そこで配布された「都市施設の区域(案)」と書かれた地図が、立ち退きがもはや「仮定の話」などではないことを物語っていた。施設建設予定地として塗りつぶされた約16・9ヘクタールの土地に、自宅敷地が含まれていたからだ。 「もし立ち退きに応じないで突っぱねたらどうなるの?」 この地権者は復興庁の官僚に尋ねた。官僚は「最終手段としては強制的に立ち退かせる方法もあるけど、そういうことはやりたくない」と答えたという。「私の家を強制的にどかしてでも道路際から建てたいということなのでしょう」と地権者。役場職員にも同じ趣旨の質問をしたことがあるが、寄り添った答えはなかったという。「最後まで突っ張ることもできるでしょうけど、家のすぐ横に高い塀とともに大きな施設を建てられたら、やっぱり嫌ですから…」。想いは複雑だ。 […] 全文

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私と故郷と原発事故 via NHK Web特集

ディレクターの私のふるさとは、福島県浪江町。10年前の原発事故で全町避難となった町だ。原発事故直後から福島に通い、廃炉や復興の現状について番組を作ってきた私。常に感じてきたのは、ふるさとの人たちの複雑な思いを、より深く伝えたいという思いだった。実家の家族が被災した、いわば“半当事者”だから伝えられる、大事な話があるような気がしたのだ。しかし、思いがけず、“当事者”だからこそ聞けないことがある、という壁に突き当たった。その時、大きな助けになったのは、一緒に取材を行った“当事者ではない”カメラマンの存在。2人で苦悩しながら「なにを聞き、伝えるべきなのか」を模索しつづける日々だった。(名古屋放送局ディレクター 水谷宣道、映像センターカメラマン 井上秀夫) 話を聞こうとしたのは、原発作業員や役場の職員など、事故後もしょっちゅう顔を合わせ、一緒に酒を飲んでいた同級生たち。しかし、『カメラの前で本音を話せば、誰に何を言われるかわからない』と、ことごとく取材を断られた。 長年メールのやり取りを続けていた親友とは連絡が取れなくなり、友人の女性からは『原発事故避難者だと知られ、子どもがひぼう中傷を受けたら、責任は取れるのか?』と、泣きながら訴えかけられた。『結局お前はよそ者。俺らの気持ちはわからない』とも言われた。 放射能汚染、賠償、避難者へのいじめなど、様々な問題が複雑に絡み合う原発事故の被災地。取材が簡単ではないことは知っているつもりだった。それでも、ふるさとの力にもなれるのではと始めた取材で拒絶され、長年続いてきた友人関係が、一瞬で崩れてしまいそうになるのは、つらいことだった。 なんとか友人の協力を得て、同世代たちの現状を描く35分のドキュメンタリー番組を完成させた。しかし、当初伝えたいと思っていたざらざらした本音や、原発事故の複雑さが、十分伝えきれたとは思えなかった。 […] 原発事故前、2万1000人が暮らしていた浪江町。2017年に、町の中心部で避難指示が解除されたが、いま町で暮らしている人は、1600人余り(2021年3月現在)。仕事や子育てなど様々な事情から、2万人近くの当時の町民が、県内外で避難生活を送っている。 「浪江とのつながりを持ち続けたい」と、住民票を町に残したまま避難を続ける人も多かったが、今は、住民票を避難先に移す人も増えている。 事故から10年がたとうとしていたが、ふるさとの復興が進んでいるとはなかなか思えなかった。 取材への協力を頼むと、今度は、多くの人が「協力する」と言ってくれた。ある友人は「10年がたつ今なら話せる」と言い、別の友人は「話すことで自分なりにけりをつけたい」と言った。 思わぬ告白 町民を翻弄した「賠償」 先入観を持たずに、ふるさとの人々の声に耳を傾けてみようと始まった取材。テーマが少しずつ見えてきたのが、友人の父親を取材したときだった。 事故後、町の幹部として復興に取り組んできた男性は、町長選に立候補するものの落選。その後、首都圏に住宅を購入し移住した。 取材中、雑談をしていると、突然男性が語りだした。「俺をだめにしたのは賠償だ」何を言い出すのかと少し驚き聞き返すと、男性はこう続けた。 「町の人たちに『賠償をもらったからあいつは町を出た』と陰口を言われていたが、あながち間違いじゃないんだよ。たしかに、復興のために頑張っていたときは、賠償なんてどうでもよかった。でも、何かに挑戦してだめだったとき、賠償が効いてくるんだ。俺は町長選に落ちたとき、これだけの金があれば、もう無理しなくていいかなと思った」 ためらう自分 賠償について聞く事 原発事故の被害の償いである「賠償」。土地、家屋、精神的苦痛など、さまざまな損害についての賠償が、東京電力から被災者に支払われた。 着の身着のままの避難を余儀なくされた住民たちの生活再建などに大きな役割を果たした一方で、賠償をめぐり、被災者が、「賠償金をもらい、仕事をせずに不自由の無い暮らしをしている」など、いわれなき中傷や差別を受けることもあった。 デリケートな問題で、誤解や差別につながりやすいこともあり、住民はこれまで多くを語ってこなかったが、住民のさまざまな判断に大きく影響を与えた要素であることは間違いなかった。 男性の取材を機に、私は、ふるさとの人たちに「カネ」についてきちんと聞くことで、復興とは何だったのかを考えていきたいと思うようになった。 しかし、私は、再び大きな壁にぶつかった。聞くべきと思った質問を、なかなか聞けなくなっていったのだ。踏み込んだ質問をしようとすればするほど、その刃が自分自身に向かってくるような気持ちがしたのだ。 ある夫婦に話を聞いたときのことだった。彼らが暮らしていた地区は、当初、数年後の帰還をめざす「居住制限区域」となる案を町から提示されたが、地区の区長らが変更を要望し、長期間帰ることが難しい「帰還困難区域」となった。 当時、帰還困難区域の住民のほうが、受け取れる賠償の額が多いことになっていたため、他の地域の人からは、“カネ目当て”の選択ではないかと陰口をたたかれたこともあったという。 私は夫婦に、賠償を多く得て「帰還困難区域」となることをどう思ったのか、陰で言われていたことが事実だったのか、確かめたいと思った。だが、結局聞けなかった。 私は、賠償金をもらっていた私の両親から、賠償をもらいたくてもらっているわけでもないことや、後ろめたさすら感じていること、そして、周りの目を気にして、肩身の狭い思いで暮らしていることなどを聞かされていた。それがわかっていて、答えづらいであろう問いを突きつけることはできなかった。 結局、井上カメラマンが、質問をする趣旨を説明したうえで、その問いを発した。すると夫は、しばらく考えた末、「戻れない以上、高いお金がもらえるなら、それはそれでいいなとは思った」と答えた。 同時に、戻れるなら賠償はいらないと思っていたし、愛着ある家や持ち物に値段をつけられることも嫌だったと語った。 おそらく、ふるさとに戻ることが現実的に難しいという状況に直面して、賠償金をもらうという苦渋の選択をせざるを得なかったのだろう。ふるさとの人たちが抱えてきた葛藤の一端をまたかいま見た気がした。 廃炉・除染… 原発のそばで生きるリアル 除染作業に関わる同世代の友人へのインタビューも、精神的にこたえるものだった。町では、廃炉や除染など、原発事故の後処理に、今も多くの住民が携わっていた。 被害を受けた当人たちが今も後処理に関わっている事実を、本人たちはどう捉えているのか?それは、「地域と原発」というテーマを考えるにあたり重要な問いだと、取材クルーでは考えていた。 しかし、私には聞くことができなかった。その質問には、「原発とともに暮らしてきた人たちは、結局これからも、原発に頼るしかないのではないか」という、よそ者目線の「哀れみ」が含まれる質問だと感じたからだ。 私自身これまで似たような質問をされ嫌な思いをしてきたし、この10年、同じ経験をした町の人たちも多いのではないかと思っていた。 結局、質問できない私を見かねて、井上カメラマンが聞いた。すると、その場にいた別の町民が「また、そのステレオタイプな質問ですか」と嫌みを言った。外からの遠慮のない視線にさらされ続けてきた彼らのせめてもの抵抗だったのだろう。 それでも、友人はしばらく考え込み、ことばを絞り出し、真摯(しんし)に答えた。「事故前はそれで町が潤っていたし、しょうがないよね。今はその仕事しかないし、町のこれからの経済をまわしていくためには、廃炉はやはり大事だよね」 … Continue reading

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「原発事故は町を歴史ごと切り取った」避難先で妻が鬱に、変わり果てた自宅…避難者たちの想いと決意 via Abema Tims (YAHOO!JAPANニュース)

しかし、現在も約3万6000人が避難生活を余儀なくされている現実を忘れてはならない。帰りたくても帰れない人、帰らないと決めた人、故郷に帰る人。彼らはこの10年で何を思い、どんな道を歩んできたのだろうか。 「もう二度と戻れないかなって思った」  浪江町出身の堀川文夫さんは、地域に根付いた塾を営み、子供たちには日ごろから原発の危険性を伝えていた。 […] 「よそ者だから。仕事もしないで、ぶらぶらしているように周りから見られているような目がなんとなく痛くて。妻が鬱になった」  故郷を追いやられた悲しみ。何十年も積み上げてきた信頼や人間関係の喪失。堀川さんの心も次第に荒んでいった。  浪江の自宅に一時帰宅した際、堀川さんは変わり果てた家の様子をカメラに収めていた。 「3月11日のお昼ご飯の跡だ。猫の足跡がいっぱい。動物の入った跡がいっぱいある。壁は亀裂が入っている。これが我が家だ。もう二度と帰れないでしょう」 「自分の人生であり、両親の人生であり、祖父母の人生。私たちの長い歴史があそこにあった。その歴史ごと切り取られたのが原発事故だった。人間の生死という重い問題はあるが、津波だけだったら私たちの歴史が切り取られることはなかった。そういう怒りもあるし、悔しさから何から何まで……」  避難先で思い出すのは、幸せだった故郷の暮らしと子供たちの笑顔だ。もう二度とあの生活には戻れない。堀川さんは深い失意に苛まれていた。そんなある日一筋の光をもたらすきっかけが訪れた。塾に避難した教え子の一言だった。 「神奈川県に避難した子供の一人がこう言った。『先生、俺にとって震災は悪いことばかりじゃなかったよ。これがあったから会えない人と会えた。これがあったからできないことが経験できた。だから俺にとって悪いことばかりじゃなかった』と。それに私はガーンと頭を叩かれたように思えた。『お前、いつまで引きこもってるんだよ』みたいに。子供たちは4月から新しい生活を始めなきゃならなかったじゃないか。『何やってんだよ』と言われたように思えた。そこから一気に動き出せた」 […] 堀川さんは「自分がどのような人生を浪江で歩んできたか。新しい地区の人たちにもわかってもらおうと必死でやった」と話す。その思いは次第に地域の信頼へと変わり、そして富士市に新たな塾を設立した。  避難先で自分の居場所を見つけた堀川さん。しかし、それでも生まれ育った故郷を忘れることはないという。 「避難先に根を下ろせば下ろすほど浪江との縁が薄れていく寂しさはある。故郷ですから」  堀川さんに「10年経つが今も避難している感覚なのか」と聞くと「そうだ。みんな帰りたいと思っている。帰らない選択をした人も、帰れないと思っている人も帰った人もみんな帰りたいと思っている。それだけは間違いないと思う」と答えた。 […] 全文

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【117カ月目の浪江町はいま】「環境省に校舎解体延期求めない」吉田町長が議会で答弁 via民の声新聞

町の答えは「NO」だった。原発事故で母校の休校を強いられた福島県双葉郡浪江町立学校の卒業生たちが校舎解体の延期とお別れ会の開催を町に求めている問題で、浪江町の吉田数博町長は8日午後、町議会本会議で「解体延期は難しい」との姿勢を改めて示した。卒業生たちは、町議会に「浪江町の各小中学校の解体を延期し、町民・卒業生にお別れの機会となる閉校式の開催を求める請願書」を提出しているが、「避難所としての跡地利用計画に影響を及ぼす」と吉田町長。傍聴した卒業生たちは町長の答弁に肩を落とした。馬場績町議の一般質問への答弁。 【「跡地利用計画がある」】 「冷たいですよね。心が無い…」 本会議を傍聴した三原由起子さん(1995年浪江中学校卒業)は、残念そうに語った。 校舎を解体するな、などとは誰も言っていない。せめて感染症の問題が落ち着くまで、多くの卒業生が校舎に集まってお別れ会を開ける時まで解体工事を延期して欲しい。解体を待ってくれるよう環境省に頼んで欲しい。たったそれだけの願いが届かない。この日の吉田町長の答弁は、時に「気持ちは分かる」と言いながら、しかし完全に「NO」を突きつけていた。 最初に答弁したのは、教育委員会事務局の教育次長補佐だった。 「教育委員会と致しましては、学校施設の解体延期は難しいと考えておりますが、当初より検討しておりました閉校式につきましては、新型コロナウイルス感染症の状況を注視しながら開催に向け検討を行っております。以上です」 たった、それだけだった。馬場町議は「町長、教育長は呼びかけ人たちの想いにどう応えるのか」と質したのだが答えなかった。再質問をすると、ようやく吉田町長が答弁に立った。 「学校解体について名指しで説明しろという事ですので、説明させていただきます」。そう前置きした吉田町長は、校舎解体を延期出来ない理由を「跡地利用が決まっているため」と説明した。 「解体後の跡地利用計画がございます。今まで学校として利用する傍ら、避難場所としても利用して来ました。現在、どの学校も電気や水道が通っておりません。それに伴ってトイレが使えない。避難所として利用出来ない状況なのです。町に暮らしている方々から『防災コミュニティセンターの設置を急いで欲しい』という声もたくさん出ています。(卒業生の)皆さんの想いは非常に理解しますが、解体を延期するという事は、その後の事業に影響を及ぼすという事で、なかなか難しいのです」 […] 全文

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Konno Sumio, who evacuated from Namie Town in Fukushima Prefecture/「一番聞きたくない言葉だね。絆とか復興なんていうのは。」via FoE Japan Fukushima Mieruka Project

“Almost no one is coming back to this district anymore. “ “There are no young people, at all.” said Mr. Konno in front of his home, which is about 10 kilometers from the Fukushima Daiichi Nuclear Power Plant. We asked … Continue reading

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除染なし解除 住民から異論 via TUFchannel

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【101カ月目の浪江町はいま】家屋解体4000軒、町内で生活する「住民」は1095人~子どもたちの姿は無く、幹線道路を行き交うのは汚染土壌運ぶダンプカー。via 民の声新聞

019/08/07 梅雨もようやく明け、福島県双葉郡浪江町にも夏がやって来た。しかし、そこに子どもたちの歓声は無かった─。今月5日、JR浪江駅から町役場、そして立野地区にある「希望の牧場」までを、2時間かけて歩いてみた。町民と会う事は無く、家屋解体と更地とダンプカーが目立った。聖火リレーの出発を7カ月後に控え、地元メディアは〝復興五輪〟を盛り上げるような報道であふれているが、現実はまだまだ厳しい。「こわす 解体」は解体予定の家屋に貼られたステッカーだが、原発事故が「こわしたもの」、「解体したもの」を見せつける浪江の夏。これが全てでは無いが、これもまた、福島の1つの現実だ。 【「イオン」で避難町民の帰還狙う】 「祈 常磐線全線再開」と書かれた七夕飾りが風に揺れるJR原ノ町駅(南相馬市)。ホームの一角には、福島駅や郡山駅、新白河駅と同じように、2020年東京五輪に向けたカウントダウンの電光掲示板が置かれている。ここから常磐線で約20分で終点の浪江駅に到着する。現在、浪江駅から富岡駅(富岡町)までは帰還困難区域を通るため代行バスが運行されているが、聖火リレーが始まる2020年3月末までに全線開通する予定。浪江駅でも工事が進められている。 改札の近くには、放射線量が掲示されている。0・294μSv/h。十数人が下車したが、放射線量を確認する人はいなかった。駅から福島第一原発までは南南東に約9キロメートル。高濃度に汚染された排気塔の解体工事が始まっている。 駅前ロータリーに出ると、バスが来た。町が福島交通に委託し、南相馬市と町を結ぶ小型の循環バスを週3日(平日のみ)運行している。運賃は無料。飛び乗ったら乗客は筆者のみだった。 数分で町役場に着いた。乗客のいないバスが南相馬市に向けて走り去った。 役場の正面には、7月14日にイオン浪江店がオープンした。これまで町内にはコンビニや仮設商店街しか無かったため、「帰還促進」の役割を担う。「常磐もの」コーナーでは、相馬市・原釜漁港で水揚げされたホッキガイやカレイが売られていた。原発や中間貯蔵施設などで働く作業員のために平日は午前6時に開店する。イオンリテール東北カンパニーによると、24時間営業の店舗を除けば、午前6時に開店するのは浪江店だけという。「売り上げや来客数は公表していない」。 […] 子どもの歓声無き夏休み】 国道114号線を西に進み、「ローソン浪江下加倉店」を右折。請戸川に架かる「加倉大橋」を渡った。この辺りで、手元の線量計は0・51μSv/h。橋を渡ると0・6μSv/hを上回った。「浪江町中央公民館苅野分館」に設置されたリアルタイム線量測定システムの数値は0・674μSv/hだった。近くには町立苅野小学校や町立苅野幼稚園があるが、子どもたちが遊ぶ声は聞こえない。 立野行政区に入ると、オリーブの栽培実験をしている畑が広がっていた。太陽光パネルもあるが、町民のは無い。常磐道の上を通ると、手元の線量計は0・7μSv/hを超えた。農地の一角に大きな看板が設置されていた。住民の大きな写真とともに、次のような言葉が添えられている。 「都市と農村の交流、地域性を生かした田圃、農村づくりの為、夢と希望の持てる豊かな地域づくりの為、人と人の触れ合いがしっかりと息づき共に支え合う絆をもとう! 立野地域環境保全会」 自然豊かな田園地帯に放射性物質が降り注いで8年。お盆を控えた夏休みだが、子どもたちに出会う事は無かった。家屋解体で更地が増え、広大な帰還困難区域も残る。7カ月後には聖火リレーが始まり、常磐線が全線開通する。「浜通りもあれだけの原発事故から立ち直った」と世界中に発信される。少しずつ前に進もうと努力している人もいる。しかし、現実は厳しい。原発事故が奪ったものの大きさを見せつけられた2時間だった。 全文

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<原発ADR打ち切り訴訟>東電と国、請求棄却求める「新生活の形成可能」via 河北新報

東京電力福島第1原発事故の和解仲介手続き(ADR)の決裂を受け、福島県浪江町の町民109人が計約13億1800万円の損害賠償を東電と国に求めた訴訟の第1回口頭弁論が20日、福島地裁で開かれ、東電と国は請求の棄却を求めた。 東電側と国側はともに「原発を襲う津波は予測できなかった」とする従来の主張を繰り返した。町民は地域コミュニティーの喪失を損害と主張するが、東電側は「新たに平穏な日常生活とその基盤を形成することは可能で、必ずしも元に戻らなくなったとはいえない」との見解を示した。 訴えによると、町民は2011年3月11日の東日本大震災と原発事故の発生直後から17年3月まで全町避難を余儀なくされた。町民は(1)コミュニティーの破壊(2)長期の避難生活(3)健康被害への不安-によって精神的苦痛を受けたなどとしている。 訴訟に先立ち、町は13年5月に町民約1万5700人の代理人となって慰謝料増額を東電に求める集団ADRを申し立てた。原子力損害賠償紛争解決センターは月額5万円を上乗せする和解案を提示したが、東電が拒否。[…] 20日は町民115人が追加提訴した。弁護団によると、最終的に1500~2000人が原告に加わる見通し。 全文

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<原発事故>浪江町民 東電と国相手に27日に集団提訴 via 毎日新聞 (YAHOO! ニュース)

 東京電力福島第1原発事故の慰謝料増額を求め、福島県浪江町民約1万5000人が申し立てた国の裁判外紛争解決手続き(原発ADR)が打ち切られた問題で、町民を支援する弁護団は18日、東電と国を相手取り、27日に福島地裁に提訴すると明らかにした。ADRで示された和解案を尊重するとしていた東電が、和解を拒否し続けた「期待権侵害」に対する慰謝料を新たに盛り込むとしている。 この日、福島県郡山市で記者会見した弁護団によると、原発事故のADR打ち切りを受け集団訴訟を起こすのは全国で初めて。原告数は27日の第1次提訴で100人程度を見込んでおり、順次追加で提訴。最大で約2000人になる見通し。 請求するのは(1)避難(2)コミュニティー破壊(3)被ばく不安(4)期待権侵害--への慰謝料。町は昨年3月に帰還困難区域を除いて避難指示が解除されたが、訴訟では住んでいる地域に関わらず、全員で一律の金額を請求する。1人当たりの請求額や総額は未定。事故の責任を明確にするため、国も被告に加える。 町は2013年5月、町民の代理人として、1人あたり月10万円の精神的賠償を35万円に増額するよう求めて集団ADRを申し立てた。申立人は約1万5000人で、町民の約7割に上った。 国の原子力損害賠償紛争解決センターは14年3月、月5万円(75歳以上は最大月8万円)を一定期間上乗せする和解案を提示。町民の代理人としてADRを申し立てた町は受け入れたものの、東電が一律の和解を計6回にわたって繰り返し拒否したため、今年4月に和解手続きが打ち切られた。この間、高齢者など申立人約850人が亡くなったという。 この日は郡山市内で原告団の設立総会が開催された。記者会見で弁護団長の日置雅晴弁護士は「東電は和解案を筋道の通らない理由で拒否している。ADRが強制力を持たないことでないがしろにされている以上、提訴に踏み切ることでしか、町民を救済できない」と意義を説明した。【宮崎稔樹】 […] これに対して、町は「古里から追われ、被ばくや避難生活など多種多様な被害で生活環境が変えられたのに、交通事故以下の基準は実態に合わない。町民は等しく被害を受けており、福祉を担う町が主体として申し立てるのは当たり前」として、今年6月に亡くなった馬場有(たもつ)前町長時代の13年5月、町が代理人となりADRを申し立てた。 4月に和解手続きが打ち切られた後も、町と弁護団は町民説明会を開き、提訴の意向や個別ADRの申し立ての意向をアンケートし、約2000人が提訴する考えを示した。訴訟で町は原告ではなく、町民と弁護団をつなげる形でサポートする。 この日の記者会見で原告団長の鈴木正一さん(68)は「ADRに関して国は傍観者で、東電は和解案の受諾拒否を続けて我々を裏切った」と批判。現在の賠償額については「自賠責保険を基に作られたもので常識的な基準ではない。町民の被害の甚大さを訴えていきたい」と語気を強めた。【宮崎稔樹】 全文

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