原田正純さんは、いつも水俣病患者のそばにいた。患者に寄り添い、その暮らしから真実を読み取ろうと試みた。弱いから見えるものがある。原田さんが提唱した水俣学は、弱者に学べと訴える。
水俣病とは、何だろう。水俣病研究の第一人者、原田正純さんの生涯をかけた問いだった。
水俣病多発地帯、ミカン畑に囲まれた熊本県水俣市湯堂の集落を、原田さんは「わたしの原風景」と書いている。
半世紀以上前、熊本大学の若き医師として、朽ちかけた貧しい患者の家を訪ね歩いた。診察を拒否する患者たち。水俣病と診断されて、風評被害に遭うのが怖い。大学病院の医師が診察を拒否されるなど、想像すらしなかった。
水俣病の原因は、チッソという化学会社が、水俣湾に垂れ流した有機水銀だ。高度経済成長を牽引(けんいん)した、元は「国策企業」である。これらは疑う余地がない。しかし、水俣病の正体は、いまだ判明していない。政府と最高裁で病気の認定基準が違う。補償が膨らまないように、国が配慮しているようにも見える。
水俣病はなぜ起きて、なぜ終わらないのか。
原田さんは、自らを問い詰めた。本当は極めて社会的、政治的、経済的な“水俣事件”を医学に独占させたこと、医学に丸投げしたことが間違っていたと気が付いた。そして「専門家とは何か」という新たな問いにたどり着く。
「専門家と素人」の壁を取り払い、水俣病にかかわり合ったさまざまな分野の人の話をみんなで聞きながら、私たちの生き方や社会のあり方を見直そう。そう考えて提唱されたのが「水俣学」だった。人々の健康を奪い、地域のきずなを引き裂いた水俣の悲劇を繰り返さないために。
原田さんの願いは、かなえられたのか。私たちは今、原子力ムラに封印された科学に対する不信に揺れている。政府は原発再稼働へと急いでいる。