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故郷奪った福島原発 「原子力明るい未来のエネルギー」標語考案者の大沼勇治氏に聞くvia長週新聞新聞

[…] 大沼氏は双葉町の入口に掲げられた原発PR看板「原子力明るい未来のエネルギー」の標語を子どもの頃に考案して表彰された過去を明かし、震災後は「明るい未来」どころではなくなってしまった双葉町や福島の実情を伝えるために、全国各地を訪れて講演などで思いをのべている。近年は福島がどうなっているのか、とりわけ双葉町や大熊町がどうなっているのかは、まるで報道管制でも敷かれたように表に出てこない。そして原発に翻弄された一般住民を東電と同列の「加害者」のように叩く構造もあるなかで、いいたいことをあからさまにいえない力も加わっている。その声なき声を伝えることを重視し、以下、大沼氏が撮影した写真とともにインタビュー形式で紹介する。 「。。。」Q 福島第1原発事故が起きてからの変化はどうだったか。  A 原発で成り立ってきた町は、事故が起きてから一変した。私も家とアパートのローンが残ったまま出ていかなければならず、その後もローンは払い続けて補償金で完済したが、無人のアパートは汚染されているので、もう貸すこともできない。自宅もおそらく解体するしかない。人口に見合わないのに電源立地交付金で建てた立派な駅や役場なども何の意味もないものになってしまった。それらのハコモノができたからといって、潤ったのは工事に携わった人ぐらいで私たち住民の生活がよくなるわけでもなかったのだが…。東電の補償金でローンは終わり、残った補償金で土地を探した。土地と建物を探すときも、福島では避難者がいっぱいで地価も上がっていたので、茨城に土地を買った。震災の年とその2年後に子どもが生まれ、幼稚園にも通わせなければならない。茨城だったら東京からも1時間半、福島には4時間ぐらいで行くことができるのでそうした。  原発事故に直面している者として、30年以上にわたって反対している人たちと交流することは大切だし、家族でデモに参加することで祝島の人たちと共感しあえたらいいと思って上関に来た。 […] 今、福島原発の復旧作業のための作業員でいわきなどの宿舎やホテルもいっぱいになっている。そういう人のための宿舎をやれば2150万円くらいの補助金が下りる。コンビニなどを開いた人にも国が補助金を出して住民の帰還を促している。住民票を移して自分もいなければならないのが条件だが、そこまでして戻りたいという人はあまりいない。メディアがコンビニなどを映して復興しているかのように伝えているが、現実には人などほとんどいない。  私は福島の現状を講演しながら回っているが、私がこの地域のことを知らないように、遠くなればなるほど、五年半前のことはもう話さなくてもいいという空気も感じる。また、福井など原発を推進しているようなところへ講演に行くのは、やはりおっかないなという思いもある。ネットなどでも「原発を推進していたくせになんだ」「虫が良すぎる」という書き込みを見かけたりする。しかし逆に、このような境遇になったからこそ思いを伝えられる。福島第一原発があのような状況になって、原発を推進する人はいないと思う。双葉町民の心情もそうだと思う。ただいいづらくていえない。双葉町民で脱原発を訴えている人に出会わないのは、家族や親戚、周囲に勤めている人がいるとかが大半だからだと思う。  双葉町は、「原子力明るい未来のエネルギー」の標語とまったく反対の運命をたどってしまった。この看板は今年3月4日に「老朽化して危険だ」という理由で撤去されてしまった。双葉町の負の遺産である看板を残してほしいという署名は6500筆にのぼったが叶わなかった。看板よりも撤去されるべき倒壊家屋は無数にあり、なにより撤去してほしいのは原発だ。そして町長が「看板の老朽化」よりも心配しないといけないのは、5年半も避難生活を送っている双葉町民のことではないだろうか。そのような心配よりも真っ先に看板を撤去するのはなぜなのか。「大事に保管する」といっていた看板は今シートに包まれ、草に覆われている。双葉町が行き着いた先は「明るい未来」ではなく、人がいなくなり赤信号だけが点滅する暗い町だ。いくら看板を撤去しても過去は永遠に残る。 […] Q 原発事故を経験した双葉町民として、上関や全国の人人に伝えたいことは何か。  A 上関町の景色を見て、原発に30年反対してきた気持ちに共感できる。たった1回の事故で、これから先もいつ帰れるかわからないが、そのようななかで解除しようとしている。国は補償金を払いたくないので、被災者の立場ではなく「復興」を無理矢理させようとしているのを感じる。原発ができれば町が発展するという“嘘”というか、“魔法”で信じ込ませるやり方は上関も双葉も同じだ。建てれば最初の何年かは町財政も右肩上がりだが、それが次第に下がってくるとまた増設、増設になり、麻薬のように依存していく。1回建ててしまうと必ずそうなってしまう。交付金がおり続けるわけでもなく、その交付金もハコモノに化けてしまう。 […] もっと読む。

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福島第1原発再稼働に抗議「まだ分からないのか」via 日刊スポーツ

かなたに見える東京電力福島第1原発に向け、避難区域の福島県双葉町の海岸から2人の男性が石を投げる。 福島県富岡町に住む松村直登さん(56)と、双葉町から茨城県に避難中の大沼勇治さん(40)。「まだ分からないのか」。1号機で爆発が起きて5年となる12日、再稼働を進める政府に抗議の意思を示した。 富岡町と双葉町の住民は原発事故の影響で避難を強いられた。どんなに除染作業をしても故郷が元通りになる希望はなく、事故収束も見通せない。それでも各地の原発を再稼働させようとする政府の方針に2人は憤る。 この日、2人は双葉町の帰還困難区域に入った。人の姿はなく、目につくのは崩壊した家屋や道に倒れたままの自動販売機。海岸に着くと、青空の下、約2キロ先に第1原発が見えた。 松村さんは、爆発があった後も第1原発から約12キロ離れた避難区域内の富岡町の自宅にとどまり、家々を見回り、放置された動物を保護した。 「福島のラストマン」として国際的に知られ、メディアなどで原発災害がもたらす悲劇を世界に伝えてきた。 大沼さんは、小学生の時に「原子力 明るい未来のエネルギー」という標語をつくり、原子力推進の看板になった。 原発事故で、かつて誇りに思った標語を恥と感じるようになったが「過ちを伝える遺産」として残すよう求めてきた。今月、看板は完全に撤去され「(再稼働の)邪魔になるからでは」といぶかる。 続きは福島第1原発再稼働に抗議「まだ分からないのか」

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原発PR看板撤去 「過ち伝えて」移設、保存へ via 毎日新聞

(抜粋) 「明るい未来」の看板は1988年、国道6号沿いの町体育館前に、もう一つは「原子力豊かな社会とまちづくり」などと書かれ、91年に町役場の入り口近くにそれぞれ町が設置した。原子炉増設の機運を高める目的で、標語は町民らから公募した。  看板は立ち入りが制限される帰還困難区域にあり、町は「補修や点検ができず、部品落下などの危険がある」として撤去と廃棄を計画。しかし、小学生の時に 「明るい未来」の標語を考えた大沼さんらが「過ちを伝える遺物として現場に残すべきだ」と訴え、各地の脱原発集会などで集めた6902人分の署名を今年6 月、町に提出した。これを受け町は、県などが同町や隣接する浪江町に整備予定の「復興祈念公園」に移設することを検討している。  大沼さんは事故後、古里の双葉町から茨城県古河市に避難し、脱原発社会を目指して太陽光発電事業を始めた。撤去される看板を見ながら「悔しい思いでいっぱいだ。国策に振り回される同じ失敗を繰り返さないよう、外した看板は必ず展示してほしい」と話した。 全文は 原発PR看板撤去 「過ち伝えて」移設、保存へ 当サイト既出関連記事: 「原子力看板」21日から撤去 双葉町、将来的な展示視野 via 福島民友 原発と決別、再生エネで再出発 推進標語を考案の大沼さん、太陽光発電所を開設 via 朝日新聞 原発推進看板は撤去し保管へ 福島・双葉町viaNHK

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