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福島からの証言・6 via Yahoo! Japan ニュース

土井敏邦 | ジャーナリスト 概要〉  橋本あきさんの一人娘の希和さんは、生まれて間もない長男を守るために、「大阪より西に避難を」という母親の助言で、福岡市へ避難を決意した。郡山の会社に勤めていた夫を説得して家族3人での避難だった。福岡市で仕事をみつけたが、慣れない土地で友人もできず、うつ状態に。郡山に帰りたいという夫と、子どもを守るために残りたい希和さんは、離婚を決意した。 【避難先でのすれ違いと離婚】 (略) なんとか家は崩れずに済んで、ちょっと揺れが収まったときに庭に飛び出しました。さっきまで晴れててぽかぽかしてたのに、急に雪が降ってきたんです。電線が波打っていました。まるで映画のシーンのようでした。  家はいつ崩れるか分からないから、中に戻るのは怖いので、母の小さな軽自動車に4人で入りました。でも車の中でも揺れを感じて、「うわー!」と叫んでいました 電気は大丈夫でしたから、母は米が炊けるうちと炊きました。ミルク用のお湯もわかしました。  夕方になって寒くなってきました。父が帰ってきて、家の中を掃除してくれました。夜は家の中で布団を敷きました。電気だけはかろうじてずっと通っていて、テレビも見れました。炬燵も入れました。しかし水道とガスはだめでした。ガスは比較的早くに復旧したんですけど、水道が一週間弱ぐらい断水しました。飲み水は母が以前に買っていたので、そのペットボトルの水を使ってお茶を飲んだりしてました。  テレビはつけっぱなしで、夜は眠れませんでした。「ちょっと体休めようかな」って思っても、グラグラと揺れがくれば、体起こして子どもを庇う。ジャンバーは着っぱなしで、枕元に靴を置いて、いつでも外に出られるような態勢でした。 (Q・放射能が危ないって感じるってことありましたか?)  原発が爆発したのはテレビで知って、そのときは現実なのか夢なのかと思いました。 「危ないな」って感じ始めたのは、次第に地震も収まってきて、普段の生活に戻ってきたころです。「洗濯物は外に干していいですよ」という報道がされてきたころですかね。「出かけるときはマスクして、肌の露出を避けて」「帰宅したら、着たものすべてゴミ袋に入れて、シャワー浴びて」とか、あれほど言ってたのに、1ヵ月も経たたないうちに、みんなマスクはしていませんでした。「それでいいの?」「もう大丈夫なの?」と疑いました。放射能は目に見えない分、疑っていいんじゃないかと思ったんです。  母の影響も少なからずあるとは思います。海外に住む叔母が、「国内では大丈夫だって言っているかもしれないけど、海外からから見ると日本は危ないから、とにかく子どもと2人だけでもいいから逃げてきて!」と言うんです。「ああ、危険なのかな」と思いました。  「郡山を出なければ」と思ったきっかけは、2011年10月から1ヵ月間、オーストラリアの叔母のところに「保養」(注・放射能の不安を抱える人びとが、居住地から一時的に距離をとり、放射能に関する不安から解放される時間を確保して心身の疲れを癒そうとする行動)に行ったことです。その時、現地では、何も心配せずに子どもを外に遊びに行かせたり、靴を履かせて歩かせたり、這い這いさせたりできました。震災前は郡山でも当たり前だったのに、震災後はそうではなくなっていることに改めて気づいたんです。そのとき、「郡山では、子どもを安心して外に出せない中では生活できないな」と思ったのが大きなきっかけでした。 (略) 一番、大きいとは思います。「保養」についての説明会も母と行って、どういうところに保養場所があるかも知りました。各地で支援してくださっている方が多くいることもわかりました。  郡山を出る決断したのは、2011年の12月でした。叔母のいるオーストラリアからちょうど帰国して、夫と話し合いましいた。ようやく夫が折れて、そこから、ポン、ポン、ポンと話が決まりました。  「福島からの避難者のための借り上げ住宅」の期限が12月末でしたが、福岡県庁に電話して「まだ応募できますか?」と尋ねると、まだ大丈夫だというので、12月中旬に博多まで下見に行って家を決めました。そして1月の中旬に郡山を出ました。  震災直後に、「叔母からオーストラリアに逃げてって言われている」と話をしたとき、夫は「飛行機の中でも放射能飛んでるんだから」と言うので、「これはもう、たぶん話にならんな」と思いました。だからオーストラリアへ「保養」に行く時は、夫に告げませんでした。現地から「いまオーストラリアに来ている」と手紙を書きましたが。  帰してすぐ夫と話し合うとき、もう離婚届も提出されるんじゃないかと思って、ハンコを持っていきました。  (子どもを避難させることで)夫を説得しようとするとき、目にも見えない放射能について一から説明しなきゃいけないのかと考えると、自分にはできない。だったらもう離婚したほうが楽だと思いました。 (略) 「離婚の覚悟」「生活の不安」ですか?とりあえず、母に事情を話すと、「なんとかするから」と言ってくれ、すぐに援助してもらったので、経済的なことでは不安はなかったです。  これまで母に頼りっぱなしだったので、そこはなんとかなるかなと思いました。母も「そのくらい養う力はあるから」と言ってくれたので、「とことん甘えちゃえ」と思ったんです。子どももまだ小さかったので、父親がいなくなるっていうことに対しての抵抗感はなかったです。 全文は福島からの証言・6

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「原発事故は町を歴史ごと切り取った」避難先で妻が鬱に、変わり果てた自宅…避難者たちの想いと決意 via Abema Tims (YAHOO!JAPANニュース)

しかし、現在も約3万6000人が避難生活を余儀なくされている現実を忘れてはならない。帰りたくても帰れない人、帰らないと決めた人、故郷に帰る人。彼らはこの10年で何を思い、どんな道を歩んできたのだろうか。 「もう二度と戻れないかなって思った」  浪江町出身の堀川文夫さんは、地域に根付いた塾を営み、子供たちには日ごろから原発の危険性を伝えていた。 […] 「よそ者だから。仕事もしないで、ぶらぶらしているように周りから見られているような目がなんとなく痛くて。妻が鬱になった」  故郷を追いやられた悲しみ。何十年も積み上げてきた信頼や人間関係の喪失。堀川さんの心も次第に荒んでいった。  浪江の自宅に一時帰宅した際、堀川さんは変わり果てた家の様子をカメラに収めていた。 「3月11日のお昼ご飯の跡だ。猫の足跡がいっぱい。動物の入った跡がいっぱいある。壁は亀裂が入っている。これが我が家だ。もう二度と帰れないでしょう」 「自分の人生であり、両親の人生であり、祖父母の人生。私たちの長い歴史があそこにあった。その歴史ごと切り取られたのが原発事故だった。人間の生死という重い問題はあるが、津波だけだったら私たちの歴史が切り取られることはなかった。そういう怒りもあるし、悔しさから何から何まで……」  避難先で思い出すのは、幸せだった故郷の暮らしと子供たちの笑顔だ。もう二度とあの生活には戻れない。堀川さんは深い失意に苛まれていた。そんなある日一筋の光をもたらすきっかけが訪れた。塾に避難した教え子の一言だった。 「神奈川県に避難した子供の一人がこう言った。『先生、俺にとって震災は悪いことばかりじゃなかったよ。これがあったから会えない人と会えた。これがあったからできないことが経験できた。だから俺にとって悪いことばかりじゃなかった』と。それに私はガーンと頭を叩かれたように思えた。『お前、いつまで引きこもってるんだよ』みたいに。子供たちは4月から新しい生活を始めなきゃならなかったじゃないか。『何やってんだよ』と言われたように思えた。そこから一気に動き出せた」 […] 堀川さんは「自分がどのような人生を浪江で歩んできたか。新しい地区の人たちにもわかってもらおうと必死でやった」と話す。その思いは次第に地域の信頼へと変わり、そして富士市に新たな塾を設立した。  避難先で自分の居場所を見つけた堀川さん。しかし、それでも生まれ育った故郷を忘れることはないという。 「避難先に根を下ろせば下ろすほど浪江との縁が薄れていく寂しさはある。故郷ですから」  堀川さんに「10年経つが今も避難している感覚なのか」と聞くと「そうだ。みんな帰りたいと思っている。帰らない選択をした人も、帰れないと思っている人も帰った人もみんな帰りたいと思っている。それだけは間違いないと思う」と答えた。 […] 全文

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【東日本大震災から10年】県議目指し活動中。「黙っていたのは逃げ……自分で行動しようと決めました」/磯貝潤子さん via LEE

2016年4月号のインタビューから5年。東日本大震災関連の報道が減る中で、彼女たちが日々、どんな葛藤や奮闘を続けてきたのか。 新型コロナの流行で現地取材がままならない中、今回はオンラインでじっくりとお話を伺いました。ぜひ彼女たちの思いを共有してください。 5年目インタビューより 郡山市で被災。放射能対策をしながら暮らしていましたが、1年後、県外への自主避難を決断し、娘2人を連れて新潟県の借り上げ住宅に引っ越します。夫は郡山市に残り、二重生活に。甲状腺の検査では娘にも自分にもたくさんのコロイド嚢胞が見つかりました。子どもたちの健康を守るため、放射能や、水や食べ物の安全性について必死に学ぶうちに、沖縄や安保などの社会問題にも目を向けるようになっていきます。 「ママ、本当に戦争になっちゃうの?」……「この法律が成立したら、なるかもしれないね」と答えると娘さんは泣いたと言います。2015年、安保関連法案が国会に提出され、多くの反対の声が上がっていました。 「どうしたら泣く娘を慰められるんだろう。私たちは原発から離れた場所なら安全に暮らせると思って新潟に避難したけれど、もしも戦争になったら、今度はどこに避難すればいいんだろう。大丈夫だよと言える根拠がひとつも見当たらなくて、だったら止めなくちゃならないと思いました」 SNSを通じて「安保関連法に反対するママの会」が全国に広がっていき、磯貝さんもその活動に加わります。たくさんのママが集まった渋谷のデモにも参加しました。けれども2015年9月、安保関連法成立。12月には「安保法制の廃止と立件民主主義の回復を求める市民連合(通称:市民連合)」が発足し、磯貝さんは市民連合@新潟の共同代表を務めることになりました。 「私は原発事故の前は選挙に行ったこともありませんでした。でも震災後、娘たちの安全を守りたい一心で学び始め、いろいろな社会問題にも目が向くようになり、黙っていられなくなってきて。全ての子どもたち、新しい世代の人たちが安心できる世界にしたいという思いが、どんどん強まっていきました。 新潟で流れる柏崎刈羽原発のCMを見て、その反対運動にも関わるようになっていました。安保関連法のときは、私と同じように、それまで政治に目を向けていなかった人たちもたくさん声を上げた。すごく心強くて、こうして立ち上がっていくことで何かが変わる、変われる気がしていました。 […] 進学で上京する娘がくれた手紙 […] 「ママ、18年間ありがとう。毎日かかさずお弁当を作ってくれて、放射能から守るために避難してくれて、やっと今になって本当に感謝しています。空気を気にしないで沢山走って、遊んで、ママのおかげで成長できました。選挙でママが勝つと思うよ。今まで頑張ってきた努力やママの想いが伝わりますように」 […] 起きてしまった事故は磯貝さんの罪ではないのに、なぜそこまで自分で背負うのでしょう。 「すごく期待していたんだと思います。助けようと思えば助けられる人たちがいたであろうに、政府とか、財界とか、どこでもいいですよ、例えばなぜ急いで子どもたちだけでも避難させなかったのか。 私は期待していたんです。いつ始まるんだろう、いつ起こるんだろうと思っていたけど、待てど暮らせどそんなことはなくて、結局、みんなが我慢したり、自分たちの力で何とかするということになって、今に至っているわけですよね。 私も黙っていたけど、それは逃げだった。そのしわ寄せは子どもたちがくらってしまう。だから自分で行動しようと決めたんです。 洗い物をしてひび割れた手で議会に行って、夕飯の献立も考えながら政治のことも考えられる、そういう人がいないと、いつまでたっても私たちにとって政治は遠いものです。頭が悪くてもいい、間違えてもいいから、ワカメの味噌汁を作りながら政治を変えていかないと、と」 […] 全文

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「この花、触っていい?」 福島の子に揺さぶられた心 via 朝日新聞

 札幌市議を3期務めた山口たかさん(71)が、「福島の子どもたちを守る会・北海道」を仲間たちと設立したのは、震災から3カ月後の2011年6月11日だった。「福島」にこだわったのには理由がある。  1980年代、高レベル放射性廃棄物処分場や原発の反対運動に参加した。折しもチェルノブイリ原発の事故が起き、反原発のうねりは一時的に高まったが、心のどこかで思っていた。日本では、こんなひどい事故は起きないだろう、と。  震災直後、札幌で市民運動に関わる人たちで被災地支援について話し合ったが、原発事故については原発の是非も絡むため、タブーのような雰囲気だった。「それなら逆にやらなきゃ。大事故はないと思っていたことへの贖罪(しょくざい)の意味もありました」 自身を含め、女性4人が活動の中心になった。元国連職員の泉かおりさん、福島県天栄村から避難してきた元養護教諭の矢内幸子さんと、娘の怜さん。放射線量が高く外で遊べない福島の子どもたちに、北海道で伸び伸び過ごしてもらおうと、夏休みに親子の「サマーキャンプ」を計画した。  初回のキャンプには約40人が参加。草原や花畑を駆け回る子たちが、お母さんに尋ねるのを聞いた。「この花、触っていい?」「この草は大丈夫?」。だめだめ、と言われ続けてきたのだろう。戻ればまた、花に触れることもかなわない日常が待っている――。山口さんは、心を揺さぶられる思いだった。  その後、夏と春の年2回、期間を決めて親子を受け入れ、寝食を共にする自分たちの活動を「保養」と呼ぶようになった。夏は海水浴、春は雪遊びやスキーが人気のプログラムだ。  震災翌年、会の仲間と訪れたドイツで、チェルノブイリの子たちを招く活動を続ける女性グループと会った。そこで教わったのが、被災者の選択肢は「地元に残るか、避難か」だけでなく、保養が第3の道になり得るということだった。  14年には札幌市南区に空き家を借り、自前の保養施設「かおりの郷(さと)」を設けた。前年春に志半ばで亡くなった、泉かおりさんの名前をもらった。  福島市の高校生、渋谷睦月(むつき)さん(17)は、小学3年生の時から何度も保養に参加したひとり。「ボランティアの皆さんが家族のように接してくれた」。一緒に参加した小さな子と過ごしたことがきっかけで、保育士が将来の目標になった。  ただ、山口さんのもとには、「年がたつほど、地元で原発や放射能のことを話題にしにくくなった」との母親たちの声も届く。安全に対する考え方の違いから、被災者が分断されることを心配する。  延べ800人以上を受け入れてきた保養のニーズは、今も根強い。会はNPO法人となり、山口さんは理事長を担う。「10年が区切りと思ってきたが、復興は道半ば。もうちょっと頑張りたい」 取材後記 様々な選択 尊重される社会を  「縮む福島」という見出しの記事が、震災の約4カ月後、朝日新聞1面に載った。県外避難が止まらないことなどを伝える記事の見出しは、当時の福島の実情を的確に言い表していたと思う。  私は福島から何を伝えるかを記者と話し合い、方向性を決めるデスクとして、縮む福島で暮らし続ける人々の声を届けたいと取り組んだ。県外避難はもちろん自由だが、さまざまな事情で避難できない人、自らの意思でとどまる人がいたからだ。地元民として耳を澄ますと、放射線の危険を訴える「反原発」の主張が、「嫌福島」に聞こえてしまうことがつらかった。  今回の取材で「守る会」の思いやりへの感謝を、何人もの保護者から聞いた。受け入れ、受け入れられ、心を通わせ合う営みは、どんな選択も尊重される社会につながると信じる。(片山健志) 原文

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避難所で性行為を強要、DVが悪化… 被災地であった女性への暴力その後【東日本大震災】 via HUFFPOST

泉谷由梨子 「避難所のリーダー格を含め複数の男性から暴行を受けた。『騒いで殺されても海に流され津波のせいにされる恐怖があり、誰にも言えなかった』」(女性) 「避難所で夜になると男の人が毛布の中に入ってくる。仮設住宅にいる男の人もだんだんおかしくなって、女の人をつかまえて暗いところに連れて行って裸にする」(20代女性)  東日本大震災では、避難所での女性や子どもに対する性暴力や、家庭内暴力(DV)があった。これは、「東日本大震災女性支援ネットワーク」が2013年に発表した調査で明らかになった。  ただ、当時はほとんどこの事実に関する報道はされていなかった。どんな内容だったのか、あれから10年で災害と性暴力をめぐる状況はどう変わったのか。調査をまとめた一人である認定NPO法人「ウィメンズネットこうべ」(神戸市)代表理事の正井禮子さんに聞いた。 「対価型」性暴力に注目 […] ・津波で家族が行方不明になった20代女性に、避難所で物資の搬入や仕分けに関わっていたリーダー格の男性が、支援物資を融通することをほのめかして性的関係を強要した。 ・自称「支援活動」をしている男性が、支援者として女性に近づき、不安になっている女性に自分の家に「避難」を勧める。 ・夫が震災で死亡し、娘と避難する女性に避難所のリーダーが「大変だね。タオルや食べ物をあげるから夜、○○に来て」と性行為を強要した。女性は「嫌がったらここにいられなくなる。娘に被害が及ぶかもしれない」と応じざるを得なかった。 ・災害後に被災者の女性の元に元交際相手が車で駆けつけて関係を再開。暴力や性的暴力をふるった。女性は災害後に不安になり頼る人がほしかった。 調査は、災害後、特に経済的・社会的に弱い立場に置かれやすくなった女性の弱みや不安につけこみ、優位な立場にある男性との社会的な力関係の差を利用した性暴力が行われていたことを明らかにした。 また、家庭内暴力も多数報告された。 ・以前より暴力があり、若い頃は首を締められることも。地震・津波によって夫の仕事が減り、家にいる時間がながくなった。震災後にイライラしはじめ、妻に対し大声で怒鳴るなどが始まった。震災前には妻が日常的に通っていた場所に行く公共交通手段がなくなり(夫に送迎を頼まざるを得ず)緊張度が高まっている(50代女性)。 10年で「何も変わっていない」 この調査の対象となった、東日本大震災からまもなく10年になる。 あれから、災害対策基本法は改正され(2013年)、市町村に避難所の生活環境整備の努力義務が課された。2020年には、内閣府男女共同参画局の避難所運営ガイドラインが作成された。 ガイドラインには、正井さんらの調査報告や提言内容も盛り込まれている。それにより、10年で状況はずいぶん改善されたように見える。東日本大震災で報告されたような性暴力は、今後はもう起こらないと言えるだろうか? 正井さんは即座に「そんなことはない。何も変わっていない」と断言した。 どういうことだろうか。 実は、2011年の東日本大震災の当時も、既についたてや更衣室の設置など女性特有のニーズを考慮するようにと求めた文書は内閣府から通達されていた。 しかし、地方自治体やNPOなどを対象にした後の調査で「知っており、市町村や関係部署・団体等と連携して対応した」と回答した団体は、わずか4.5%でしかなかったことがわかっている。 […] 正井さんらも海外での調査事例を参照し、当初は直接避難所に問い合わせて女性から聞き取りをしようと試みた。しかし、避難所のリーダーたちから「性暴力の調査とは何だ。うちの避難所に犯罪者がいると言うのか」と、すごまれることも多かったという。 正井さんが制度以上に重要だと指摘するのは、性暴力やDVの背景にある日本社会の女性の貧困やジェンダーの不平等を改善するということだ。 […] また、正井さんは避難所のリーダーを務めた数少ない女性から、こんなエピソードを聞いたという。 ある避難所で、他に引き受ける人が誰もいなかったという理由で女性がリーダーになっていた。3カ月が経ってその自治体の避難所連絡会ができ集会に行ったところ、女性リーダーはその避難所だけだったことがわかった。戻ってそのことを避難所で報告すると『女性がリーダーだと、うちの避難所だけ不利になるのでは』との懸念の声があがり、その女性に対して『(半壊の)家があるじゃないか』と出ていくように言われた。女性はショックから精神的に不調をきたし、本当にその避難所を出ていくことになった。 「コミュニティ再建だと言われるが、ここにあるのは女を黙らせるコミュニティでしかない」。避難所の立ち上げから奔走してきた女性は正井さんにそう語った。 正井さんは阪神大震災でも、東日本大震災でも「避難所リーダーの男女別の人数を知りたい」と各機関に問い合わせたが、最後までその情報さえ得ることができなかった。 […] 平時にも弱い立場にある女性が、災害時にはより困難になる。阪神大震災や東日本大震災で痛感した、社会の構造は全く変わっていないと感じている。 「DVの暴力から逃げ出し避難しても、コミュニティを追われた女性たちには貧困が待っている。日常から女性に対する性暴力や暴力はあるんですよ。そういう被害や、男女の不平等、性被害が無視されている現状に目を向けていかないと、災害時だけ女性が活躍したり、女性の意見が通ったり、そんなことにはならないですよ」 一方で、正井さんがわずかに希望を感じていることもある。それは、2019年から始まった、性暴力に抗議するフラワーデモが全国で開かれていることだ。 阪神大震災の被災地で性暴力があったことについて発表した正井さんは、ある雑誌で「嘘」と断定されて世間からのバッシングを受け、それから10年間災害と性暴力についての発言を控えていたという過去がある。 東日本大震災でこれほど大規模な調査を実施したのは、災害時に暴力を受けた女性たちの声が、決して嘘なんかではないと証明するためでもあった。 「2019年6月に初めて開催した神戸市でのフラワーデモでは、参加者が自分も話したいと次々とマイクを握っていました。若い人たちが多かったのが嬉しかった。先日の森喜朗さんの発言でもすぐに若い人たちが動いて、10万筆を超える署名が集まりましたね。ずっと変わらなかったと言いましたが、やっぱり今からは変わり始めるんじゃないかなって。やっと皆が行動を始めたんじゃないかなって。そうであってほしいって期待しているんです」 あの頃と比べると、発言する女性、そして女性たちの声を代弁し守る人々が増えたことには希望を感じる。正井さんはそう話した。 全文

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原発関連死、7町村で人口1%超 via Reuters

 東京電力福島第1原発事故により避難を余儀なくされた福島県の7町村で、体調を崩すなどして亡くなる災害関連死と認定された人が、人口のそれぞれ1%以上に上ることが16日、共同通信の集計で分かった。東日本大震災発生時は無事だったのに、避難先を転々とするなど生活が一変したことで命を失った人が100人に1人以上の割合でいた形だ。長期化した避難の厳しさがあらためて浮き彫りになった。 続きは原発関連死、7町村で人口1%超

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味覚、嗅覚を失い、そして自宅も 福島・大熊町の元そば職人 原発事故の苦しみ解き放つ和太鼓のリズム<あの日から・福島原発事故10年>  via 東京新聞

[…]  原発から5キロ、大熊町内でそば店を営んでいた。そば職人にあこがれ、28歳のときに脱サラ。同町内で妻の実家近くの土地を探し、横浜市から移住した。 「季節ごとにそば粉の産地を変え、だしのかつお節は甘みがあって臭みが少ない一本釣りしたカツオだけを使った。お客さんの笑顔が見たくて、品質にこだわった」。懐かしそうに語る顔は、どこか誇らしげだ。 東電や下請け企業の社員らが接待で頻繁に利用し、店は繁盛した。2週間先まで予約が埋まるほどだった。そう、あの日までは。 […] ◆「避難のストレスかな」  同じ年の12月ごろ、一人で留守番をしていると、帰宅した妻が叫んだ。「どうしたの!」。石油ストーブの暖気をこたつに送るビニールホースが焦げた臭いが充満していた。味覚と嗅覚をほぼ失っていた。 2年ほど無味無臭の暮らしを強いられた。「避難のストレスかな」と感じたが、原因は不明だ。今も治療を続けるが、料理人としての感覚には程遠いままだ。「料理番組を見ていると『おれだったらこうするなぁ』と思っちゃう。それで『あ、おれ、味が分からねぇからできないか』って。すごく切ない」。そば屋の復活は難しかった。 ハローワークで仕事を探したが断られ続けた。「年齢的に自営しかないのでは」と思い、たまたまインターネットで太鼓教室の運営者を募る広告を見つけた。 ◆消えた不眠の悩み  まったく無経験だったが夫婦で太鼓を体験してみると、不眠に悩まされていた妻がその夜はぐっすりと眠れた。「太鼓も人の笑顔が見られる仕事なのかも」。13年5月、東京都町田市で太鼓教室「TAIKO―LAB町田」を開いた。 […] 18年、東電による精神的苦痛に対する賠償が打ち切られた。「時間がたてば傷は癒えると東電は考えているのかもしれないが、それは大きな間違いだ」 ◆「全ての家を建て直して」  忘れられない光景がある。「あの日」よりもずっと前、福島第一原発での作業ミスを記者会見で謝罪した東電幹部が、その日の夕方に来店した。「下請けがどうしようもねえんだよ」と笑っていた。 未曽有の原発事故を起こしても、東電の体質は変わったようには思えない。 「福島の汚染をゼロにして、全ての家を元通りに建て直し、原発も更地にして住民に返してほしい。それが事故を起こした当事者としての責任じゃないんですか」(小野沢健太) 全文

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放射線の専門家の委員会 ICRP 福島の原発事故の教訓踏まえ勧告 via NHK News Web

各国の放射線の専門家で作る「ICRP=国際放射線防護委員会」は、福島の原発事故の教訓を踏まえ、生活の質を回復するためには対策の決定に住民が参加する必要があるなどとする勧告をまとめました。 今月、オンラインによる国際会議を開いたICRPは、来年で発生から10年となる福島第一原発の事故の教訓を踏まえた勧告を、このほどまとめました。 それによりますと、大規模な原子力事故が起きると、放射線の影響だけでなく、避難による生活の変化や偏見、差別など複雑な問題が発生すると指摘しています。 そのうえで、生活の質を回復するためには行政や専門家だけでなく、住民が参加して対策などを考える必要があるとしました。 例えば、住んでいる場所の線量マップの作成や、農産物を測定する装置の地域への提供など、生活に直結する情報とともに、住民も主体的に対策に参加する仕組みが重要だと指摘しています。 続きは放射線の専門家の委員会 ICRP 福島の原発事故の教訓踏まえ勧告

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今明かされる極秘避難計画 子ども6千人、原発事故直後 via 朝日新聞

2011年3月中旬、東京電力の福島第一原発で事故が起きた直後、60キロほどの福島県郡山市で、子ども6千人を避難させる計画が急きょ練られた。市民にも議会にも極秘にされた。  当時市長だった原正夫氏(77)、教育長だった木村孝雄氏(74)とともに、ことし11月半ば、猪苗代湖畔の廃校を訪れ、記憶をたどってもらった。  「原発がさらに爆発したら、ここへ避難させる計画でした」と原氏。「せめて温かい食事を出せるよう、調理室にプロパンガスを運びました」と木村氏。校庭に残る雪を職員らと払い、雑草を刈った。  原発事故を想定した避難計画はなかった。計画づくりを政府から義務づけられていたのは、原発8~10キロ圏だけだった。  郡山市内は切迫していた。大震災で約2万4千戸が全半壊。3月15日にかけ、1、3、4号機の原子炉建屋が爆発し、毎時8・6マイクロシーベルトの放射線量を市内で記録した。国が追って避難指示の目安とした値の2倍超。派遣されてきた自衛隊員は防護服を着ていた。  原発の周辺から避難者が押し寄せた一方、5千人超の市民がマイカーなどで市外に避難し始めた。動くに動けない市民から、怒り、戸惑う声が殺到した。  原氏は16日、地元の参院議員、増子輝彦氏の訪問を受けた。「問題なのは(爆発していない)2号機なんですよね」 (略) 爆発がさらに続くリスクは、想定していなかった。被曝(ひばく)の影響を強く受ける子どもたちの避難は「国からの正式な情報を待っていては手遅れになりかねない」と判断した。  避難先に決めた湖南地区は西に二十数キロ。奥羽山脈で隔てられ、放射線量が低かった。旧月形小学校など五つの廃校に電気や水道を通した。子どもを運ぶバス約60台を手配した。2週間ほどの急ごしらえだった。  市内の児童は1~4年生だけで1万3千人ほど。廃校に収容できるのは、うち6千人。「市にできる限界だった」  パニックを恐れて計画は公開せず、数千万円の予算は市長の専決処分とした。事故はさらなる爆発には至らず、計画を実行に移すことはなかった。  「どのような事態になっても、教育長と私は最後まで残りますよ。そのつもりで」。原氏の言葉に、木村氏は息をのんだのを忘れない。(関根慎一、編集委員・大月規義) 全文は今明かされる極秘避難計画 子ども6千人、原発事故直後

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原発事故に備え 新潟で進む独自検証 国の体制「福島以前に劣る」 via 東京新聞

(2020年11月24日東京新聞に掲載)  東京電力福島第一原発事故から来春で10年を迎える。同じ東電の柏崎刈羽原発がある新潟県は、避難などの防災対策を重点課題として独自の検証を進めている。専門家による委員会は国が相手でも遠慮なく「駄目出し」し、「国の備えは福島原発事故以前よりも劣る」と非難する声まで上がる。他の立地道県も、踏み込んだ姿勢で課題の洗い出しをするべきではないか。(榊原崇仁) […] 16日に開かれた新潟県の避難検証委員会。かねて議論してきた安定ヨウ素剤の論点整理案で委員長の関谷直也・東京大准教授(災害社会学)は、「原発の5キロ圏外の住民は避難途中の配布を」と推奨する国の方針を「避難経路上では難しい」と断じた。  国と一線を画す提言ながら、県の担当者は「豪雪地域だから、ただでさえ避難が大変。途中で配布できるか心配してきた。事前配布が行えるよう調整したい」と受け止める。  県の検証は泉田裕彦知事時代の2012年に始まった。福島原発事故の原因を分析する委員会だけだったが、次の米山隆一知事が17年、避難と健康影響を検証する各委員会を設置。現在の花角英世知事は検証が終わらない限り、再稼働は議論しないと語っている。 高齢者、子どもの避難…難問が鮮明に […] 鮮明になったのは、解決が難しい問題の数々。福祉施設にいる高齢者の避難はその一つだ。訓練を視察した複数の委員が「車いすやストレッチャーで避難用の車に移るのに1人5分程度かかった」「人手や資機材が足りるのか」と指摘。委員の清水晶紀・福島大准教授(環境法)は「100人弱の施設なら避難に数時間かかりかねない」と話す。  学校にいる子どもと教職員の避難も大きな課題として話し合ってきた。委員の1人で、危機管理のコンサルティング会社「総合防災ソリューション」(東京都千代田区)の沢野一雄さんは「子どもをいつ保護者に引き渡すか、教職員はいつまで子どもと一緒に行動するのか。教職員にも家族がいて、正しい答えが見つからない」と語る。  ヨウ素剤に関しては、原子力防災を所管する内閣府と、服用の必要性を判断する原子力規制委員会で見解が異なる状況が浮き彫りになっている。  内閣府は9月の避難検証委で「国際原子力機関(IAEA)が示す基準値『7日間で50ミリシーベルト』に照らす」と説明。一方、規制委の更田豊志委員長は12年11月、「原子力災害事前対策等に関する検討チーム」の会合でIAEAの基準値採用に難色を示し、「大いに議論の余地がある」と述べている。考え方が違ったままでは、事故時に混乱する可能性が高い。 SPEEDIの活用法でも国と反対の考え  避難検証委で、委員が国の方針と反対の考えを示すケースは他にもある。矛先を向けたのは、放射性物質の放出量や風向きなどを見立て、汚染拡散の状況を予測する「緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)」の活用法だ。  福島事故前は、SPEEDIの結果を基に避難などを指示するようになっていた。ところが規制委は2014年10月、「さまざまな仮定を置いた計算にすぎない」「予測結果は正確性を欠く」として、「SPEEDIは活用しない」と決めた。代わりに被災地の空間線量を測り、基準を超えた場合に避難を指示することにした。  これに対し委員の山沢弘実・名古屋大教授(大気拡散)は16日の避難検証委で、SPEEDIを活用しない国の防災体制は「福島原発事故以前より劣る」と記した文書を提示した。山沢さんは取材に「線量が高くなったのを確認してから防護策を取るのでは遅い。既に汚染が来たということだから。拡散予測を使うべきだ」と主張した。  新潟県は山沢さんの指摘前から、拡散予測を使う方針を決めている。国を頼れない中、東電から拡散予測を得る協定を10月に結んだ。県の担当者は「入手方法はメールかファクスか、東電社員による持参になると思う」と話す。 もっと読む。

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