Tag Archives: 広島・長崎

国連のピースデー提唱者、広島に via Reuters

 長崎への原爆投下で被爆した英国人戦争捕虜の孫で、停戦と非暴力の日として国連が定める「ピースデー」の提唱者、ジェレミー・ギリーさんが広島市を訪れ、英語通訳で被爆者の小倉桂子さん(81)と3日、平和構築の在り方について語り合った。 (略) やけどを負った人々が助けを求める姿が忘れられず、被爆者であることを語るのを避けていた時もあったと英語で説明した。 ギリーさんの「平和とは何か」との質問に、小倉さんは「生き残ること。そして命を尊重すること」と応じた。 全文は国連のピースデー提唱者、広島に

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アニメ映画 広島の被爆米兵描く 日系人監督の遺志を形に via 毎日新聞

「沈黙の艦隊」の人気漫画家かわぐちかいじさんデザイン  「スノーマン」「風が吹くとき」などの名作で知られる世界的アニメーション監督で、日系米国人の故ジミー・ムラカミさん(2014年、80歳で死去)の遺志を継ぐアニメ映画が、被爆死した米兵捕虜の調査を40年以上続ける広島市の歴史研究家、森重昭さん(81)らの協力で製作されることになった。キャラクターデザインは、「沈黙の艦隊」で知られる人気漫画家、かわぐちかいじさん(70)が担当し、被爆75年にあたる20年夏の完成を目指す考えだ。【中澤雄大/統合デジタル取材センター】 「私の最後の作品は、ヒロシマを舞台にしたものにしたいんだ」。04年の第10回広島国際アニメーションフェスティバルで審査委員長を務めたジミーさんは、周辺に胸の内を語っていた。1933年、日系1世と2世の両親の下に生まれ、ツールレーク日系人収容所で4年間過ごした経験から、戦争を憎む気持ちは人一倍強かったという。 (略) 森さんは「原爆犠牲者に国籍は関係ないと話しました。きちんと実態を描くことをアニメ化の条件にしました」と振り返る。  脚本は仏カンヌ映画祭パルムドール受賞作「うなぎ」の冨川元文さん(69)が、森さんの著作を下敷きにして執筆。米兵捕虜と広島の看護女学生は心を通わせるようになるが、原爆が関係を引き裂く--。題名の「ヒロシマ・夏の名残のバラ」は、アイルランド系と設定された米兵が祖国の民謡「The Last Rose of Summer」を口ずさみ、女学生と打ち解けるきっかけとなることから付けた。日本の唱歌「庭の千草」の原曲としても有名だ。  地元・広島県尾道市出身のかわぐちさんは本作へ強い思いを込めて「代表作『沈黙の艦隊』では核戦争の抑止をテーマにしましたが、今回は戦時下での人間同士の絆、交流を描くことになります。今の時代、僕ら『団塊の世代』がこうして語り継いでいく責務があると思います。僕にとっても初めて描き下ろすアニメ映画であり、頑張りたい」と語る。 全文はアニメ映画 広島の被爆米兵描く 日系人監督の遺志を形に 

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爆心地被爆者もプルトニウムで内部被ばく、長崎大学が発見 via 大学ジャーナルOnline

長崎大学原爆後障害医療研究所の七條和子助教、長崎大学環境科学部の高辻俊宏教授らの研究グループは、1945年8月9日の長崎原爆投下により爆心地から1キロ以内で被爆して死亡した被害者のサンプルから、プルトニウムの内部被ばくがあることを世界で初めて発見した。爆心地付近では強烈な上昇気流のため、プルトニウムが存在しないとこれまで考えられていただけに、注目を集めそうだ。  長崎大学によると、研究グループは1973年に米国陸軍病理研究所から返還され、長崎大学原爆後障害医療研究所に保管されている650例の臓器に対し、プルトニウム放射能濃度とプルトニウムから放出されるアルファ粒子のエネルギーから吸収線量率を調べたところ、爆心地から1キロ以内で被爆した7例にプルトニウムによる内部被ばくを見つけた。 骨髄組織の平均的な内部被ばく量が最も高かったのは、爆心地から500メートルの屋外で被爆し、68日後に死亡した女性の骨髄で0.104ミリグレイ。被爆時に体外から浴びたガンマ線や中性子線による外部被ばく線量は推定83グレイもあり、研究グループは内部被ばく量が低い値で、それ自体が人体に大きく影響するものではないとしている。 ただ、アルファ粒子が当たった肝細胞の核では1.29グレイ、血管内皮細胞核では3.35グレイと局所的に高線量を示した。 (略) 論文情報:【Heliyon】Autoradiographic analysis of internal plutonium radiation exposure in Nagasaki atomic bomb victims 全文は爆心地被爆者もプルトニウムで内部被ばく、長崎大学が発見 

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マンハッタン計画 75年後の核超大国 <2> 原爆展の行方 via 中国新聞

歴史博物館 開催を模索   廃絶の訴え 展示巡り火種 むき出しの岩肌が延々と続く台地を登り切ると突然、視界が開けて街並みが始まる。原爆開発の地、ニューメキシコ州ロスアラモス。その一角に立つ小さな平屋の建物は、マンハッタン計画を率いたレスリー・グローブス将軍の滞在先だったという。現在は地域の歴史博物館になっている。  先住民の土地だった時代をはじめとする地域史を紹介する。原爆開発と被害について触れながら、「科学者は自らの仕事の利用のされ方にどんな責任を持つか」と見学者に問うコーナーもあった。「複雑な歴史を巡る多様な視点を提示する」場という。  この博物館を巡って今年2月、被爆地にさざ波が立った。広島、長崎両市が原爆展を開く計画を進め始めたが、共催者となる博物館側から「2019年の開催はない」と連絡が届いた。  開発の「本丸」 米国、特に原爆開発の「本丸」ゆえのハードルは低くない。ただ「中止」ではないのは確かなようだ。「数カ月以内にはニューメキシコ州での開催について何らかの発表をしたい。目標は早くて21年」とマクリナンさん。展示スペースの関係で、会場はロスアラモスの外になる可能性があると示唆する。  その場合でも被爆地として譲れない核兵器廃絶の訴えを、どう扱うのか。マクリナンさんは「核弾頭の解体方法などの具体策も提示しなければ、『夢物語だ』として納得されない」と断言する。「ロスアラモスが被爆地の声に耳を傾けるのと同じように、被爆地もロスアラモスに歩み寄ってほしい。戦争に勝つため自分たちなりの役割を担ったと考えている人たちであり、モンスターではない」  原爆資料館は、どの国であっても開催で合意すれば連携できるとの姿勢だが、原爆展と並行した別の展示が米側によって準備される可能性すらある。  前博物館長は中国新聞の取材依頼に「既に語る立場にはない」と返答した。ただ最近、被爆2世を含めた日米の有志に呼び掛けて市民団体を発足させた。草の根の歴史対話を続けるという。団体のホームページには原爆投下時の米大統領の孫で、被爆者との交流を続けるクリフトン・トルーマン・ダニエルさんの言葉を引用していた。  「広島と長崎の人々の苦しみと、第2次世界大戦の中で救われた命」。どう読み取ればいいのか。原爆観の溝を埋めるのは、時間のかかる作業である。(金崎由美)  […]         全文

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マンハッタン計画 75年後の核超大国 <5> 知られざる拠点 via 中国新聞

廃棄物 今なお住民苦悩   核時代の始まり 本質問う 米ミズーリ州セントルイス市の中心部から西に約30キロ。ブリッジトンという町の緑豊かな丘を下りると、異様な光景が現れた。  廃棄物処分場の全面が緑のシートに覆われ、あちこちで「プシュ、プシュ」と音がする。丘の上に住むロビン・デイリーさん(63)は「廃棄物が地下で高温になり、くすぶっている。ガスが出て臭いもする」と怒りをあらわにした。  住民たちは「火災」と呼び、「延焼」への恐怖も口にする。米環境保護庁によると「原爆開発のマンハッタン計画で出た硫酸バリウムに土壌を混ぜた計4万3千トンなどがある」というウエストレイク埋め立て処分場が隣り合っているからだ。  セントルイスでは1942年に市中心部の工場でウラン精製が始まり、オークリッジのウラン濃縮施設とハンフォードのプルトニウム製造施設に原爆の材料を供給した。戦後は廃棄物が国際空港の近くに野積みされるなどして、土壌と水源が汚染される。さらに廃棄物の一部が73年、この処分場に移された。民間委託だったことが、管理のずさんさや責任の所在のあいまいさを招いたと言われる。  「開発の代償」 デイリーさんは自ら専門家に頼んで自宅を検査。微量のトリウム230が検出され、核鑑識で「原爆由来」とされた。自宅買い取りを求めて運営会社と係争中だ。「ついのすみかが…」。とうに怒りを通り越した。ただ処分場の現在の運営会社や行政は、放射性物質は外部に漏れていないと説明。「がん多発」を訴える住民と対立する。  「米国では輝かしい研究拠点ばかりに光を当てるが、原爆は私たち米国民も苦しめ続けている」とカレン・ニッケルさん(54)。幼い頃、廃棄物が置かれた空港周辺で遊んだ。いまはウェストレイクの近郊に住み、自己免疫疾患に苦しみながら廃棄物の撤去や健康被害の補償を求める。活動仲間のドーン・チャップマンさん(38)は「長期の低線量被曝(ひばく)という米国の核開発の代償を認めれば、被害者の規模で収拾がつかなくなると政府は知っている」と声を振り絞った。  行事に抗議も セントルイスで精製されたウランは原爆開発の道を決定付けたという重要な意味を持つ。まず42年12月にシカゴ大で使われ、エンリコ・フェルミの研究チームが制御された核分裂反応実験に初成功した。  そのシカゴ大では昨年12月、75周年を記念する行事があった。空にきのこ雲を発生させるアートが披露され、歓喜の声が上がったという。しかし同大3年のインディア・ウェストンさん(21)は友人とダイ・インをした。「きのこ雲の上ではなく下の被害者に目線を」という無言の抗議だった。  授業を通じて核問題に関心を持ったのがきっかけだったという。その中でセントルイスの現状も知る。軍事用、民生用を問わず、直面する被曝の問題。ウラン採掘や核実験で先住民が被害を受けるなど、差別的な社会構造と表裏一体である事実―。核の本質に気付かされた。  若者の言葉を聞いて思った。「核時代の出発点」としてのマンハッタン計画の意味と、より広い視野で向き合うべきは、むしろヒロシマとナガサキなのではないか、と。  ウェストンさんは7月末に被爆地入りした。広島市立大の集中講座「ヒロシマと平和」を受けるために。新たな学びがもたらすものは大きいはずだ。(金崎由美)=おわり  […]     全文

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(悩みのるつぼ)「原爆の街」に住むのが不安という女性 via 朝日新聞

(悩みのるつぼ)相談者 30代女性  30代後半の女性です。可能でしたら、美輪さんにアドバイスを頂きたい相談があります。 私は小学生の頃、原爆をテーマにした漫画「はだしのゲン」を読んで以来、広島に対して「怖い場所」というイメージを抱いており、考え出すと夜も眠れません。広島在住の方には大変申し訳ないのですが、以前は「一生広島を訪れることはないだろうな」と思っていました。 しかし、縁あって数年前に結婚した相手は、広島出身の同年代。2人の子供にも恵まれました。夫の実家に帰省する際は、いつも「瀬戸内地方のいい街だな」と感じています。 (略) 一時的に帰省するのと永住とでは大違い。私はとても不安に思っています。広島に対するイメージを拭えないまま引っ越し、現地で生活していけるのか、ストレスにならないか……。夫にも打ち明けたところ「今は平和だし安全。全然怖いところなんかじゃないから安心しなよ」と言われますが、私はまだ心のどこかでモヤモヤしています。 前向きに暮らしてゆくには、どうすればいいでしょうか。 回答者 歌手・俳優、美輪明宏さん この相談者の方は、広島に対する先入観がこびりついているようですね。まず、なぜ怖いのか。おばけなんて出ません。何が怖いのかというと、戦争ですよね。戦争が怖いのは、当たり前です。 広島だけでなく、あの戦争では日本中が焼け野原にされました。今ではまるで戦争がなかったかのような街並みですが、東京や横浜、大阪の大空襲後の写真をご覧になって惨状を実感して下さい。 私も長崎で原爆を体験しました。長崎は山や丘が爆風などから人々を守った分、広島の方が被害が大きかったのですが、要はあの戦争では、日本中が灰にされたのです。「怖い」というなら、あなたが今まで住んできた街だって同じではないですか。 そもそも、なぜ戦争が起きるのか。今の子供や若い人は、日本のひどい歴史や悲惨な過去を、あまりにも知らなさすぎです。親から「子供たちに残酷な話をするな」と苦情がくるのが面倒で、学校で先生が教えていないのでは? まずは、教育委員会の人や教師たちを教育し直さないといけないのではないかと思うほどです。相談者の方も、戦争の経緯や被害に目を背けず、もっと知るべきです。 原爆ドームは戦争反対のシンボルで世界遺産。怖いどころか誇るべきであり、そんな場所の近くに住めるだなんて本当にうらやましいことです。お子さんの教育にももってこいで、いいことしかありません。同じ世界遺産の宮島(厳島神社)も、大変美しい場所です。 全文は(悩みのるつぼ)「原爆の街」に住むのが不安という女性   

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核兵器、原発なくそう 市民有志が路上ライブ JR船橋駅南口 via 東京新聞

 「今日は特別な日。世界で初めて、原爆が投下されたんです」。マイクを通しての呼びかけに続き、軽快な音楽が響いた。被爆から七十三年となった広島の「原爆の日」の六日夕、船橋市のJR船橋駅南口に登場したのは「ロックマくんバンド」のメンバーら。歌やハンドマイクで「核兵器や原発をなくそう」「戦争のない世界に」と通行人に訴えた。 (保母哲)  「原発にロックを、鍵をかけたい」との思いから生まれたのが、ロックマくんバンド。クマのロックマくんは普段、船橋の森にいるけど、原発を止めるために街にやってきた-として、有志で活動する市民団体「脱原発船橋(仮)」のメンバーらで結成した。  この市民団体が活動を始めたのは二〇一二年六月。地元選出の野田佳彦首相(当時)に「原発のストップを」と求め、デモ行進したのがきっかけだった。デモ後に「脱原発船橋(仮)」を発足させ、一四年からは毎月六日を「原発ロック、戦争ロックのアクション」と銘打ち、夕方にJR船橋駅南口で路上ライブを繰り広げている。 (略) 六日に参加したのは十人余。ギターやキーボード、アンデス、パーカッション、太鼓などに合わせ、「金儲(かねもう)けの 原子力村 電力が足りないなんて 嘘(うそ)はバレてる」というフレーズの「原発はいらない」などを、一時間にわたって演奏した。  オリジナル曲を作詞・作曲したのは、メンバーのかしわさん(39)=ペンネーム。「学生時代にバンドをやっていた」というかしわさんは、「僕の思いを伝える方法として曲を作った」と話し、今年五月には新曲「核のない世界」も作詞・作曲している。  演奏の合間に参加者は、交代でマイクを握った。広島の平和記念式典後に安倍晋三首相が核兵器禁止条約に参加しないと明言したことから、「日本は唯一の被爆国なのに、不参加はおかしい」と非難。「福島原発のような惨劇を、二度と起こしてはいけない」「皆さん、一緒に声を上げよう」と呼びかけた。 全文は 核兵器、原発なくそう 市民有志が路上ライブ JR船橋駅南口 

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「核の悲惨伝える責任」=反原発訴訟原告の被爆者-妹の死が転機に via niftyニュース

広島地裁では、四国電力伊方原発(愛媛県)再稼働差し止め訴訟の審理が続いている。原告のうち42人は広島、長崎の被爆者だ。原告団長の堀江壮さん(77)=広島市=と副団長の伊藤正雄さん(77)=同=は「核の後遺症はいつまでも残る」と語り、悲惨さを知る被爆者が行動することは「将来への責任」と訴える。 73年前、堀江さんは爆心地から約3キロの場所で被爆。母と姉、兄はいずれもがんで死去した。爆心地にいた伊藤さんの兄は全身を大やけどして亡くなり、姉は遺骨すら見つからなかった。4歳だった堀江さんと伊藤さんの記憶には、おびただしい数の遺体を荼毘(だび)に付す臭いが焼き付いている。 「原発はやめるべきだ」。伊藤さんが反原発運動に本腰を入れるようになったのは、東京電力福島第1原発事故が起きた直後の2011年3月15日に、1歳年下の妹が亡くなってから。「両親や兄、姉より妹の時の方がショックだった」と振り返る。 妹は甲状腺障害があり、息子も甲状腺の手術を受けたことを、「自分が被爆者だからがんが出たんでなかろうか」と死の間際まで気に掛けていた。伊藤さんは、核の平和利用をうたう原発を肯定していたが、妹の死で考えを変えたという。[…] 広島高裁は17年12月、訴訟と別の仮処分申請で、伊方3号機の運転差し止めを命じた。四国電は異議を申し立て、審理は継続中。堀江さんは「後の世代のためにやっとかなきゃ。何もやらんかったらまずい。いや応なしに負の遺産を背負わせている」と語った。 【時事通信社】       全文

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「核の悲惨伝える責任」=反原発訴訟原告の被爆者-妹の死が転機に via Jiji.com

広島地裁では、四国電力伊方原発(愛媛県)再稼働差し止め訴訟の審理が続いている。原告のうち42人は広島、長崎の被爆者だ。原告団長の堀江壮さん(77)=広島市=と副団長の伊藤正雄さん(77)=同=は「核の後遺症はいつまでも残る」と語り、悲惨さを知る被爆者が行動することは「将来への責任」と訴える。 73年前、堀江さんは爆心地から約3キロの場所で被爆。母と姉、兄はいずれもがんで死去した。爆心地にいた伊藤さんの兄は全身を大やけどして亡くなり、姉は遺骨すら見つからなかった。4歳だった堀江さんと伊藤さんの記憶には、おびただしい数の遺体を荼毘(だび)に付す臭いが焼き付いている。 「原発はやめるべきだ」。伊藤さんが反原発運動に本腰を入れるようになったのは、東京電力福島第1原発事故が起きた直後の2011年3月15日に、1歳年下の妹が亡くなってから。「両親や兄、姉より妹の時の方がショックだった」と振り返る。 妹は甲状腺障害があり、息子も甲状腺の手術を受けたことを、「自分が被爆者だからがんが出たんでなかろうか」と死の間際まで気に掛けていた。伊藤さんは、核の平和利用をうたう原発を肯定していたが、妹の死で考えを変えたという。 (略) 広島高裁は17年12月、訴訟と別の仮処分申請で、伊方3号機の運転差し止めを命じた。四国電は異議を申し立て、審理は継続中。堀江さんは「後の世代のためにやっとかなきゃ。何もやらんかったらまずい。いや応なしに負の遺産を背負わせている」と語った。(2018/08/05-15:00) 全文は「核の悲惨伝える責任」=反原発訴訟原告の被爆者-妹の死が転機に

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「唯一の被爆国民」じゃなかった日本人! 8.6から3.11を見通す核の戦後史 via J-Cast

書名被爆者はなぜ待てないか サブタイトル核/原子力の戦後史 監修・編集・著者名奥田 博子 著 出版社名慶應義塾大学出版会 出版年月日2015年6月30日[…] 地に足のついた研究姿勢がにじむ  奥田さんは、関東学院大学人間環境学部の准教授。内外の膨大な資料や証言集、写真集に目を通し、ジグソーパズルを埋めるように戦後の史実を積み重ねていくパワーに驚かされる。参考文献の列記だけで実に15ページ。この真摯さはどこから生まれるのだろう。プロローグに「個人的な原点」が記されていた。  「年に一度しか会えない祖父母と過ごしたとても懐かしい『夏休みの思い出』の一コマ一コマから構成される、私のなかにしかない広島がある」。幼い頃の心象風景、聞かされた戦争の昔話が、原爆の記憶を探求するにつれて「歴史」に結びついていったという。地に足のついた研究姿勢がにじむ。  被爆65年に刊行した前著『原爆の記憶 ヒロシマ/ナガサキの思想』(同)では、政府が語る「唯一の被爆国民」という言葉にこだわる。日本の戦争被害者意識を正当化し、「敗戦国としての清算」より「戦後の経済成長」に力を向けるために創られた神話に過ぎない、と指摘した。事実、広島と長崎で被爆した人々の国籍は21カ国に及び、原爆の製造、開発、実験に動員された労働者、兵士や周辺住民らもまた被爆者だという。 なぜ、「放射能汚染加害国」に劣化したのか  被爆70年に刊行された本書は、前著の刊行翌年に起きた東京電力福島第一原発事故を強く意識する。「原子力の安全神話」が崩れ、日本に再び被曝者が生み出された。しかも、その責任の所在は大戦の時と同じように不明確なままだ。「『唯一の被爆国』日本は、なぜ、『放射能汚染加害国』に劣化したのか」。この問題意識が全体を貫いている。  その契機の一つとして、著者は、1954年のビキニ水爆実験で被爆した漁船をめぐる日米交渉を挙げる。被爆した船は、実際は800隻以上、被爆者は2万人以上とみられるが、日米政府は第5福竜丸1隻、その乗組員23人に対する見舞金支払で政治決着した。背景として、日本政府がこの事件を「アメリカから核燃料と原子力技術を導入する取引材料にしようとしていた」点を指摘する。その後、日本は東西冷戦の中で、アメリカの「核の傘」に依存した平和と、アメリカの「原子力産業」に依存した繁栄を享受する道を進んできた、と分析している。  一方、ビキニ水爆被災事件で注目された「死の灰」を機に原水爆禁止運動が広がるが、内部の路線対立で3つに分裂してしまう経緯や、米英ソが1963年、地下を除く「部分的核実験禁止条約」に調印したことで世界規模の反核平和運動は力を失い、日本では「原子力の平和利用」というアメリカのスローガンが力を得ていく経緯を詳述していく。 […]   全文

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