「原発事故は町を歴史ごと切り取った」避難先で妻が鬱に、変わり果てた自宅…避難者たちの想いと決意 via Abema Tims (YAHOO!JAPANニュース)

しかし、現在も約3万6000人が避難生活を余儀なくされている現実を忘れてはならない。帰りたくても帰れない人、帰らないと決めた人、故郷に帰る人。彼らはこの10年で何を思い、どんな道を歩んできたのだろうか。

「もう二度と戻れないかなって思った」  浪江町出身の堀川文夫さんは、地域に根付いた塾を営み、子供たちには日ごろから原発の危険性を伝えていた。

[…]

「よそ者だから。仕事もしないで、ぶらぶらしているように周りから見られているような目がなんとなく痛くて。妻が鬱になった」  故郷を追いやられた悲しみ。何十年も積み上げてきた信頼や人間関係の喪失。堀川さんの心も次第に荒んでいった。  浪江の自宅に一時帰宅した際、堀川さんは変わり果てた家の様子をカメラに収めていた。 「3月11日のお昼ご飯の跡だ。猫の足跡がいっぱい。動物の入った跡がいっぱいある。壁は亀裂が入っている。これが我が家だ。もう二度と帰れないでしょう」 「自分の人生であり、両親の人生であり、祖父母の人生。私たちの長い歴史があそこにあった。その歴史ごと切り取られたのが原発事故だった。人間の生死という重い問題はあるが、津波だけだったら私たちの歴史が切り取られることはなかった。そういう怒りもあるし、悔しさから何から何まで……」  避難先で思い出すのは、幸せだった故郷の暮らしと子供たちの笑顔だ。もう二度とあの生活には戻れない。堀川さんは深い失意に苛まれていた。そんなある日一筋の光をもたらすきっかけが訪れた。塾に避難した教え子の一言だった。 「神奈川県に避難した子供の一人がこう言った。『先生、俺にとって震災は悪いことばかりじゃなかったよ。これがあったから会えない人と会えた。これがあったからできないことが経験できた。だから俺にとって悪いことばかりじゃなかった』と。それに私はガーンと頭を叩かれたように思えた。『お前、いつまで引きこもってるんだよ』みたいに。子供たちは4月から新しい生活を始めなきゃならなかったじゃないか。『何やってんだよ』と言われたように思えた。そこから一気に動き出せた」

[…]

堀川さんは「自分がどのような人生を浪江で歩んできたか。新しい地区の人たちにもわかってもらおうと必死でやった」と話す。その思いは次第に地域の信頼へと変わり、そして富士市に新たな塾を設立した。  避難先で自分の居場所を見つけた堀川さん。しかし、それでも生まれ育った故郷を忘れることはないという。 「避難先に根を下ろせば下ろすほど浪江との縁が薄れていく寂しさはある。故郷ですから」  堀川さんに「10年経つが今も避難している感覚なのか」と聞くと「そうだ。みんな帰りたいと思っている。帰らない選択をした人も、帰れないと思っている人も帰った人もみんな帰りたいと思っている。それだけは間違いないと思う」と答えた。

[…]

全文

This entry was posted in *日本語 and tagged , , . Bookmark the permalink.

Leave a Reply