「この花、触っていい?」 福島の子に揺さぶられた心 via 朝日新聞

 札幌市議を3期務めた山口たかさん(71)が、「福島の子どもたちを守る会・北海道」を仲間たちと設立したのは、震災から3カ月後の2011年6月11日だった。「福島」にこだわったのには理由がある。

 1980年代、高レベル放射性廃棄物処分場や原発の反対運動に参加した。折しもチェルノブイリ原発の事故が起き、反原発のうねりは一時的に高まったが、心のどこかで思っていた。日本では、こんなひどい事故は起きないだろう、と。

 震災直後、札幌で市民運動に関わる人たちで被災地支援について話し合ったが、原発事故については原発の是非も絡むため、タブーのような雰囲気だった。「それなら逆にやらなきゃ。大事故はないと思っていたことへの贖罪(しょくざい)の意味もありました」

自身を含め、女性4人が活動の中心になった。元国連職員の泉かおりさん、福島県天栄村から避難してきた元養護教諭の矢内幸子さんと、娘の怜さん。放射線量が高く外で遊べない福島の子どもたちに、北海道で伸び伸び過ごしてもらおうと、夏休みに親子の「サマーキャンプ」を計画した。

 初回のキャンプには約40人が参加。草原や花畑を駆け回る子たちが、お母さんに尋ねるのを聞いた。「この花、触っていい?」「この草は大丈夫?」。だめだめ、と言われ続けてきたのだろう。戻ればまた、花に触れることもかなわない日常が待っている――。山口さんは、心を揺さぶられる思いだった。

 その後、夏と春の年2回、期間を決めて親子を受け入れ、寝食を共にする自分たちの活動を「保養」と呼ぶようになった。夏は海水浴、春は雪遊びやスキーが人気のプログラムだ。

 震災翌年、会の仲間と訪れたドイツで、チェルノブイリの子たちを招く活動を続ける女性グループと会った。そこで教わったのが、被災者の選択肢は「地元に残るか、避難か」だけでなく、保養が第3の道になり得るということだった。

 14年には札幌市南区に空き家を借り、自前の保養施設「かおりの郷(さと)」を設けた。前年春に志半ばで亡くなった、泉かおりさんの名前をもらった。

 福島市の高校生、渋谷睦月(むつき)さん(17)は、小学3年生の時から何度も保養に参加したひとり。「ボランティアの皆さんが家族のように接してくれた」。一緒に参加した小さな子と過ごしたことがきっかけで、保育士が将来の目標になった。

 ただ、山口さんのもとには、「年がたつほど、地元で原発や放射能のことを話題にしにくくなった」との母親たちの声も届く。安全に対する考え方の違いから、被災者が分断されることを心配する。

 延べ800人以上を受け入れてきた保養のニーズは、今も根強い。会はNPO法人となり、山口さんは理事長を担う。「10年が区切りと思ってきたが、復興は道半ば。もうちょっと頑張りたい」

取材後記 様々な選択 尊重される社会を

 「縮む福島」という見出しの記事が、震災の約4カ月後、朝日新聞1面に載った。県外避難が止まらないことなどを伝える記事の見出しは、当時の福島の実情を的確に言い表していたと思う。

 私は福島から何を伝えるかを記者と話し合い、方向性を決めるデスクとして、縮む福島で暮らし続ける人々の声を届けたいと取り組んだ。県外避難はもちろん自由だが、さまざまな事情で避難できない人、自らの意思でとどまる人がいたからだ。地元民として耳を澄ますと、放射線の危険を訴える「反原発」の主張が、「嫌福島」に聞こえてしまうことがつらかった。

 今回の取材で「守る会」の思いやりへの感謝を、何人もの保護者から聞いた。受け入れ、受け入れられ、心を通わせ合う営みは、どんな選択も尊重される社会につながると信じる。(片山健志)

原文

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