二つの国策、幸せ奪った 福島の89歳女性「繰り返さないで」via 中日新聞

東京電力福島第一原発事故でふるさとを追われた避難者の中には、戦前から戦中にかけて旧満州に渡り、終戦後に壮絶な経験をした人たちがいる。満蒙(まんもう)開拓団と原発。福島市の岸チヨさん(89)は二つの国策に翻弄(ほんろう)され、穏やかな暮らしを奪われた。

「おまえたちの最後を見届けて、俺は手りゅう弾で自決する」。一九四五年九月五日早朝の旧満州・下学田開拓団。ソ連軍が進駐してくるという話が広まり、父は家族全員に毒薬を飲むよう告げた。岸さん一家九人は福島県上川崎村(現二本松市)から四二年三月に現在の中国黒竜江省に入植したが、終戦で暮らしは一変した。

十五歳だった岸さんは友人に最後の別れを告げようと自宅を抜け出した。すると集落のあちこちから「この薬ではすぐに死ねないぞ」という声が聞こえてきた。軍が集落に同じ毒薬を配っていたようだった。急いで自宅に戻ると家族は既に毒薬を飲み、嘔吐(おうと)を繰り返していた。

必死に解毒剤を飲ませて看病した。だが、母だけはそれを拒み、小さな声で言った。「親不孝者…」。十五日間苦しんだ末、一筋の涙を流して亡くなった。姉は知人の家で睡眠薬を飲み、火を放って自死。一歳のめいは足手まといとならないよう、父に首を絞められて殺された。

岸さんら生き残った開拓団員は入植地を追われ、大陸を逃げ惑った。「熱病がまん延し、毎日のようにおじさんやおばさんが死んでいきました。寒さでカチンコチンに凍った赤ちゃんの遺体を抱きしめ、泣き叫ぶお母さんも見ました。でも、それが当たり前の光景。涙も出ない。戦争は人間を人間でなくしてしまったんです」。中国東北部沿岸の港へたどり着き、四六年九月、引き揚げ船で日本へ帰還した。

一家が再起を懸けてほかの元開拓団員らと入植したのが福島県津島村(現浪江町)だった。電気も水道もない山林地帯に小屋を建て、田畑を切り開いた。やがて岸さんは結婚。二女に恵まれ、町内で幸せな余生を送るはずだった。

二〇一一年三月十一日。東日本大震災で福島第一原発を津波が襲う。浪江町には避難指示が出された。親戚宅や旅館を転々とした後、約五年間仮設住宅で暮らし、一七年春に福島市内の長女夫婦宅へ移った。


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