三重)芦浜原発計画、止めた民意 平成、その先へ via 朝日新聞

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「白紙に戻すべきであると考えます」

ログイン前の続き当時の北川正恭知事が宣言すると、傍聴席は大歓声に包まれた。北川知事は「地元住民は長年にわたって苦しみ、日常生活にも大きな影響を受けている」と続け、声を詰まらせた。

2000(平成12)年2月22日、旧南島町(現南伊勢町)と旧紀勢町(現大紀町)にまたがる静かな入り江を舞台にした、中部電力の芦浜原子力発電所の建設計画が、民意によって中止になった歴史的な瞬間だった。

1983年から反対運動に身を投じ、傍聴席に居合わせた元高校教員の柴原洋一さん(65)は、この日のことを鮮明に覚えている。「民意が勝ったのだけれども、裏切られるのではと半信半疑でした」

63年11月に芦浜原発の計画が持ち上がると、旧紀勢町は推進の動きを見せたが、旧南島町は七つあった漁協を中心に反対の立場をとった。計画を進ませまいと、反対派は「実力行使」に出ることもあった。

66年9月には、視察に訪れた中曽根康弘氏ら超党派の国会議員団を乗せた船を、旧南島町の古和浦(こわうら)漁協の漁師たちが漁船で取り囲む。この実力行使は後に「長島事件」と呼ばれ、30人の漁師が県警に逮捕され、25人が起訴された。

柴原さんは「反対派の急先鋒(きゅうせんぽう)だった古和浦漁協を中部電力は取り込もうと考えたのだろう」。中部電の社員は次々と漁師を説得、懐柔し、いつしか古和浦漁協は推進の立場に変わっていった。古和浦漁協が原発立地の前提となる海洋調査を受け入れようとした94年12月、住民たちは再び実力行使に出る。

調査の受け入れを協議する会議を阻止するため、漁協の前を約2千人の住民が取り囲んだ。会議は開かれず、調査は立ち消えに。隣の集落にある方座浦(ほうざうら)漁協の漁師で、3500人規模の反対デモを成功させたことがある中村和人さん(59)は、「海を守るという使命感に満ちた俺たちには、絶対に負けまいという気概があった」と振り返る。

今の芦浜はどうなっているのか。昨年12月初旬、柴原さんとともに訪れてみた。

大紀町の錦漁港近くから狭い山道を歩くこと1時間半、今も中部電が現地を所有していることを示す看板が現れる。その先から30分かけて急斜面を下ると、原発の建設が予定されていた静かな入り江に出た。

ウミガメが産卵に訪れる美しい入り江の奥には、天然のシジミが取れる汽水池もある。「次世代に引き継ぐ必要がある手つかずの自然」と話す柴原さんが何度も訪れた場所だ。

時代の流れを痛感させる出来事もあった。

錦漁港近くに、96年に建てられた中部電の「錦独身寮」が昨年10月、解体工事に入った。周辺の漁協などを回り、原発計画の理解を得るため汗を流した「立地交渉員」と呼ばれた社員たちが暮らしていた寮は更地になり、その後の利用方法は決まっていないという。

旧南島町の3カ所には「芦浜原発を止めたまち」と刻まれた石碑が残る。ただ、東京電力福島第一原発が未曽有の事故を起こした東日本大震災以降も、各地で原発は稼働している。

柴原さんと中村さんは強調する。「芦浜では民意が勝ったが、この国に原発がある限り、原発は不要だという民意を示し続けなければならない」

芦浜原発計画 1963年11月、中部電力三重県熊野灘への原子力発電所建設計画を打ち出し、64年7月に旧南島町と旧紀勢町にまたがる入り江を候補地として決定。67年9月に田中覚知事が中部電に建設中止を申し入れたことでいったんは頓挫したが、84年2月に田川亮三知事が原発関連予算を計上したことで再燃。南島町を中心に反対運動が盛り上がり、約81万人の反対署名が集まった。2000年2月に北川正恭知事が白紙撤回を宣言し、中部電は計画を断念した。(肩書はいずれも当時)

原子力の使い方 議論を

津総局に勤務していた2012年、三重県にゆかりのある小説の舞台を紹介する連載をした時、芦浜原発の反対運動にヒントを得て小説を書いた今野敏さんに話を聞いた。今野さんは「札束攻勢」や「暴力」など、原発立地の背後にある様々な「嫌らしさ」を早い時期から見破っていた。

天然資源が乏しい日本で、科学技術の発展という観点から、原子力を平和的に利用する方法を研究するのは賛成だ。ただ、これだけ自然災害が多い日本で、未曽有の事故を引き起こす危険性のある原子力の使い方は議論する必要がある。(安田琢典)

 

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