原発事故でリヤカーハウス暮らしに…ベテラン溶接工の「震災後」via WithNews

岩崎 賢一 朝日新聞記者

「仮設住宅は去年10月に閉鎖されましたが、私はその1カ月前に仮設住宅から追い出され、行くあてがないので致し方なく自作でリヤカーハウスを製作し、車中泊をしています」。福島第一原子力発電所の事故から7年が経とうとしていた3月上旬、こう書かれたメールが投書欄の窓口に届きました。iPadから送られたメールには写真が添付されていました。メールの送り主の人生を知りたくなり、福島県を訪ねました。

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作ってみたら人力での移動困難だった

 自称リヤカーハウスは、月極め駐車場の乗用車の停車スペースにきっちり収まる、小さな車輪4つを備えた倉庫のようなたたずまいでした。大きさは幅1320ミリ、長さ2320ミリ、高さ2070ミリ。

「鋼材買って、切ったり溶接したりする道具はリースをして……。タイヤ1個2万円しました。1個200キロまで大丈夫だから800キロ近くまで載せられますよ」

角パイプで骨組みを、住宅の外壁材として使われているサイディングボードで壁を作ったといいます。

「でもね、冬、結露がひどくてね。結局、キャンプで使う銀色の防寒シートを張りました」

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ドアにはレースカーテン、左右の内壁には日用生活必需品がぎっしりぶら下がっていました。上部の四隅には通気口があります。暖房や電気はありませんが、高反発のウレタンマットや羽毛ふとんを積んでいました。

リヤカーハウスというだけに、人力で引けると思われるかもしれませんが、私が前後に動かそうとしてもびくともしません。

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川上さんは2011年3月11日、福島第一原発の構内で、溶接の仕事をしていて被災していました。

福島第一原発で作業中に3.11

 「あの日はね、福島第一原発の地下にある配管を支えるための溶接工事をトンネルのようなところでしていたんですよ」

あの日の午後は、放射線が高い場所での作業に備え、プレハブの事務所で放射線管理の教育を1時間ほど受けていたそうです。その後、バスで構内を移動し、再び作業現場近くに着いた時、激しい揺れに襲われました。

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「もし原発なら30キロ圏内はダメだな」

その後は、車で葛尾村の知人の親戚宅、そこでもサイレンがなると福島市内のあずま総合体育館といったように、避難先を転々としました。

今も大切に保管している被災証明書と罹災証明書の現住所欄を見せてもらうと、浪江町の知人宅の住所が書かれ、馬場有町長の公印が押されていました

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「仕事ありますか」

仕事は数日後見つかりました。福島第一原発でした。

放射線管理手帳の記録には、5月3日から福島第一原発で作業をしていたことが記されていました。お盆休みの後は、敦賀の原発へ出稼ぎに出ました。

東電からの賠償金は、震災後まもなく仕事を再開し、また川上さん自身が所有する土地建物がなかったため、1年間で134万円ほどだったそうです。

浪江町から仮設住宅に入れるという連絡を受け、住居はなんとか確保できましたが、1年が過ぎると、出稼ぎの仕事で声がかかる数が大きく減りました。

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「いわき市の小名浜で育ちましたが、おやじが飲んで暴れてね。19歳のとき、家出をして沖縄に行きました。ホテルのウェイターや鉄工所のアルバイトをして暮れしていました。食うのに困るため、溶接の技術がいかせる仕事が神奈川県や栃木県の自動車工場であると、期間工として出稼ぎをしていました。30代半ば、沖縄の居酒屋でホール主任をしたこともありました。ただ、もの作りが好きでね。鉄工所の溶接の日雇いのアルバイトに戻りました」

年齢を重ね、40代後半になったある日、いわき市内で暮らす異父兄を訪ねたそうです。

「働くところがないんだ」(川上さん)

「それなら俺のところに来たら」(異父兄さん)

異父兄は、原子力発電所うや火力発電所、ボイラーなどの溶接の仕事に携わっていました。

「仕事がある時に呼ばれ、1~2カ月仕事をやって、その後3カ月仕事がないとか……」

敦賀原発や福島第一原発、東海第二原発といった原子力発電所の溶接現場を主に回ったといいます。2009年に知人の浪江町の家に引っ越すまでは、いわき市内から出稼ぎに出ていたそうです。

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今の生活は、2日に1回程度の割合で、1回100円の入浴施設に行って1日過ごし、他の日は公共施設のロビーで過ごしたり、タブレットが使える無料wifiがある商業施設で過ごしたりしているそうです。

食事は朝夕2回のカップ麺でしたが、最近はコンビニエンスストアでお弁当を買うこともあるそうです。寝る前にアイスクリームやプリンを食べるのを楽しみにしています。

「全国の発電所で溶接の仕事をしているという誇りは失っていない。そこまで自暴自棄にはなっていませんよ。次の仕事がまた来るんじゃないかなと思って過ごしています」

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川上さんのライフスタイルは、仕事の声がかかれば全国の工事現場に出稼ぎに出る、という形です。ただ、こういうライフスタイルは、公務員や一般の人たちにはなかなか理解されにくいのかもしれません。

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「電力は繁忙期があるので、その間の春と秋に集中するんです。その時しか、止められないから」

「溶接の仕事は天職だと思っていますよ。楽しいし、やりがいがあるので」

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