<原発避難 ふるさとを返して>(上)「今も帰りたい」募る思い 双葉町から避難の石川夫妻 via 東京新聞

二〇一一年三月の東京電力福島第一原発事故を受け、福島県双葉町から八千代市に避難している石川茂男さん(89)と、はきのさん(81)夫妻は、六年半に及ぶ避難生活で体調を崩し、将来への不安を抱えている。千葉地裁の原発避難者訴訟の原告として、国と東電に苦しみを訴えてきた夫妻は「事故で何もかも無くし、もう帰れない。東電や国はきちんと補償してほしい」と願っている。

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茂男さんは避難所で暮らす間に脱水症状になり、八千代市に移った後の約二カ月、入院した。退院後に持病のぜんそくが悪化。足も悪くなり、今は外出時に車いすを使う。要介護4と認定され、週に三回、介護施設のショートステイを利用。双葉町の自宅周辺は帰還困難区域だが「今も帰りたい」と漏らす。

 はきのさんは、茂男さんの食事の支度や介護をしている。約四年前から足のしびれがあり「脊柱管狭窄(きょうさく)症」と診断された。昨夏は下痢が続いて体重が七キロ減った。「知り合いもいなくて毎日、テレビとにらめっこ。これからどうなるかなって考え込んじゃう」。茂男さんと週に一度、介護施設にリハビリへ行き、利用者らと話して気持ちを明るくしようとしている。

 はきのさんは原発事故前、双葉町の自宅で生け花教室を開いていた。庭はユリやチューリップなど季節ごとに色とりどりの花が咲き、松の木もあった。多くの生徒が通い、近所の人もよく訪ねて来た。

 これまで三回ほど双葉町に一時帰宅した。玄関にあった花は枯れ果て、室内は家具が散乱し、ネズミに荒らされていた。自宅近くの墓に、約十三年前に病死した長男の遺骨を残しているのも気がかりだ。生け花教室の生徒や友人らも、各地に避難するなどして散りぢりに。電話で連絡を取り合える人はいるが、再会できた人は、少ない。

 はきのさんは約三年前に一時帰宅したのを最後に、体調不良などで双葉町には行くことができない。「双葉のことを忘れたことはなく、毎日、友だちを思い出す。会いたい」と涙を流す。大好きだった生け花は、今も手につかない。

 はきのさんは一五年一月の口頭弁論に出廷。「亡くした息子の供養も十分にできず、穏やかで暮らしやすかった街が荒れてしまい、つらい」と訴えた。四年半に及ぶ裁判を振り返り「長かった。いい結果が出ればいい」と話している。 (中山岳)

 

 

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