復興断絶 東日本大震災6年半 つながりたい/5止 避難者と本音出し合うvia 毎日新聞

福島県いわき市にある米穀店に、本や雑貨がひしめく8畳ほどの部屋がある。地域図書館「かべや文庫」。東京電力福島第1原発事故後、原発周辺から避難した人たちと、いわきの市民が交流する場となっている。

 約40年前、読書の趣味が高じて、店を夫と営む吉田まさ子さん(73)が始めた。地元の人が本を読んだり、世間話をしたりする場だったが、事故後、原発避難者も姿を見せるようになった。

 まれに避難者と市民が気持ちをぶつけ合うこともある。「原発事故で家に帰れず墓参りができない」「私だって津波で家を流された。大変なのはあなただけじゃない」

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 文庫でも、市民が集まると原発避難者への不満が出た。新居を津波で流された女性は残ったローンを支払いながら仮設住宅で暮らしているのに、近所には避難者が建てた立派な家がある。「避難者はずるい」と悔しさをにじませる女性に吉田さんも相づちを打った。

 一方、避難者は古里から引き離されたつらさを打ち明けた。70代の男性は親戚から倉庫を借りて暮らし、生きがいだった農作業ばかりか、土いじりができる庭もない。「早く古里に帰りたい」と漏らし、やがて姿を見せなくなった。後日、人づてに「ふさぎ込んでいる」と聞いた。避難者がしばしば口にする「好きで賠償をもらっているのではない」との言葉も理解できた。

 「悪いのは避難者でも市民でもない」。吉田さんは、いつしかそう考えるようになっていた。

     ◇

 全町避難が6年続いた富岡町から避難した掛田孝子さん(86)は文庫の常連だ。「ばあちゃん」と呼んでいた近所の友人と、家でお茶を楽しんでいるときに「賠償金もらってお金持ちでいいよね」と言われたという。

 「せっかく仲良くなった地元の人ともめたくない」。悔しさがこみ上げつつも、口をつぐんでいたが、顔を合わせるたび賠償金の話をされた。抱えた思いを伝えてみた。

 「富岡に帰れるのならそんなお金はいらない」

 事故の半年前、「ついの住み家」にしようと50年以上暮らした自宅をリフォームしたこと、その家が避難中にイノシシに荒らされて深く落ち込んだこと……。

 「大変だったのね。ごめん」

 テーブルで向き合って気持ちを伝えたあの日から「お金持ち」とは言われなくなった。市内の復興住宅に引っ越した今も、ばあちゃんの家のそばに行けば必ずお茶に誘う。「この人とならずっと一緒に居られる」。一歩踏み出したからこそ、分かり合える関係になれた。

 事故から6年半。いわきには約2万2000人の原発避難者が暮らすものの、市に寄せられる避難者への苦情は月1件ほどに減った。それでも吉田さんは両者の心に溝が残ると感じている。「遠慮していたら互いの気持ちは分からない。ときにはぶつかってもいい」。心をつなげる文庫でありたいと願う。【高井瞳】=おわり

 

 

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