福島の避難指示解除:「復興に向けた節目」には程遠い現実 via nippon.com

東京電力福島第1原発の周辺4町村で事故以来6年ぶりに避難指示が解除され、一部住民の帰還が始まった。しかし、医療サービスや雇用、環境面などさまざまな不安から「ふるさとに帰らない、帰れない」避難者も数多い。避難当初から地元の復興計画策定に携わってきた筆者は、帰還者と避難者の双方を支援する「複線型」の政策策定が必要だと指摘する。

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今回の避難解除地域にも、除染作業で出た汚染物質を詰めた膨大な量のフレコンバックが、あちこちにある仮置き場に置かれたままになっている。これらが計画中の「中間貯蔵施設」にいつ搬送されるのかも、いまだに見当がつかない。「避難指示解除」を発令した行政は、住民がこれらのフレコンバックの山と向き合いながら生活を始めることの不安を理解しているのだろうか。

福島第1原発から22㎞の距離にある広野町。原発災害後の地域の医療活動は、高野病院でただ1人の常勤医であった高野英男院長が支えていた。しかし、高野院長は16年暮れの火災で亡くなった。病院の存続が危ぶまれた2017年2~3月の2か月間は、東京都内で勤務医をしていた中山祐次郎医師が、常勤医として働くことになった。

彼は2カ月間の診療活動で実感したことを手記として発表(日経ビジネス・オンライン「医師が見た『福島のリアル』」2017年4月6日)。その中で、被災者が避難生活中に命を落とす「震災関連死」の原因として①家族の離別と地域コミュニティの喪失、②医療の連続性の途絶、③環境変化――の3つを挙げている。福島原発災害に起因する「関連死」は今も増え続けている。

「帰りたくても帰れない」:無念とあきらめ

佐々木ヤス子さんの手記

いまだ「帰還困難区域」とされている被災者の不安はさらに深い。浪江町の「帰還困難区域」から避難し、桑折町の仮設住宅に住んでいた佐々木ヤス子さんは、自分の被災体験を『おそろしい放射能の空の下』という90ページ余りの手記にまとめている。佐々木さんはこの中で、「この仮設住宅で死んでは駄目だ。東電(原発事故)の収束が叫ばれているが、私の人生の収束はここでは出来ないと強く思っている」「大震災以後、『がんばれ福島・がんばれ東北』と書かれているのを見ることが多い。しかし、私はどのように頑張ればいいのか、これ以上何を頑張るのか、分からない。教えてください、どうすればいいのですか」と書いている。

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帰還者と避難者、双方への支援が不可欠

「『避難指示解除』イコール『ふるさとへの帰還』」という単線型のシナリオでは、上記のような諸課題を解決する展望は開けない。行政は少なくともふるさとの復旧・復興のシナリオとともに、被災者の生活・生業などへの支援、また今後の見通しや被災者からの要望を丁寧に反映したプログラムを、被災者とともに描いていくべきである。

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