福島・浪江で家庭菜園、お裾分けする相手もいないvia 朝日新聞

日常の暮らしが消えてから6年余り。雲間から朝日が差した31日、避難指示が解除された福島県浪江町の中心街は、ひっそりと人の帰りを待っていた。

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浪江町は1956年、四つの町村が合併して生まれた。事故当時は人口約2万人を擁する双葉郡最大の町だった。太平洋に面した請戸漁港に、阿武隈山地の高瀬川渓谷、ショッピングモールに繁華街。活気に満ちた町に原発はなかった。

それが、原発事故によって全町民が避難を余儀なくされた。沿岸部の漁村は津波で壊滅。町中心部の避難指示は解除されたが、町面積の8割は放射線量の高い帰還困難区域となり、この日の解除後も原則として立ち入れない。

「解除だなんて、信じられっか。がらがらだ」。解除前日の30日、目抜き通りの「新町通り」に立った岸さんが言った。

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いま、通りに町民の姿はない。代わりに、「建物解体中」と書かれた青い旗が立つ。九州や四国の県外ナンバーを付けた大型ダンプカーが通りを行き交う。

JR常磐線の浪江駅は1日から運行が再開される。駅前から続く道には、地震で傷み、今にも崩れそうな商店が軒を連ねる。割れた窓、落ちた看板。6年間、時間が止まったままだ。

駅前には「飲み屋街」の看板を掲げるビルがあり、ラウンジやスナックなど16軒が店を構えていた。「この店でゴルフの打ち上げをやったな」「この店のうなぎがうまかったんだ」。岸さんが50年近く通った理容店は解体され、更地に雑草が生い茂っていた。かつては映画館「浪江座」があり、十日市の時にはサーカスがきた。

通りから一本、路地に入った。建物の解体が終わった更地が広がる。残る建物にも、軒先には除染廃棄物が入った黒い袋が置かれ、「こわす 解体」の赤い紙が貼られていた。

「ここら一帯がなくなるんだ」。町を全部作り直すしかない、と思う。

妻の信子さん(81)は、楽しみにしていた家庭菜園を再開した。採れた野菜は放射線量の検査にかける。大根や葉物から、数値は検出されていない。

夫婦2人では食べきれない。でも、お裾分けする相手もいない。「いいの。作るのが楽しみだから」。信子さんは笑う。

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