「あのとき、おなかに子供がいました」福島第一原発の女性オペレーターは、5年後も現場にいた。via Huffington Post

東日本大震災での事故から5年目を迎える東京電力福島第一原子力発電所。2014年6月から一部エリアに限って女性の就労が認められ、2016年3月現在、福島第一原発で働く1日約6500人のうち約40人が女性だ。

井手愛里さん(33)もその一人だ。原子炉運転オペレーターとして福島第一原発で10年以上のキャリアがあり、4歳と1歳の子を持つ母親でもある。

震災当日に発令された「原子力緊急事態宣言」が未だ解除されていない現場で、女性が働き続けることへの不安は、決して小さくないだろう。しかし、それでも、井出さんは現場に残ることを選んだ。その決断の理由とは? 2月下旬、福島第一原発で話を聞いた。

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同僚から「おなかに子供がいるんだから、先に逃げたら?心労とかはよくないだろうし」と声をかけられた。だが、やらなければいけない仕事は山ほどあ る。明かりもない真っ暗闇に、一人で避難するのも不安だった。しかし、妊婦の被ばく線量限度は、通常の放射線業務従事者の50分の1にあたる2ミリシーベ ルト(腹部)と定められていた。翌朝、救助に来た社員に連れられ、高台にある事務本館に避難した。

建屋の外は「足の踏み場もない」状態だった。「真っ直ぐだった道路も、うねっていて。今まで見た風景がガラリと変わってしまって、映画でも見ているような感じでした」。

12日午後、1号機が水素爆発した。緊急車両の配備や誘導などに携わり、構内に残っていた女性従業員も大勢いたが、全員退避を命じられ、3月23日以降は、福島第一原発における女性の就業が一時的に禁止された

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「すごい状態になっちゃったんだな」

井手さんが事故後の第一原発に戻ったのは、第2子の育休から戻った2015年4月だった。以来、福島第一原発で勤務している。就業場所は、1~6号機の原子炉建屋から1キロほど山側に新設された事務棟。この建物付近の放射線量は2015年4月1日の段階で、毎時1.085マイクロシーベルトだった。

復帰から2カ月後に、構内を見る許可が降りた。「本当にきれいになっていると実感した」。一方で、原子炉建屋を見たときの衝撃は忘れられないとも述べた。

「特に1〜4号の前をバスで通った時は、今まで見ていた風景とあまりにも違いすぎて…。すごい状態になっちゃったんだなと。1・2号の中央制御室にも入らせてもらったんですけれど、全然違っていて、ショックが大きかった」。

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今、井手さんのおなかには3人目の命が宿っている。しばらくは建屋には通えないが、産休までは引き続き事務棟で勤務するという。

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