「核に向き合うのは同じ」 被爆者ら30人があす福島訪問 via東京新聞

原爆投下から七十年を迎え、東京在住の被爆者ら約三十人が二十一~二十二日、福島県を訪れ、東京電力福島第一原発事故の被災者と交流する。参加者は「原爆と原発は違うが、核の問題に向き合っているのは同じ」。体験を共有し、手を携えたいと願う。
 「私が被爆したのはこの辺りです」。十八日、東京都府中市であった原爆展。仲伏幸子(なかぶしゆきこ)さん(75)=府中市=が、広島市の地図で爆心地から約一・七キロの地点を指さした。
 一九四五年八月六日、自宅前の幼稚園で被爆。建物疎開で爆心地付近にいた母親は大やけどを負い、二日後に死亡した。自身は今、学校などで証言活動を続けている。
 二〇一一年三月、東日本大震災と原発事故が発生し、がれきの映像で広島の惨状を思い出した。募金や衣類を送り、一三年四月には、避難区域の福島県飯舘村や南相馬市を事故後初めて訪れ、短歌を詠んだ。「線量を測りつつ行く飯舘の人なき里に桜満ち咲く」
 「孤児の気持ちや、放射線被害者の苦しみは分かるつもり。何か力になり、励ますことができれば」。心を寄せ続け、今回の参加も迷わず決めた。
 広島で被爆した岡勝治さん(76)=板橋区=は、親戚宅に身を寄せた母親が「放射能がうつる」と疎外された体験を持つ。原発事故後に、避難先で福島ナンバーの車が敬遠されたとの報道にショックを受けた。「知識がないから差別が起こる」と話し、つらい気持ちを分かち合えればと思う。
 長崎で被爆した堀場和子さん(73)=多摩市=は、原発事故による被ばくを不安がる人を思いやる。生後八カ月で被爆した妹は、十九歳の時に突然亡くなった。「悪性リンパ腫だった。原爆の放射線による影響があったのだと思う」と堀場さん。
 被爆と原発事故の低線量被ばくとは違う。ただ「放射線の影響はいつ出てくるか分からない。国策の原発の被害者に対し、健康調査や補償などは国が責任を持って対処するべきだ」と訴える。
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