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『放射線被ばくの理科・社会』を批判する-著者らの考え方と人格権-via 福島原発事故後の日本を生きる

琉球大学名誉教授 矢ヶ崎克馬

第1章 誰が人格権を守るのか?
(1)はじめに

この論考は人権…特に人格権に視点を当て、放射線被ばく防護の考え方に限定して議論する。

なぜ人格権に基づく議論が必要か?

福島第一原子力発電事故は、国家的戦略上で原子力発電がもたらした公害である。それに今我々は直面している。原子力発電は必然的に漏れ出す放射線によりシステム的に(必然的に)発がん等の健康被害、犠牲者を生み出す。それをどう評価すべきかで国家戦略・核戦略上の都合や発電産業としての企業的功利主義が渦巻く。

特に原子力産業は世界的な支配力を誇る国際放射線防護委員会(ICRP)のALARA原則などにより手厚い「思想的保護」を受ける特殊産業である。必然的に放射線被害の受忍を強要する功利主義と、その中で生命を守り生活を維持するという人格権の根幹部分がどう守られるかのせめぎあいが展開する。

現状では、日本政府の姿勢を見る限り、民主社会における主権者が主権者としての声を上げない限り人格権は守れない。一見科学上の問題に見える健康被害の問題でも、今福島で、日本で起こっていることを経験的に見ると人道的視点無くしては正しい評価はできない。

その意味で、単なる「科学上の認識が問われる」だけでなく人権擁護の立場で論ずるかどうかが決定的に真の社会的意味を生じるところとなる。科学的に「都合のよい側面だけを取り上げる」ことにより、「科学」が人権そのものを破壊することと密接にかかわる。科学は誠実で正直でなければならない。

この分野で圧倒的な支配体制を持つ国際放射線防護委員会(ICRP)の考え方を『放射線被ばくの理科・社会』の著者たち、主として野口邦和氏がどう考えているかを確認しながら論考する。核兵器禁止運動に指導的な役割を果たすような著者たちが、民主主義の基本理念である人権を尊重し「個の尊厳」を大切にする立場で議論しているかどうかが、本論の課題である。

野口氏は第1章「福島は人が住めないのか」の項でICRPの「計画被曝状況」、「緊急被曝状況」、「現存被爆状況」等の概念を紹介し、ALARAの原則なども紹介する。それらは「美味しんぼ」の「危ないところから逃げる勇気を持ってほしい」を非難する等に用いられていることからICRP的世界観は野口氏の信念とするところと解釈される。

[…]【1】行為の正当化についてであるが、人が放射線に被曝する行為は、それにより、個人あるいは社会全体に利益がもたらされる場合でないと行うことはできないとするものである。行為の正当化を判断するには、被曝させる行為が健康被害(死亡も含む)などの害に比べて利益(公益)が大きいか、また経済的に適性であるかなどについて検討される、とする。

この原則の真実の意味は、害…すなわち発がんによる死亡などがシステム的に生じることを認知し、その上に立って、「害に比べて公益が大きい」あるいは「経済的に適正である」と一発電産業の営業行為による経済的利益とその行為による構造的健康被害・結果…殺人等の価値判断を対等物として天秤にかけて論じるという功利主義そのものである。功利主義思想の民主主義思想に対する大胆な挑戦であり、核産業の開き直りである。
[…]

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