人のにおいが消えた集落、荒廃したDASH村、にぎわう歓楽街……写真家が語る、百人百様「福島」の風景 via 日刊サイゾー

(抜粋)

そんな中、4月に『にっぽんフクシマ原発劇場』(現代書館)を刊行したのが、写真家の八木澤高明氏。彼は、震災直後から福島県双葉郡浪江町津島とい う小さな集落に足しげく通い、村を襲った現実にレンズを向けてきた。オールモノクロ、フォト・ルポルタージュという形式でまとめられた本書だが、いった い、彼が写し撮った現実とはどのようなものだったのだろうか? そして、そこから見えてきた原発事故被害の「本質」とは――。
――震災から4年以上の月日を経て、なぜこのタイミングで本書を発表しようと思ったんですか?

八木澤 2011年4月から、浪江町津島という地域に入り、継続的にそこの住民たちと付き合っていく中で、写真 を撮影してきました。写真家として、これらの記録を眠らせておくわけにはいかず、震災が風化している状況に対して一石を投じるというわけではありません が、この現実を伝えていきたいという気持ちがあったんです。

――「震災が風化している」というのは、東京で生活していると特に強く感じます。

八木澤 報道でも取り上げられることが少なくなっていますね。被災地以外に住む人は「もういいよ」と食傷気味に なっている感も否めない。また、取り上げられたとしても、震災の悲惨さばかりに目が向けられています。今回の震災には、もっといろいろな側面があるという ことを伝えたかったんです。

(略)

――八木澤さんが描写する利仙さんの姿からは、酪農という職業に対する強いこだわり、信念を感じます。

八木澤 彼らも信念があったからこそ、ギリギリまで避難しなかったんでしょう。当時、かなりの放射線量で行政か らは避難命令が出ていましたが、彼らは牛を残して避難しなかった。絶対に酪農を続ける、という強い意志があったんです。残念ながら、帰還困難区域で生活し ていた約30軒あまりの酪農家は廃業を迫られましたが、利仙さんらは今も本宮市に避難しながら酪農を続けています。

――ただでさえ儲かる仕事ではない酪農を、しかも福島で続けるのは、よほどの情熱がないとできません。

八木澤 彼らも多弁ではないので、その情熱は行動で感じるにすぎませんでした。事故後、集落の人々が避難してい る中、利仙さんの家では、毎朝早くから起きて牛舎を掃除して水や餌を与えていました。誰もいない村で、その淡々とした姿勢を貫けることに熱を感じました。 明日どうなるかわからないし、行政から「牛は避難させるな」という命令が出るかもしれない。その中で、淡々と日常を続けていたんです。

(略)

――また、本書には、同じく避難しなかった津島の住民として、勇夫さんの姿が刻まれています。彼の姿を見ていると、「故郷」に対する強い思いを感じずにはいられません。

八木澤 もう亡くなられてしまいましたが、利仙さんと同じく津島にとどまり続けた勇夫さんの姿はとても印象に 残っています。仕事もしておらず、普通に考えたら避難するはずなんですが、彼にとって血肉となっている故郷の姿、土地に対する思いがあったんでしょう ね……。勇夫さんの家に行くと、お酒を飲みながら家の前の庭に腰掛けてジーッと山を見ていました。何を話すわけでもなく、誰を待っているわけでもなく。た だ「いい風が吹いてくっど」ってポツリと言うだけ。山を見ながら、遠い昔を思い出していたのかもしれません。あの光景は忘れられませんね。

――それも、勇夫さんの日常だった。

八木澤 事故前も、そうやって山を眺めていたのかもしれませんね。津島の人々にとっては、風を感じ、山菜を山に採りにいくというのがささやかな日常だったんです。利仙さんの奥さんの恵子さんは「小さな世界だったけど、津島での生活は幸せだった」と語っていました。

――ある意味、原発事故がもたらした被害の本質が浮かび上がってくる言葉ですね。

八木澤 「お金(賠償金)が出ているからいい」という人も中にはいるかもしれませんが、彼らにとって津島という場所は、かけがえのない土地だったんです。

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