汚染された生を拒否する日本の方々への手紙/アルカディ・フィリンヌ via EchoEchanges

福島の災害により、フランスにおいても反核運動が少しだけ活気を取り戻しました。私たちも参加したノルマンディーでの二つの重要な結集を思い出しましょ う。2011 年11 月にはヴァローニュに800 人が集まり、ラ・アーグ「再処理」工場から出発する核廃棄物運搬列車を妨害しました。その数ヶ月後にはシュフレンヌ(Chesfrene)で、原子力発電 所からの送電を行う超高圧送電線の建設に反対するため組織された別の集まりがありました。弱々しくも再生しつつある闘争への貢献を願って、私たちは 2012 年の春に一冊の本を出しました。この本の関心はこの災害の社会管理、そして不可視性を組織する国家の論理にあります。あえて挑発的に『フクシマを忘れる (Oublier Fukushima)』と題されたこの本は、1986 年4 月26 日のチェルノブイリ原子力発電所事故との多くの類似点を証明しました。

この本の一部の日本語訳をみなさまへお届けします。1996 年から2001 年の間にベラルーシで実現された「汚染地帯の復興」を目指すところのエートスおよびCORE 計画についての詳細を述べたものです。その計画とは主にフランス人専門家を中心として行われた、事故後に避難が行われなかった汚染された村における社会的 容認の実験です。フランス人たちは住民に「放射能との共生を学ぶ」ための数多くの「慎重な振舞い」を日常に適用するよう求めたのです。その方法は、添付の テキストに記述されているように、住人の健康の改善にはまったく寄与していません。住人たちは病気を罹患し続け、死亡率は上昇を続けています。復興プログ ラムのもたらした主な効果とは、親たちに罪悪感を植え付けることです。専門家の忠告を十分に守らなかったから、と親たちは子どもの癌の責任を感じていま す。彼ら彼女らの多くは汚染された地帯を離れることができなかったのです。「汚染地帯の復興」は、汚染農地での生産の継続と生産品の流通を可能としました が、汚染の減少には何の役にもたっていません。

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広島、長崎、キシュテム、スリーマイルアイランド、チェルノブイリ、福島…歴史は繰り返します。勝ち誇る資本主義と原子力社会の発展を、災害が養うことを やめるのはいつのことになるのでしょうか?もしも日本の一部が、日常生活をほんの少し変えれば汚染地帯での生命/生活は可能であることの「生きた」証拠と なってしまったら、原子力施設の建設、放射性物質の運搬、核廃棄物の埋設場に対して残りの世界は何を言い、何をすることができるでしょうか?疑いなく、何 もできなくなってしまうのです。東京も含めた汚染地帯での状況を語ること、そしてそこからの脱走を呼びかけることは重要な争点なのです。避難を集団的に要 求し、国際的なものへとすることが政治的に必要であるとわれわれには思われます。それなくしては、フクシマの災厄と汚染地帯で生き残っている人々は、原子 力にとってかつてない最大の広告となってしまうのです。
避難が裏切りと見られることが少なくなればなるほど、国家の支配から解放される連帯を想像しやすくなります。福島で生産された品物の購入は連帯行動などで はありません。ヒエラルキーも、国家に期待することも、産業が提案する最新ガジェットもなしに、避難の必要性を要求すること、それに正しく貢献すること、 集団的に組織すること。それが連帯なのです。
この手紙は原子力およびそれが生み出す世界に対抗する闘争に参加する数十名の男女がフランス全土から集った会議において提案され議論されたものです。この 手紙は反原子力を闘い、日本の汚染地帯における生を少し変更して受け入れてしまうことを拒否する人々への招待状です。共通の闘いを導くための議論、出会い への招待です。あなたたちの反逆する声を国境を越えてフランスまで届けることは、急いでなされなければならないように思えます。フランスにおける原子力の 運命は日本のそれに極めて近いのです。

万国のヒバクシャよ、団結せよ!

アルカディ・フィリンヌ*

*『フクシマを忘れる』を共同執筆した三人の筆名。
連絡先はこちら:arkadifiline@yahoo.fr (英語かフランス語かドイツ語)

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One Response to 汚染された生を拒否する日本の方々への手紙/アルカディ・フィリンヌ via EchoEchanges

  1. norma field says:

    「避難を集団的に要 求し、国際的なものへとすることが政治的に必要であるとわれわれには思われます。それなくしては、フクシマの災厄と汚染地帯で生き残っている人々は、原子 力にとってかつてない最大の広告となってしまうのです。」

    ここに示されている考え方にかねがね同意してきましたが、福島に残るひとたちが原子力にとって最も効果的な「広告」となってしまう、という指摘にハッとさせられます。

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