『『核の安全』を日本はどのように学び覚えたのか――否認の政治』 on JapanFocus

学びにはいろいろな方法があるけれども、体験はとりわけ実りある教育をする教師である。現在、原子力がいかに危険でありうるのかを学んでいる日本人を例に考えてみよう。

日本にいる人びとが、核兵器による破滅的な体験もしていることは言うまでもない。これは、1945年に米国政府が原爆で広島と長崎を破壊したときだけではない。1954年の米国の水爆実験が、第五福竜丸という日本漁船に人の命にかかわるような放射性降下物を浴びせた時もそうだ、この事件で死者が出て、広範な核兵器廃絶運動が始まったのである。

第五福竜丸事件は、次のような米国の水爆実験の過程でおきた。1954年3月、米国原子力委員会(AEC)は最初の水爆実験を行った。AECが設定した危険区域は、ビキニ環礁(マーシャル諸島にあるこの実験地を米国は国連「信託統治領」として支配していた)を中心に、ニューイングランドとほぼ同じ広さの5万平方マイルに亘るものであった。しかし、予想に反して、実際の爆発は予想の二倍以上の威力であり、膨大な量の放射性物質を大気中に放出した。この放射性降下物から出る多量の放射線が、米国政府の設定した危険地帯の外側にあるマーシャル諸島に降り注ぐと、米国政府はまず米国の気象観測要員を退避させ、幾日もたってからマーシャル諸島の数百の島民を避難させた。島民たちは、白血球減少や放射線皮膚損傷、皮下出血、頭髪の脱毛を発症した。これらの島民の多くが、甲状腺ガンや白血病を含む被曝に関連する病気で命を落としていった。

続きは『『核の安全』を日本はどのように学び覚えたのか――否認の政治』から。

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