『「早く幼稚園にいきたいな」 怖さから解放され笑顔見せる子どもたち』 via いわき民報

いわき市内ニュース « いわき民報公式ホームページ(現在「いわき民報」サイトで記事が見つからないため、グーグルキャッシュより全文転載)

 「友達に会いたい」「早く家に帰りたい」――。未曾有(みぞう)の大地震、津波の被害を受けた市民に追い討ちをかけるように原発事故が発生した。自宅や避難所に逃れた被災者も一時の安堵(あんど)も得られず、放射能という「見えない恐怖」におびえ、被災者の疲労はピークに達してきている。逃げたくてもガソリンが手に入りにくい状態。一部が屋内退避区域となったいわき市民も何とか燃料をかき集め、多くの家族連れが市外に避難し、先の見えない恐怖と闘い続けている。

 自らも取材中に四倉町で津波に車を流され、江名で被災した記者は「古里を離れた被災者の現状を読者に伝えたい」と、避難した会津若松市の保養施設近くの葵高で取材することにした。避難所の同校体育館にも、多くのいわき市民の姿があった。
 避難所スタッフの1人、同校の男性教諭(57)によると、同校では教職員をはじめ、県職員ら約10人が交代し、不眠不休で避難者のケアにあたっている。震災直後から沿岸部の被災者が次々と押し寄せた。福島第一原子力発電所の3号機で水素爆発が発生した翌日の15日にピークに達し、約350人の被災者が避難所に駆け込んだ。
 ここでは、同校PTAやボランティアなどが食料や日用品などを無償で提供。1日3度の食事も用意し、午前10時には避難者が率先して、避難所の清掃活動をしている。19日からは、もう1つある体育館を子どもたちに開放。同校の体育教師らが子どもたちとバドミントン、バスケットボール、卓球などを楽しみ、子どもたちの心のケアに努めている。
 しかし、ここの避難所もいいことばかりではない。同市では避難者の受け入れ態勢を万全に整えた。そこで新たな問題が浮上した。県は被ばくの有無を調べる「スクリーニング」をしていない被災者に対し、避難所への受け入れを拒否したという。
 「県はいったい何をしているんだ」。教職員たちは行政に不満をぶつけた。祈りが通じたのか、県はやっと重い腰を上げ、乗り合いバスを調達。避難者全員が検査をし、被ばくしていないことを確認すると、被災者もスタッフもすべてがホッとした表情を浮かべたと振り返る。
 避難所となった体育館には、家族と避難した多くの子どもたちがいた。それぞれ2人の小さな子どもを持つ小名浜から避難した主婦2人は、「やっと、子どもたちが地震などの怖さから解放され、笑顔を見せてくれた」と笑った。一緒に避難した彩音ちゃん(2)は「大丈夫」と問うと、よちよち歩きで記者に近付き、にっこりとほほ笑んだ。
 平の夏井地区から家族7人で避難した男性(64)は、愛犬や猫を残してこの避難所に逃げ込んだ。妻(61)は大好きなペットたちを残しておけず、自宅にとどまったという。
 「子どもたちの安全を一番に考え、避難した。ここの先生方やボランティアの皆さんには感謝しても感謝しきれない」と男性は頭を下げた。横にいたのは、孫の亨奈ちゃん(4)。女の子らしく〝おかあさんごっこ〟が大好きだという亨奈ちゃんは、自分より小さい幼児や乳児の面倒をみる。すっかり母親役が板についてきた亨奈ちゃんだったが、時折子どもの表情を浮かべる。「早く幼稚園にいきたいな」
 見覚えのある顔があった。原発そばの富岡町からこの避難所に駆け込んだ男性(62)は、花木を育てて約40年。いわき市内で青空市を開催する際、弊紙にも広告を出していただき、記者が営業部に在籍していた時、お世話になった。
 地震直後、平体育館に2日ほど身を寄せたが、食料や水もなく、与えられたのは毛布1枚。行政に対して不満をぶつけたい衝動をこらえ、「仕方がない」と同校に避難した。いまは同校スタッフの対応に「ここは別天地」と大喜び。だが、すぐに表情を曇らせた。「今年のユリは生育がよさそうで楽しみにしていたが、もう無理だ。商売替えだよ」と瞳を潤ませた。
 帰り際、取材許可をいただいた避難所スタッフの方々にお礼を言うと、あの男性教諭が「記者さん」と声をかけた。「ここにいる被災者だけでなく、県内の多くの避難した人の生活がよくなるような記事を書いてください」と切実に訴えた。

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