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「原発ゼロ社会」は選択の問題ではない。不可避の現実である via 日経ビジネスオンライン

9・11学術会議報告書の衝撃 (中略) 田坂:「原発ゼロ社会」というのは、「政策的な選択」の問題ではなく、「不可避の現実」だという問題です。 いま、政府、財界、メディアを含めて、「日本という国は、原発ゼロ社会をめざすべきか否か」という論調で、あたかも、「原発ゼロ社会」というものが「そ れを選ぶか、否か」という「政策的な選択」の問題だと思い込んでいるのですが、実は、「原発ゼロ社会」とは、好むと好まざるとに関わらず、否応なくやって くる「不可避の現実」なのです。 残念ながら、いま、政府も財界もメディアも、その一点を完全に誤解して議論をしています。 なぜ、「原発ゼロ社会」が「不可避の現実」なのでしょうか? 田坂:原子力発電と核燃料サイクルが抱えてきた最も致命的な「アキレス腱」が切れてしまったからです。 「最も致命的なアキレス腱」とは? 田坂:高レベル放射性廃棄物と使用済み核燃料の「最終処分」の問題です。 この最終処分の問題は、昔から「トイレ無きマンション」という言葉で、原発推進に反対する方々から批判されてきた問題です。要するに、原子力発電と核燃 料サイクルから発生する「ゴミ」を安全に捨てる方法が確立されないかぎり、いずれ、原発は稼働できなくなる、という問題です。 世界が壁に突き当たる高レベル廃棄物の最終処分 田坂さんは、その「高レベル放射性廃棄物と使用済み核燃料の最終処分」の専門家でもありますね? 田坂:ええ、私は、40年前に「原子 力」というものに人類の将来のエネルギー源としての夢を抱き、原子力工学科に進み、原子力工学で学位を得た人間です。そして、その博士論文のテーマは、ま さに、この「高レベル放射性廃棄物を、どのようにすれば安全に処分できるか」というテーマでした。 そして、この問題の解決策を見出すために、1987年には、米国のパシフィックノースウェスト国立研究所の客員研究員になり、米国の高レベル放射性廃棄物最終処分プロジェクトである「ユッカ・マウンテン・プロジェクト」にメンバーとして参加したのです。 (中略) しかし、財界の人々は、「原発は、コストの安い電力だ」「原発の安全性は、十分に高められる」という理由で、原発の再稼働と原発の存続を主張していますね? 田坂:私も、かつて、原発推進の立場に 立っていた人間ですので、財界の方々が、そう主張する理由は分かるのですが、仮に、原発の発電コストがどれほど安かろうとも、また、絶対事故を起こさない 原発が開発されようとも、この「高レベル放射性廃棄物と使用済み核燃料の最終処分の方法が無い」という、ただ一つの理由で、原発は、早晩、稼働できなくな るのです。 実際、いまでさえ、全国の原発の使用済み核燃料保管プールの満杯率は平均70%にも達しており、原発稼働に伴って膨大に発生し続ける使用済み核燃料を貯蔵する場所の確保も、極めて難しい状況になっているのです。 その現実を、今回の学術会議の提言は、極めて厳しい形で、我々に突きつけたのです。 (中略) 田坂:端的に申し上げれば、「原発に依存できない社会」がやってくるのです。 これまで、「脱原発依存」という言葉は、「原発に依存しない社会」をめざす、という意味に使われてきましたが、実は、我々の目の前にあるのは、「原発に依存しない社会をめざすか否か」という「政策的な選択」の問題ではないのです。 それは、「原発に依存できない社会がやってくる」という「不可避の現実」なのです。 すなわち、この高レベル放射性廃棄物と使用済み核燃料の最終処分の問題に解決策を見出さないかぎり、「原発ゼロ社会」は、選択するか否かではなく、否応なく到来することになるのです。 実は、「コストの安い原発は捨てるべきではない」「日本経済に原発は不可欠だ」と主張する方々の議論は、「今後も、原発に依存した社会が可能である」という「幻想」に立脚した議論になってしまっているのです。 全文は「原発ゼロ社会」は選択の問題ではない。不可避の現実である

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